越後上杉毘沙門堂

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【与板城】上杉景勝の右腕“愛と義”の武将≪直江兼続≫の居城

2008.03.09登城 越後の英知:直江兼続の居城【 与板城 】
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与板は戦国時代、上杉謙信の重臣、直江氏三代(実綱、信綱、兼続)の城下町です。

居城の与板城は、通称『 城山 』と称し標高104mの全山全て自然の城郭をなしている

豪壮な山城であります。登城口から、凡そ20〜30分位で本丸に着きます。

慶長3年(1598年)上杉景勝の会津移封で直江兼続も米沢城に移り廃城となりました。

越後の統一と発展に尽くした第一人者「直江兼続」は“愛と義”に生きるイケメンだったとされ

兼続の容姿は「長高く、姿容美しく、言語晴朗なり」と伝えられています。

背が高く、体つきもがっしりしていて、頭脳明晰。そんな姿が浮かび上がります。

そして戦さには「愛」の文字が光る兜をつけて臨んでいました。

戦国武将の兜には、その武将が信仰している神仏にちなんだもの(前立て)をつけることが多く、

兼続の「愛」の文字は、軍神である愛染明王の一字を取ったものと考えられています。

2009年NHK大河ドラマ ≪ 天地人 ≫ は、この直江兼続が主人公ですね!

明朗活発な「直江兼続」役は妻夫木聡さん、寡黙でクールな「上杉景勝」役は北村一輝さんです。

直江山城守兼続の概略については最後に説明するとして・・・

我が城(自宅)から、愛馬で10分位の残雪がたくさんある与板城郭をレポートいたします。


与板城城郭外略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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城下の与板町です。与板の方には悪いですが有名な大判焼き屋さん付近だけに人が居ます。
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今回は、八坂神社脇から登城しました。ここから残雪の山道ひたすら歩く事になります。
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登り始めて直ぐに雪に埋もれた竹林!ログママ隊員〜本当に行くのか???
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おせんの清水!兼続公の奥方“お船”殿の名の清水!
※ 看板の根元に清水が出る岩場がありますが、ここではなくもう少し下の崖の下になります。
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更に雪道の城道を登ると、一面雪で真っ白の広い郭があり、見上げると本丸です。
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本丸郭です。本丸には神社がありました。世界平和を願います。
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本丸郭にある“一本杉”は、直江兼続公が植えたものらしいですね。。。
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本丸跡からの城下です。
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さて帰ろうか?と思ったら発見!奥にはキチンと遺構が残っているらしい!
※ 行くぞ!山城探検隊!ここからが探検隊の醍醐味でござる。。。
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本丸を空濠(からぼり)で囲んで守ります。綺麗に残っていました。
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登り口から反対方向に、二の丸、三の丸、千人溜りがあるようです。
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三の丸の外空堀は、かなりのお堀だったようです。かなり急でした。。。
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三の丸を過ぎ、、、道なき道をひたすら奥へ・・・
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やっと着いたぞ!千人溜り!ここで訓練をしていたんだな〜!
※ もう少し行けば、狼煙台跡もあったのだが既に雪は膝までの高さで・・・断念!
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与板城遠景です。帰ってきたら2時間も経過していた。雪中だったので、かなり疲れた〜!
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 ☆☆☆ 直江山城守兼続プロフィール ☆☆☆ 

( フリー百科事典『 Wikipedia 』より抜粋し、源さんがアレンジ! )

