越後上杉毘沙門堂

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【春日山城/毘沙門堂・直江・御屋敷編】毘沙門天の化身≪謙信公≫の居城

2009.10.18登城 春日山城毘沙門堂址にある石碑 
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春日山城は、現在の新潟県上越市にあった中世の山城で、南北朝時代に越後国守護である

上杉氏が越後府中の館【至徳寺館】の詰め城として築城され、主に越後長尾氏の居城となり

自らを武神・闘神「毘沙門天」の化身と呼び、戦国最強武将として名高い「上杉謙信公」の城

として有名です。城郭は、標高189mの春日山山頂に築かれ、ほぼ全山に及ぶ天然要害の縄張りは、

難攻不落の城として「中世五大山城」の一つにも数えられています。

他の春日山城記事もお立ち寄り下さい。
【 春日山城/林泉寺編 】
【 春日山城/大手道編 】
【 春日山城/馬場址・三の丸・柿崎屋敷編 】
【 春日山城/景勝屋敷・本丸編 】


春日山の城郭周辺概略図
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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古図と実地から復元された春日山城郭図です。今回は主に向って右側をレポートします。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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先ずは本丸郭にある城址石碑です。
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本丸郭を後にし、毘沙門堂から直江屋敷に向います。
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ほどなく、護摩堂址と諏訪堂址が現れます。
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諏訪堂址の一段上の郭が毘沙門堂址です。
※ ここで謙信公が毎日、精神修行をされていたのだと思うと厳粛な気持ちになり申した。
  しばし、立ち止まり目を閉じるのも良いでしょう。
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毘沙門堂址から数段下に、現在の毘沙門堂があります。
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現地説明板などより
毘沙門天は、悪魔を降ろす武神です。軍を降魔の軍とみなし毘の文字を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。
この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、火災等で傷み、第十五代上杉憲章氏が東京美術学校に依頼し、名匠高村光雲先生が修理をしました。その際、毘沙門天の御分身をつくり、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて昭和五年三月に完成し、当市に寄進され、この祠堂を建て奉安したのです。

現在の毘沙門堂の直ぐ脇が不職院址となっています。
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当時の上杉輝虎公が、元亀元年(1570年)12月に出家戒名し、不職院謙信(不職庵謙信)の法号を称します。不職院址とは、謙信公が急死された後に、この場所に甲冑姿で埋葬され祀られていました。
景勝が会津に移封された後は、共に会津に移っていかれました。

上杉謙信の重臣また景勝の代になっても重臣として扱われた直江氏らの屋敷址です。
※ 本丸直下の二の丸も直江神五郎曲輪と呼ぶ事から、二の丸にも屋敷があったのか?
  直江神五郎とは、上杉謙信家臣四天王「直江景綱(実綱)」の事です。
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直江屋敷の一段下の郭も大きい事から、ここにも越後上杉家の家臣屋敷が有ったと思われます。
古図では、古志長尾氏の「上杉十郎景信」と上杉四家老の「山本寺伊予守定長」の名が有ります。

直江屋敷から数段下に降りると食い違い虎口があります。
※ 斜面につくられた食い違い虎口は、難攻不落の要害を垣間見ます。本丸への搦手口虎口です。
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虎口から下に下ると上杉少弼入道宅址の石碑と郭があります。
※ この上杉入道とは誰の事か?源さんの推測を下記の≪ちょいスタ≫に記述しますね。
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千貫門跡です。搦手側の要所で、門としては大規模な郭を形成しています。
※ おそらく現在の道ではなく、この門も食違い虎口になっていて、空堀(塹壕址)を経て、
  直江屋敷の下の虎口に至るのだと思います。それにしても二重虎口に塹壕など、
  かなりの防御力があったと思われます。林泉寺に移された搦手門とは、千貫門なのでしょうか?
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御屋敷址です。春日山神社を横手に見ながら神社境内を数段下に下りて行きます。
※ 現在は、只の草むらですが、かなりの広さが認められます。さすが城址屋敷です。
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次は、春日山神社(老母屋敷址)から東城砦方面へ進みます。


≪ ちょいスタTime ≫

「 千貫門付近にある≪上杉少弼入道宅址≫の推測 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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一般的に≪上杉少弼入道≫と言えば「上杉謙信公」を推測されますが、

春日山には他に御屋敷跡があり、家臣屋敷より下所で搦手門の直ぐ脇に城主の宅跡であるわけがなく

謙信公の家臣屋敷であったと推測されます。

それでは、上杉を名乗り、≪少弼≫の官位を授かり、入道(出家)した武将とは一体、誰なのか?

