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大正時代にすでに帝国憲法に反して郵便検閲は開始されていた。
『大日本帝国憲法』第26条には「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ」とあるが、法律の定めもなく、検閲が開始されていた。戦後のGHQ/SCAPによる郵便検閲以前に、戦前、戦時下には内務省、軍による郵便検閲が行われていたのである。遞信省篇『逓信事業史』第3巻(1960(S35).12)226頁には次のようにあるが、実態の解明は進んでいない。

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 郵便物の検閲は、今次の戦争中にはじまったのではない。すでに、日清。日露の戦争を通じて、わが国の資本主義はしだいに形成されていったが、わけても日露戦争の勝利を契機として、政府は台頭してきた社会主義思想の抑庄を開始しなければならなかった。その方法として、内務省からの来牒にもとづき、思想上注視を要する特定人の発着通信に対し、極秘のうちに検閲を行うことになった模様である。この検閲は、大正期にはいってからは、ますます厳重さを加え、七―八年ごろには検閲要員をおき、一二年二月には、警視庁特高係警部補を逓信省兼務として、毎日出省して通信の取締にあたらせることにした。たまたま、昭和四年、地方新聞に通信取締に関する記事が掲載され、これが動機となり、逓信省は内務省と協議したうえ、特定人に対する通信取締は全廃することになったが、一般通信に対する取締は、郵便局取扱の際における種別・料金等の検査、不能還付郵便物としての処理、その他の機会において思想宣伝等の不穏文書等のありなしを調査させることにしていた(注)。

(注)昭和二年二月、「二・二六事件」のとき、東京市に「戒厳令」がしかれ、郵便物の開封を実施したことがある。その際、東京中央郵便局に「臨時郵便物検査部」が設けられた。検閲には憲兵が直接あたり、郵便官署はタッチしなかったが、戒厳中(一四二日間)に検閲した郵便物は一〇四〇万通、このうち開封したものは七五万通に達した。

戦時下における郵便物の検閲 
逓信省で行った郵便物の正規の検閲は、後記の「臨時郵便取締令」にもとづいたものであったが、それ以前には軍におけるちょう報活動資料収集に協力するため、昭和一三年下期ごろから軍の指示により極秘のうちに特定人の間に発着する郵便物を、一部の郵便局で引き上げ、軍に提供してから還付を受け、送達していた模様である。「臨時郵便取締令」は、太平洋戦争直前の昭和一六年一〇月三日、緊急勅令をもって公布、即日施行された(注)。

(注)〈略〉
 

 菱沼村(現、神奈川県茅ヶ崎市の一部)出身の太田タケ(添田タケ1881(14)1910(43))は女性の社会運動家の最初期の人物です。『東京朝日新聞』の一九〇六年(明治三九)九月一二日の記事に次のようにあります。

 

  神田錦輝館前にて婦人の検束されしもののある事は別項二面に記せしが右は添田平吉妻竹子(二十五)(中略)にて同時に社会党の堺枯川氏の妻為子(三十五)も神田署に検束せられたり

 

当時は「治安警察法」第五条によって女性の社会運動参加は禁止されていました。そのため、初期の社会運動に参加した女性は男性社会運動家の縁者ばかりでした。新聞記事中の「堺枯川」も「堺利彦」の雅号です。

では、一九〇六年(明治三九)の九月、神田錦輝館前では何が行われていたのでしょう。当時の警察の元締めの内務省警保局の極秘文書『社会主義沿革』[1]には次のようにあります。

 

 十一日、電車問題同士聯合会は神田錦輝館に於て第二回市民大会を開くや、社会党員は同会場外其の他に於て前記「ボイコツト運動」と題する印刷物を配布し、其の状況 ( いたずら )に市民を激昂せしむるの ( おそれ )ありたる、関係者数名にして行政執行法検束へたり

 

 つまり「電車問題」――当時の電車賃値上げ反対運動に参加して「検束」(逮捕)されたのです。

 背景を説明しましょう。一九〇六年(明治三九)一月二八日、堺利彦(枯川)らは「日本社会党」を結成します。三月十一日、十五日、日本社会党は電車賃値上げ反対の市民大会を日比谷公園で開きます。一五日には暴徒と化した群集が鉄道会社や市役所に投石するなどして首謀者が逮捕、起訴されましたが、七月九日東京地裁は無罪とします。しかし検察は控訴し、控訴審中に「第二回民大会」が開かれました。なお、この三月の事件は控訴審の結果一九〇八年(明治四一)六月には有罪判決になりました。

