越後上杉毘沙門堂

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越後上杉毘沙門堂

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ブログ内容:山城屋源吾朗が贈る≪越後上杉家≫ゆかりの山城/史跡/古城の検分結果記録
上杉謙信公は、戦国時代において領土侵略合戦ではなく、唯一“義戦”に明け暮れた戦国武将!!!
野戦において生涯無敗で“越後の龍”とも“越後の虎”とも呼ばれ、諸国の武将に恐れられていました。自ら毘沙門天の化身と信じ、世から軍神とも闘神とも謂われた「戦国最強武将」です。この「越後上杉毘沙門堂」は、主に≪越後上杉家≫所縁の山城/古城(越後領内)史跡(越後領内)などの検分結果を綴った記録ブログです。現在はFacebook版越後上杉毘沙門堂で簡易的に運営しています。
※親ブログのげんごろうハウスが管理しています。


栃尾城麓の秋葉神社の上杉謙信公像
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越後領外(現・新潟県外)の越後上杉家ゆかりの[山城/古城/史跡]のレポートや、その他の
越後上杉家ゆかり以外の全国の[城郭/山城/古城/史跡]巡りも併せてご覧下され。(書庫参照)


越後上杉家は「上杉定実」の代で一旦断絶しますが、後に越後国主の長尾景虎が関東管領就任と共に上杉姓を名乗り、再興を果たします。以降の越後上杉家は≪長尾上杉家≫とも呼ばれています。
上杉謙信公は、元々旧守護越後上杉家の四家老(長尾、斉藤、石川、千坂)の長尾家の生れです。
幼名は「虎千代」、父の為景の下剋上を経て、元服後は「長尾景虎」と名乗り14歳にして戦国武将としてデビューし、争乱止まぬ越後国の統一を期待され、満を持して19歳にして春日山城の主(越後守護代)、21歳で越後守護職(越後国主)となり、以後幾多の戦さを戦い抜き32歳の年に関東管領の職に就いた折りに「上杉政虎」と名乗ります。世に有名な≪第四次川中島の合戦≫は、「上杉政虎」の時代です。後に当時の将軍義輝から一字を貰い受け「上杉輝虎(藤原輝虎)」と改め、春日山林泉寺の益翁宗謙(やくおうしゅうけん)のもとで参禅し師から一字を取って、41歳の時に「不識庵謙信(上杉謙信)」と称し、45歳で剃髪して法印大和尚になったのです。そして、義は永久かつ絶対であり、義とは、人が人であることの美しさであると説く“越後の龍”こと「上杉謙信公」は、自らが毘沙門天の転生であると信じ49歳の生涯を病で終えるのであります。

生誕 享禄3年1月21日(新暦1530年2月18日)みずがめ座
死没 天正6年3月13日(新暦1578年4月19日)
※ 誓文の血判から判定された血液型はAB型です。
※ 上杉謙信軍団の戦闘時には、≪毘≫と≪龍≫の文字の旗が立てられます。
   「刀八毘沙門天の旗」は上杉軍の旗印で軍神毘沙門天を指し、敵と対峙している時に掲げ
   「懸かり乱れ龍の旗」は全軍総攻撃の際に掲げられ不動明王を指しています。

※ 本ブログのタイトルの脇に有る紋は、
    左側は、長尾家の家紋で「九曜巴(くようともえ)」紋
  右側は、上杉家の家紋で「竹に飛び雀」紋 

※ 不職とは『自分の力・やり方に価値が有るんだと拘っているのではなく、自分の行いや価値など
  識らなくても良いこと!拘りを捨て、あるがままに生きなさい!』と言う「益翁宗謙」和尚から
  の教えで、謙信公は、この頃から京を目指したと言われています。


【 謙信公時世の句 】
 一期の栄え 一杯の酒
 四十九年 一酔の間
 生を知らず 又死を知らず
 歳月ただこれ 夢のごとし
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒 自分の一生の四十九年は一眠りの夢のようにはかないものでこの生涯で極めた栄光も結局は一杯の酒のようだった。


【 謙信公人生訓〜常在戦場の心得 】
 運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。 
 何時も敵を掌にして合戦すべし。疵つくことなし。
 死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。
 家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。
 帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、
 武士たる道は不定と思うべからず。 必ず一定と思うべし
運命は天が決めるものであり鎧は自分の心がある胸を守るものであり手柄は戦場でどれだけ動くかで決まる。どんな時も敵全体を把握して手玉に取って戦え。死ぬつもりで戦う者は生き残り、生き残るつもりで戦う者は死ぬ。運命は天が決めるものであるが、変えられないものではなく、「運命には逆らえない」と思うのは間違いである。武士であるなら「自分が進むべき道はこれ以外にない」と覚悟して、自分で自分の運命を決めるべきである。


≪お断り≫
上記記述の中の「生涯無敗」についてですが、実際は、国内最大の激戦と言われている
永禄4年9月10日の武田信玄との“第四次川中島の合戦”直後の上杉軍の戦力弱体の中、
その隙を突かれ関東遠征を余儀なくされた永禄4年11月27日の北条氏康軍との“生野山合戦”が、
謙信公が自ら軍勢を率いた野戦での生涯唯一の敗戦となっています。
しかし、この戦さは謙信公自らの指揮であったかどうかは議論の余地を残しています。

また永禄9年3月の臼井城攻略戦での敗北は、相手側の籠城による無理な総攻めによる城攻めなので
野戦における黒星としては、カウントしておりませぬ。(謙信公側の主張)
ただし、この合戦も一次資料による裏づけが存在しないため、議論の余地を残しています。
※ 徳川家康公と同様に、野戦に強いが、長期の篭城戦には弱かったようです。

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