越後上杉毘沙門堂

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【小牧山城/帯曲輪編】信長が築き家康が大改修した天下人達の山城

2010.11.05登城 小牧山城帯曲輪入口の石碑
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織田がつき、羽柴がこねし 天下もち すわって食うは徳川家康 (座りしままに食うは徳川)

という江戸時代の有名な狂歌がありますが、

この小牧山城は秀吉抜きで信長が築き家康が大きくした山城です。

小牧山の大きさは、東西約600m、南北約400m、標高86mで一山全体が強固な陣城となっています。

小牧山築城以前は寺院などの宗教関係の施設が存在していたと考えられています。

織田信長は、1560年6月12日(永禄3年5月19日)の桶狭間の戦いに勝利したのち、美濃国併呑を実現すべく、

その3ヶ月後から美濃攻めを開始します。

1562年2月18日(永禄5年1月15日)には徳川家康と清須城において「清洲同盟」を結び完全に東側の脅威が

なくなったため、信長は全力で美濃を攻める体制をつくるべく【清洲城】から、

広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ、この小牧山山頂に城を築き山頂から山麓にかけて多数の曲輪を設け

また小牧山の南から西にかけて南北1.5km東西1kmの城下町を形成し、永禄6年7月には主要兵力や商業者を

そっくり【小牧山城】とその城下に移します。

移転後、織田軍は小牧山城を本拠として美濃への侵攻を繰り返し、1567年9月17日(永禄10年8月15日)

美濃の斉藤龍興を攻略、【稲葉山城】が落城し、そして信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住します。

これにより小牧山城は約4年間の役目を終え廃城となり以後、小牧村庄屋の江崎氏が小牧山守として管理。

しかし信長の死後、1584年(天正12年)豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いで家康がいち早く

小牧山に目を付けて本陣を置きます。この対応に、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれています。

この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修がなされ、強固な陣城が築かれます。

秀吉の大軍も容易に手が出せず焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し長久手方面へ

突出して壊滅する事態となったのは有名な話です。急造「小牧山城」は徳川勝利の一翼を担ったのです。

この小牧山と城跡は江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け管理され明治維新後も尾張徳川家

の所有地でしたが、昭和2年に国に寄付され、同年国の史跡に指定され、現在でも山中の各所に土塁、空堀、

井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時をしのぶことができます。

尚、現在小牧山山頂にある擬似天守「小牧城(小牧市歴史資料館)」は1967年に建設されたものです。今も

発掘が進められていますが、遺構は、織田信長時代と小牧長久手の家康が改修した時代とが混在しています。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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現地説明板から

■主郭地区:山頂を中心とする曲輪群。城之中心部で中腹の堀で区画され虎口が4か所あります。
■西側曲輪地区:山頂西側尾根の曲輪群。主郭地区と尾根を切断する堀で区画され、主郭地区を西側から守る役割を果たしたと考えられます。
■大手曲輪地区:南斜面中腹の巨大テラス状の曲輪群。平地の面積が大きく、物資の集積などに使われたと推定。
■西側谷地区:西の谷に沿った曲輪群。城の遺構でなく、城が築かれる前の寺院跡の可能性があります。
■帯曲輪地区:山を取り巻くように配置された曲輪群。二重の土塁と堀の内側に山麓をめぐる形で配置された細長い曲輪群で、小牧長久手の戦いでは、大軍勢を収容したとみられます。虎口が5か所あります。