先ず≪少弼≫という官位ですが、日本の歴史上で飛鳥時代から始まった天皇を君主とした律令制の

官吏組織で、太政大臣・右(左)大臣・大(中・小)納言などがありますが、その下部組織で、

京の監察・警察の役目をする「弾正台」という組織があり、≪少弼≫は、その「弾正台」の組織の中

の官位(役職名)です。織田信長も「織田弾正忠」と名乗っていたようです。

弾正台の役職は、四等官で、尹(いん)、弼(ひつ/大・少)、忠(だい/大・少)、疏(そ/大・少)などと

成っていたようで、上杉少弼とは、「上杉弾正少弼」と役職名で呼んでいるという事ですね。

※ちなみに、武将のミドルネーム?に、○○守(かみ)という呼び名がありますが、律令制が始まる以前の古代日本で、国司(国の行政官)として中央から派遣された官吏が、四等官である 守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)などの官位を称していて、戦国時代になり中央政権が弱体化すると、多くの戦国武将が国司を自称し勝手に名乗るようになりました。

話が少しずれたので、戻しましょう。

上杉謙信公は、元々上杉家であったわけではなく、越後上杉家の家臣である長尾家の出身で、

当時の関東管領「上杉憲政」の養子となり「上杉定実」の代で、一旦断絶した≪越後上杉家≫を

復興します。つまり、謙信公の代以前には、歴代の越後上杉家があり、本家の越後上杉家の他に、

山本寺上杉家・山浦上杉家・上条上杉家の三家があったのです。

謙信公の父の時代にさかのぼります。父上の長尾為景公は、日本国の下剋上の先駆けとなった武将で

守護代として権威を増していた頃、当時の越後守護の「上杉房能」の婿養子となった上条上杉家出身

の「上杉定実(旧姓:上条定実)」を担ぎ、下剋上により主君の越後守護「上杉房能」を倒し、

「上杉定実」が越後守護(実質的に為景の傀儡)となります。その後、敵討ちで、房能の実兄の

当時の関東管領「上杉顕定」が越後に侵攻し、一旦追われるも為景が顕定を返り討ちします。

しかし今度は「定実」が為景の傀儡であることに不満を抱き、守護家家臣筋の宇佐美定満や実家の

上条氏「上条定満」(定実の弟?甥?)、揚北衆の諸氏の勢力などを糾合して春日山城を占拠し抵抗を

続けるも失敗します。その後、上条上杉家の「上条定憲」らが再度、反長尾為景勢力を結集したため

為景は、遂に隠居に追い込まれますが、定実自身は、為景の跡を「長尾晴景」が継いだため実権を

握ることはできません。

しかし晴景は為景と比べると求心力に欠けたため「黒田秀忠の反乱」などの叛乱が起き、越後の

動乱が再び始まります。これを晴景の弟「長尾景虎」(後の謙信公)が鎮圧したことで、周囲はおろか

越後国内の国人衆や「定実」自身も「長尾景虎」に一目置くことになり、これにより大勢は大きく

晴景から景虎に傾き定実は晴景を隠居させ景虎を守護代に置きます。

しかし定実には嫡子がいなく定実の死後、越後守護家は断絶、景虎が守護職(国主)に就くのです。

話は長くなりましたが、

上記の過程に居た定実の兄弟?(甥?)「上条播磨守定憲」もしくは、その後上条上杉家を相続した

謙信公の三番目の養子である「上条政繁」こそが、春日山城の搦手門付近に屋敷を構えた

「上杉少弼入道」ではと思われます。上杉を名乗っているから養子の「上条政繁」が本命か?