 値上げ反対の市民大会は九月五日、十一日にも開かれ、『朝日新聞』の記事は十一日の市民大会に関するものです。五日の日比谷公園および本郷座での市民大会でも群集は暴徒化し、各所の電車を襲い、数十両の電車に投石、放火し、六〇余名が検束される大騒擾となりました。十一日の添田タケらの官憲による検束はこのような緊迫した空気のなかで行われたものでした。

 女性の社会進出、女性解放運動は1911(44)創刊の雑誌『青鞜』によって本格化し、女性の政治参加を禁じた「治安警察法」第五条の改正運動が結実するのは1922(11)となりました。

 社会運動史研究者によって唖蝉坊の戸籍名の平吉があまり意識されていないのでしょうか、添田タケの名はまったく埋もれています。婦人参政権や男女同権があたりまえとなった今日、改めて再評価されるべきでしょう。堺利彦の妻の堺為子や、娘の堺マカラ(近藤真柄)の資料などに埋もれているであろう添田タケの掘り起こしが今後の課題となります。



[1] 一九〇八(明治四一)年七月現在。所收『続・現代史資料1社会主義沿革1』みすず書房、一九八四(昭和五九)年、二三頁。引用は本書によります。茅ヶ崎市立図書館にも所蔵されています。


(初出 湘南を記録する会『添田唖蝉坊・知道親子展資料集』2013.03.31。一部補記。)
【雑誌論文発表 PDF公開】

水沢不二夫「検閲官生悦住求馬小伝」

『湘南文学』第47号 東海大学日本文学会 2013年(平成25)3月25


★拙著『検閲と発禁』所収のため、公開を中止しました(2016.12.17)。

http://www.geocities.jp/kafuka1964/ikz.pdff


修正
2013.05.25 近代文学会で森氏よりリンクとPDFの不具合の指摘を頂きました。
対処可能なリンクの不具合のみ、取り急ぎ対処しました。


※以下は2011年10月に神奈川県茅ヶ崎市の市立図書館における川上音二郎関係の展示のために書下ろしたものである。論文化の予定がないので、ここに再掲する。 
 
■■川上音二郎のオッペケペー節とは?
 
● オッペケペー節を歌うまで
川上音二郎「オッペケペー節」をどこかで聞いたことのある人は多いでしょう。しかし、何を言っているのか意味がよく分からない、というのが正直な感想ではありませんか。
結論を先に言えば意味はよく分からなくていいのです。いえ、むしろ当時は意味が分かるものであったら、逮捕されてしまったのです。自由民権運動への弾圧を逃れてオッペケペー節は成立しているのです。
川上音二郎は明治維新の四年前の一八六四年(元治一)に博多で生まれました。音次郎は一八七八年(明治一一)に家出をして、大阪、東京へと流浪し、福沢諭吉の書生になるなど、職を転々としました。
一八八三年(明治一六)頃から、「自由童子」と号して、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行い、度々検挙されました。一八八五年(明治一八)には講談師の鑑札を得て、寄席に出はじめます。ニワカ芝居(関東で言う茶番劇)という検閲を受ける義務のない即興芝居もやりました。やがて浮世亭◯◯と号して、一八八八年(明治二一)の秋にオッペケペー節を寄席で歌い始めたのです。
● 寄席の規制――座芸での歌
江戸時代から寄席では演劇まがいの出し物が禁じられていました。明治になり、東京では早くも一八六九年(明治二)十月に寄席での「歌舞伎ニ同ジキ所作芸ヲ禁ズ」とされ、一八七七年(明治一〇)二月には「寄席取締規則」により全国で「演劇類似の所作」が禁じられます。カツラや大道具の使用も禁じられました。
つまり、音二郎は寄席で立ち上がって演劇のような動作を行うことができなかったのです。怪談『牡丹灯籠』で有名な三遊亭円朝は道具を捨て、扇子ひとつで所作をこなす素話(すばなし)に絞っていきました。近代の落語の源流です。その速記の新聞連載は言文一致体の初期のものでもありました。
イメージ 2● 心に自由の種を蒔(ま)け
一八七七年(明治一〇)一〇月には「寄席取締規則」が改正され、「安寧ヲ害シ、正邪ヲ誤リ、倫理ヲ乱リ、其他(そのほか)醜猥ノ所為」が禁止され、やがて盛り上がってくる自由民権思想はこれに該当するものとされました。
一八八〇年(明治一三)の集会条例は「政治ニ関スル事項ヲ講談論議スル為公衆ヲ集ムル者」を厳しく規制し、許可制としました。結果、観物場、寄席、劇場のいずれでも政治の論議ができなくなります。この集会条例によって音二郎にも国内での政治演説の禁止が命じられました(明治二三年に集会及政社法に改訂)。
つまり音二郎は『オッペケペー節』で自由民権思想が伝達される明快な文脈を持つ歌詞を使うことができかったのです。意味の分かる内容を歌えなかったのです。あえて意味を不明瞭にしているのです。雰囲気と、「オッペケペー」という擬態語をお楽しみください。