仙桃院(上杉謙信の実姉で上杉景勝の母)の推薦で、幼い頃から景勝に近侍していたといわれる。

謙信公亡き後の跡目争い≪御館の乱≫で「上杉景勝」後継に力を尽くし、

その後に謙信公の代からの重臣“直江家”の名家断絶の危機に景勝の命で直江家に婿に入り、

22歳の若さで与板城の城主となった。

「長高く姿容美しく、言語晴朗なり」と伝えられていることからかなりのイケメン武将だった。

謙信の死後、真っ先に越後侵略に動いたのは、謙信公に敗北した“織田信長”であり

この時、越後上杉家は裏切りにも合い、天正10年(1582年)魚津城の戦いで越後上杉氏は

窮地に立たされ、もはや信長に侵略されるも時間の問題であったが

≪本能寺の変≫で最大の危機を回避できたのである。

その後、慶長3年(1598年)天下人“秀吉”は、兼続の才知と景勝の越後での武力増大を恐れたか

関東の徳川と奥州の伊達の抑えのためか、越後上杉家を会津120万石に加増移封移封。

兼続は、“石田三成”や天下の傾奇者“前田慶次”らとも交友が深く、謙信〜信長〜秀吉〜家康と

時の権力者と時代に翻弄されながらも、上杉家の一時代を築き、存続させて行くことになる。

徳川家康との世紀の決戦、天下分け目の“関ヶ原の戦い”の遠因とされる『直江状』は有名で

上杉景勝と共に戦国時代を駆け抜けていった“ 愛と義 ”に生きた武将である。

幾多の上杉家滅亡の危機も徳川の時代でも生き残っていったのは兼続いたらばこそと思われる。

まさに、上杉景勝公の右腕であり、最後まで上杉家の存続を大事に貫き通した武将でもある。

“関ヶ原の戦い”後の上杉仕置きの際には、徳川家重臣「本多正信」と接近し、上杉家存続のため、

嫡男がいるにも関わらず、正信の次男「本多政重」と養子縁組を進めるなど、

我が身を削りながら、上杉家のために生き続けます。

この際、弟の「大国実頼」が養子縁組に反対し、謀反をおこしてしまいます。

実子の竹松丸は、その後、上杉景勝の命で、「直江景明」と名乗り、慶長14年(1609年)

に「本多正信」の媒酌により、近江国膳所藩主「戸田氏鉄」の娘を娶るのですが

慶長16年(1611年)に養子の「本多政重」が出奔したため(翌年加賀藩に仕官)

景明が正式に直江家の継嗣となります。

慶長19年(1614年)からの大坂の役に従軍し、「鴫野の戦い」にて将軍・徳川秀忠より

感状を与えられるなど武功を挙げます。

しかし、慶長20年(1615年)7月12日、父「直江兼続」に先立って病死。

享年22(18とも伝えられます。)でした。

婿養子の「政重」と、景明誕生前に養子であった「本庄長房」の2人が、

共に加賀へと出奔していたため、これにより「直江兼続」には、後継者は残っておらず、

母「お船の方」の死後、直江家は無嗣断絶となってしまうのです。

( 景明は、生来病弱で両眼を病んでいたため、兼続が景明のために五色温泉を開き、

  長期間の湯治をしたといわれています。)

こうして、妻の「お船の方」と共に、生涯、上杉家の安泰を追い続けた義愛の家臣は

元和5年12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死したのです。享年60才でありました。

妻のお船の方は、兼続が死去すると、剃髪して貞心尼と号し、景勝より3000石の化粧料を与えられ、

以後は直江家の江戸鱗屋敷に住みます。

兼続亡き後も上杉家におけるお船の影響力は大きかったようで、上杉景勝唯一の子(側室の子)

「上杉定勝」の母代わりをつとめます。( 正室の菊姫は既に他界、側室も早死。)

こうして主君「上杉景勝」は、元和9年(1623年)3月20日、米沢城で死去。享年69才。

定勝が米沢藩主になった後、寛永14年(1637年)1月4日死去。享年81才。

※ 直江家の養子である「本多政重」に関しては、【天神山城】に詳しく記述してありますのでご覧下さい。


与板城へのアクセスマップは下をクリックして下さい。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=37.53105664510442&lon=138.8042414944824&sc=4&mode=map&type=scroll

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愛と直江兼続(●^o^●)

2009/3/13(金) 午後 6:52 おーちゃん 返信する

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こちらにもTBありがとうございました。
この雪で千人溜まで行かれた。。。大変だったと思います。
写真にもある細道。。。雪が無くても怖いですもん!(^_^;)
のろし台も、規模が小さいながらちゃんと地形になっていて面白いですよ。
お時間のあるとき、最登城してみてください。
TB&ポチです。

2009/4/27(月) 午前 8:01 ちぇるしー 返信する

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今行くと分かりますが、おせん清水は登り道から少し離れた位置にあります。
(かなり道から下の部分覗きこまないといけないような場所です)
それも含めて、次回は見てきてください。

2009/4/27(月) 午前 8:03 ちぇるしー 返信する

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