いずれにしても上条上杉家は、謙信公が守護になる以前から、越後守護を輩出した家柄として格上

なので、少弼の官位も得ていたと思われるし、二人の武将とも、晩年は入道していますので、

≪上杉少弼入道宅≫は、上条上杉家の屋敷址であることは間違いないと思われます。

※ 定憲も実子がなく上条上杉家は一旦断絶し後に謙信公が能登国守護の畠山氏から養子を迎えて、
  上条政繁として相続させたという説と、元々上条上杉家の一族で、定実の舎弟であったとも伝わ
  っています。

※ 越後上杉家の分家三家の内、当時山浦上杉家は断絶中で、山本寺家は直江屋敷そばに宅を構えて
  いましたから、消去法からしても≪上杉少弼入道宅≫は、上条上杉家の屋敷址だと思われます。



【春日山城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=37.150600653539016&lon=138.21809834662824&z=16&mode=map&pointer=off&datum=wgs&fa=ks&home=off&hlat=null&hlon=null&layout=&ei=utf-8&p=%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%B1%E5%9F%8E

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この一部でいいから復元して欲しいな〜。
きっと上越のメインの観光地になるはずだけど・・。ポチ☆

2010/9/20(月) 午後 2:21 ♪rogumama♪

げんさん、こんばんは。
今や城址というのは物悲しいものですが、往時の姿を想像できる楽しみもありますよね(*^^)v
この春日山の地に込められた、謙信公の想いが偲ばれます。

2010/9/20(月) 午後 7:44 ヒックス店長

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上杉家が米沢に移ってしまったからでしょうか。。。
上杉謙信の居城として、何もないのは寂しいですね!
観光に力を入れて復元して欲しいですね。

2010/9/21(火) 午後 5:23 KAWA

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ハードな山城ですね,ここを復元したら素晴らしい観光地になりそうじゃないですか。

2010/9/22(水) 午前 9:20 [ pikadane ]

>ログママ姫・・・ホントにそうだよな。毘沙門堂から本丸実城付近と景勝・直江・三郎屋敷だけでも復元して欲しい。

2010/9/22(水) 午後 5:42 上杉政虎

>ヒックス店長殿・・・五大山城の一つですから壮大なる山城です。ロマンの宝庫ですかね。

2010/9/22(水) 午後 5:43 上杉政虎

>KAWA殿・・・天地人の時より、ガクトの風林火山の時の方が、それよりも石坂浩二の天と地との方が盛り上がっていたみたいです。天と地とでは、茶屋に滞在してたようですよ。
故郷創生事業でやれば良かったのにと思います。

2010/9/22(水) 午後 5:46 上杉政虎

>pikadane殿・・・山城自体は広大でも登城するには、そんなにハードでもないですよ。一度、訪ねて観て下さい。

2010/9/22(水) 午後 5:47 上杉政虎

源さん・・・凄いブログです!!!
すげ〜勉強になる!重五郎は「信長の野望」が大好きでなのですが、
源さんのように足で調べる事なし・・・(^^ゞ
春日山も林泉寺しか行った事ないです(汗×3)

2010/9/22(水) 午後 6:01 重五郎

>重五郎殿・・・歴史に興味があったなら、たまに見に来てくださいね。でも、このブログは滅多に更新しませんが(笑)

そう言えば、本家も全然アップしないけどね。。。

2010/9/22(水) 午後 9:14 上杉政虎

そーだそーだ、ログハウスはずっと空き家!??がはは〜!いやいや、これだけ書くにはワシだったら、2年かかりますから^^;

2010/9/23(木) 午前 6:39 中之島ン

>中之島殿・・・いつも空き家ではござらぬ。きちんと我が家の執政もしてござるゆえ心配無用(笑)
このブログは、ブログと言うか、わしの山城登城記録でござる。

2010/9/23(木) 午前 8:04 上杉政虎

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素晴らしい春日山記録ですね。
去年の今頃行った思い出がよみがえりました。
さすがに「天地人」の幟旗はなくなったのですね(爆)

2010/9/30(木) 午後 10:48 ひさにゃん

>ひさにゃん殿・・・ありがとうござる。この記事も昨年登城時のものですが、あれっ?天地人の幟?そう言えばあまりなかったような気がする。

2010/10/3(日) 午前 7:47 上杉政虎

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長尾晴景は豊前国中津に落ちて安隋院(禅宗)を開山しています。

2014/11/7(金) 午前 11:34 [ nuh*nu*adan**e ]

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