権利幸福嫌ひな人に、自由湯をば飲ましたい、オツペケペーオツペケペツポーペツポーポー、
固い上下の角取れて、マンテルズボンに人力車、意気な束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで、うはべの飾りは好いけれど、政治の思想が欠乏だ、天地の真理が分らない、心に自由の種を蒔け、オツペケペオツペケペツポーペツポーポー
 
 
■■オッペケペー節から壮士芝居へ
 
●寄席芸から書生芝居へ
音二郎は一八九〇年(明治二三)の夏に横浜に来て、港の近く(現在の中区伊勢佐木町)の寄席の丸竹亭に「滑稽新作落語 浮世亭○○」という看板を立てました。しかし、客入りは悪く、一座の給金や弁当屋さんへの支払いも滞ってしまいました。そこで音二郎は関西から役者を呼んでの書生芝居を思い立ちますが、資金がありません。困っているところに同じ自由民権運動の講談師伊藤痴遊(後に衆議院議員)が訪ねてきます。事情を話すと痴遊は親交のある蔦座の興行師に紹介し、音二郎は上限二百円の約束で資金を借りることができました。
● 劇場開幕
 八月二四日に幕を開けました。演目は『松田道之名誉裁判』(注1)などで、これが関東における壮士芝居の始まりでした。痴遊の幼なじみの吉永良延(よしながよしのぶ)という売薬業者・出版人からは「大旗の寄附」(注2)があったそうです。音二郎は後に吉永良延の斡旋で茅ヶ崎に土地を買い、住むことになります。痴遊もこの芝居の幕間に出て演説し、オッペケペー節も演じられました。劇場でのオッペケペー節は「座員が、十名余りズラリと並んで」、音二郎は「陣羽織に後鉢巻の扮装」で、「三味線や太鼓に合わせて、時局を風刺した歌を、面白く唄うので、大受けに受けた」(注3)そうです。音二郎の芝居の脚本は壮士芝居を始めた角藤定憲に倣って新聞の事件報道を種にしました。当時は政党運動の隆盛期で、芝居は民衆の支持を得て、大入りになりました。音二郎はいよいよ東京に乗り込むことになりました。東京の劇場は東京での実績のない音二郎を最初は拒絶しましたが、九代市川団十郎の支持も得て次第に受け入れられました。歌舞伎役者の団十郎は弟子たちを率いて音二郎の芝居を見に来ました。団十郎は一八九七年(明治三〇)に茅ヶ崎の別荘に移り、最期まで茅ヶ崎にいました。
●硯友社尾崎紅葉の激怒
〈著作権〉は当時は出版の権利の〈版権〉と演劇脚本や楽譜の〈興行権〉とに分れており、しかも届出制でした。脚本や楽譜を出版する場合には「興行権所有」の五文字を印刷していなければ権利を主張することはできませんでした(「脚本楽譜条例」)。当時、芝居の脚本は座付(ざつき)作者(専属作家)が座員の個性が生きるように作っていて、現代のように小説を芝居や映画などの原作とするような文化はなかったのです。
 一方、当時の小説は江戸期からの仮名垣魯文らの戯作文学から尾崎紅葉を中心とする硯友社や幸田露伴の活躍するいわゆる〈紅露時代〉へと変わりつつありました。そして尾崎紅葉は弟子の泉鏡花の『義血侠血』(『読売新聞』連載)を一八九五年(明治二八)に出版してあげましたが、もちろん「興行権所有」との印刷はありません。音二郎はこれに眼を着け、紅葉に無断で『瀧の白糸』と改題して上演しました。紅葉は激怒しましたが、音二郎は新聞に謝罪広告を出しただけでした。そのような確執もありましたが、近代小説を脚本に使い始めた音二郎の功績はもっと高く評価されるべきでしょう。紅葉の『金色夜叉』を初めて舞台化したのも音二郎でした。
●江見水蔭への接近
 音二郎は衆議院議員選挙に落選したりしつつ全国を回りました。やがて一座で欧米に行くと一九〇〇年(明治三三)のパリ万博で絶大な評価を得ます。妻の貞奴の踊りは多くの人々を魅了しました。音二郎は帰国後、団十郎のいる茅ヶ崎に居を移しました。そして硯友社の江見水蔭に当時としては破格の千円の脚本料を提示し、シェイクスピアの『オセロ』の翻案を頼みました。これは大変な話題になりましたが、音二郎の紅葉との和解と広告とを兼ねた策略だったのかもしれません。
 
■■硯友社の江見水蔭とは?
 
● 硯友社という文学結社
硯友社と言っても会社ではありません。明治憲法でも結社(団体)の自由は認められてましたが、「法律ノ範囲内ニ於テ」という限定がありました。法律が憲法よりも優先される憲法だったのです。
文学の愛好家グループでも数人が集まって懇談するならば、集会条例(明治二三年に集会及政社法に改訂)よって議題や出席者等の届出、警察官の臨席、その警察官のその場での判断による中止命令の遵守義務などがありました。そこで尾崎紅葉は結社名を硯友社とし、社則を作り、文学結社として届け出ました。それでも警察は時々政治論議が行われていないか確認に来ました。
尾崎紅葉は硯友社を山田美妙、石橋思案、丸岡九華と始め、やがて川上眉山、巌谷小波(いわやさざなみ)、江見水蔭が加わり、広津柳浪、泉鏡花、小栗風葉なども紅葉の弟子となって文壇の大勢力になります。
●水蔭と音二郎との出会い
 江見水蔭(えみすいいん)(一八六九年(明治二)〜一九三四年(昭和九))は岡山で生まれ、軍人を志して上京しましたが、文学に惹かれていきました。知人となった巌谷小波(いわやさざなみ)の紹介で一八八八年(明治二一)に二歳年上の尾崎(おざき)紅葉(こうよう)に会い、硯友社(けんゆうしゃ)に入りました。翌年には本格的に文筆活動に入り、一八九二年(明治二五)には江水社を起こし、田山花袋(かたい)らが弟子になりました。代表作である『女房殺し』や『泥水清水』はこの頃の作です。『女房殺し』は嫉妬の果てに妻を殺してしまうという筋で、〈悲惨小説〉と言われるものでした。
 ところが水蔭には浪費癖があり、高收入にもかかわらず、生活が破綻してしまいます。仕方なく、借金を精算し、物価の安い田舎――藤沢の片瀬に来てしばらく暮らしました。それでも浪費癖は直らず、紹介で一八九八年(明治三一)に『神戸新聞』の記者となり、劇評などを書く仕事を得ました。
 音二郎も東京での人気が衰え、選挙に敗れ、貞奴と小舟で神戸に来ました。各紙に音二郎批判が載るなかで、水蔭だけは音二郎を擁護する記事を書きました。
 水蔭は博文館という当時の大きな出版社の編集者をしていた巌谷小波(いわやさざなみ)がドイツに遊学する代役として一九〇〇年(明治三三)に東京に復帰しました。自らも少年小説を書いて再び人気を得ました。少年達が片瀬から茅ヶ崎の烏帽子岩を船で探険する『姥島探険記』なども書きました。
 そんな時にパリの万国博覧会で絶大な人気を得た川上音二郎が帰国して訪ねて来ました。そしてシェイクスピアの『オセロ』という嫉妬の果てに妻を殺してしまう筋の悲劇の脚本を水蔭に依頼しました。脚本といっても翻訳ではなく、日本人に受け入れられるように舞台をベニスから東京の駿河台に移したりした翻案でしたが、日本での初演になりました。
●水蔭の茅ヶ崎来訪と『霙(みぞれ)』
 一九〇三年(明治三六)、水蔭は出来上がった脚本を持って茅ヶ崎の音二郎邸を訪ね、『オセロ』の稽古に借りられた茅ヶ崎館という旅館(中海岸に現存)に来ました。そこで後に藤蔭静枝と名のることになる若い娘さんを紹介されます。静枝は当時は一座の女役者(市川九女八(くめはち))の付き人でした。静枝は元は芸妓で、後に作家の永井荷風と結婚(すぐに離婚)したりと恋多き女性でした。晩年には日本舞踊の一派を起こし、藤蔭流の祖となりました。
 水蔭は脚本の一通りの読みを済ませると東京の自宅に帰りましたが、若い静枝との浮気のウワサが流れました。そこで水蔭は『霙(みぞれ)』という小説を書いてウワサを否定しました。『霙』には当時の茅ヶ崎駅や茅ヶ崎館、茅ヶ崎海岸などが描かれているため、二〇一一年一〇月二五日の朗読会開催となりました。 (文責水沢)
注1 『国民新聞』八月二八日。
注2 『千草園』八号、三四頁。一八九〇年(明治二三)九月。
注3 伊藤痴遊『痴遊随筆』一誠社、一九二五年(大正一四)、三〇三〜四頁。
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旧南湖院正門脇の石碑

 現在は老人ホーム「太陽の郷(さと)」の奧に移設されているが、かつては正門脇にあったという。
 以前から碑文の飜刻を願っていたが、本日その機会を茅ヶ崎市文化推進課の公開講座によって得た。
 当初はガイド予定になかったようだが、解散後しばらくしてから講座に参加したご老人が太陽の郷職員に願い出て案内された。
 一九三八年(昭和一三)の碑文で、内容は一見難解だが、『旧約聖書』のイザヤ書に見えるダビデへの王権神授と、日本の『日本書紀』『古事記』における神武天皇の登場が同時期であることのみを根拠に両者を同一視する高田畊安独自の思想に基づいている。
 高田畊安は結核療養所の南湖院において一九三五年(昭和一〇)から一九四二年(昭和一七)にかけて『南湖院一覽』という年鑑を発行している。内容は毎年少しずつ増え、一九三九年(昭和一四)クリスマス(十二月二十五日)発行のもの以降は、「政治と宗教の二面ありて、政治権力は神武皇室に在り、又宗教倫理はイエス基に在りて發現せらる。」という記述が加えられ、内務大臣による発売頒布禁止処分を受けている。委細はhttp://www.geocities.jp/kafuka196402/na/na参照。
 石碑は印刷物ではないので、出版法にも新聞紙法にも関係しない。人物像ではないので形像取締規則等にも牴触しない。一九四五年(昭和二〇)二月、高田畊安は最期に藤沢警察署の特別高等警察に呼び出され、帰宅三日後に亡くなっている。容疑の記録は未発見だが、特高が動いたのは畊安の反戦思想とこの石碑にみられるような思想に対する不敬罪容疑だっのではないか。
石碑の完成、除幕の年月日の解明も課題である。満州事変等の中国大陸での軍部の独走に対して政府は不拡大方針を掲げ、検閲の基準にも「戦争挑発の虞ある事項」(年次報告書『出版警察概観』)があげられていたが、一九三九年(昭和一四)にはこの条項は削除されている。削除の日付も不明であるから、除幕式の日付が分っても判明しないのだが、戦争か平和か、という議論が盛んに行われていたなかで、その理路は珍奇にしても、平和を堂々と宣言し続けた姿勢には敬意を表したい。
 
以下、碑文(表裏)の飜刻。
 
【表面】
イエサヤ豫言
 第九章五及六
神武天皇及皇國に關はる聖書の豫言
一兒は吾等の為に生れたり 一男子は
吾らに賜ひたり 其の肩上に統治の政
權は降さる 其の名は神智神武恒久の
父平安の主と稱へらるダビデの王位の
上に統治の政權は増し加はり 又其の
王國の上に平和幸福は窮りなし 彼は
正義と公道を以て之を立て且つ強め今
よりして永遠に至る全能の主の執心は
斯の事を成就したまふへし
  南湖院長醫學博士高田畊安謹譯
  昭和十三年五月 岡田起作謹書
 
【裏面】
 高田畊安 曽孫 増田守正 同竹子 二男 高田畊安
 勝 海舟  孫 疋田正善 同孝子 長女 同 輝子
 
 
※ 写真は一部映像処理をしています。転載不可。 著作権所有:水沢不二夫
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