小牧山案内図です。(パンフから)
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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小牧山口の信号の帯曲輪群への入口附近
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帯曲輪群への現在の虎口の土塁
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城内側からの土塁
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帯曲輪地区の木碑
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本丸実城の近景
※ 今回は時間がなく本丸登城は出来ませんでした。大手曲輪群は広く物資の保管などに使われていたようです。大手曲輪から東側の斜面には段状にいくつかの曲輪跡と思われる遺構が認められます。
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帯曲輪群
※ 見事なる復元です。発掘調査の方の努力の賜物ですね。下の画像の曲輪は最大規模で、堀を挟んで左右の曲輪は、織田信長時代には、御館だったと考えられています。曲輪群は画像奥へ続いており、武家屋敷も建ち並んでいたと考えられています。小牧長久手の家康時代には武者溜りでした。
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各曲輪と境界の空掘です。
※ 織田信長の館跡と考えられている曲輪です。
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曲輪と外堀代わりの合瀬川との境界の土塁です。
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小牧山城郭の東南隅の虎口です。
※ 食違い虎口で戦国の世を偲ばせます。虎口は多数の兵が侵入できないよう狭くしてあり、下の画像のように横から槍や種子島で攻撃する、いわゆる殺し間でござる。
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外堀の合瀬川と擬似天守の遠景
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※ ≪小牧長久手の戦い≫の詳細は、【犬山城】でご覧下さい。


≪ ちょいスタTime ≫

「 織田がつき、羽柴がこねし 天下もち すわって食うは徳川家康 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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  織田がつき、羽柴がこねし

  天下もち

  すわって食うは徳川家康
  ( 座りしままに食うは徳川 )

これは、江戸時代の狂歌として有名ですが、信長⇒秀吉⇒家康へと、それぞれの『歴史』に果たした役割を

言い表しています。「天下もち」とは、統一権力(天下統一事業)を示し、

その形成に全力で取り組んだ「信長」

それを引き継いでうまく実行した「秀吉」

最後に制度化し近世封建国家を築いた「家康」

ということを表しています。

天下布武を唱え、天下統一という大仕事を達成するためのプロセスは、どんなに力量がある者でも

三代は続くという事の裏返しでもありますね。

徳川三代を見ても同じ事が言えると思います。

  家康がつき、秀忠がこねし

  天下もち

  すわって食うは徳川家光
  ( 座りしままに食うは家光 )

どこが発端で餅を突き始めるかで、いろいろと当てはめられるような気がします。

一大改革は、いかにして「権力」を自分のものにするかから始まります。

昨今、日本の政治がおかしいと騒がれていますが、様は「権力」が分散し戦国の世のように群雄割拠しているから

改革が進まず、各々の国(政治家のお膝元や有権者)の利に叶うように政をしているからです。

信長のように国家観を持って日本国をどうやって治めるかを考えるには、ある程度の権力集中をしていかなければ

なりません。民主党や自民党など政党が争うのも止むを得ない事なのかもしれませんね。

信長は、先ず畿内近国の戦国大名に「朝廷及び幕府に礼参する」ことを命じます。

従えば織田政権を認めることになり、従わなければ朝廷や幕府に反抗することになりますので、実に巧妙に既存の

「権威」を利用して権力を手に入れていきます。

秀吉もまた、朝廷の権威をフルに利用して、戦国大名に戦いをやめさせ、やめなければ天皇に代わって秀吉が討伐

するという法度を作りました。

秀吉が関白に就任したのも、より天皇の権威を使いやすい立場を求めてのことでした。

また、当時は、宗教政策が統治の上で必須でした。信長の比叡山焼打ちが知られていますが、各地の一向一揆の

殲滅戦の反面、キリスト教を公認したり、安土城中に信長自身を神として祭るなど、矛盾しているようですが、

当時は、神や仏によって家や地域が守護されているという考えが一般的であったので、従来の神や仏を否定する

ことで自らの権威を高め、他との差別化をねらったものと思われます。

秀吉も、豊国神社、家康は、東照宮、など信長の後継者も踏襲し、いままでの権力にとって不可侵な聖域は消滅

していきます。

権力を手に入れ安定させるための、仕上げは兵農分離です。

戦国中世では専業の武士はわずかで、土民たちも場合によって戦いに参加することが当たり前でした。

しかしこれでは農繁期など季節により動員数が違ってきます。

そこで信長は、土地と密着した地侍を城下町に集団で住ませ、さらに従来の国を離れ新しい城下町に移住させる

などします。

こうすることによって土地を離れた武士たちは、大名と運命を共にする以外に生活できない状況になり大名に

絶対服従するしかなくなります。

こうして信長は、清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城へと代えていきました。

実際、安土へ移ることを多くの家臣が嫌がったと云われてますから、それを強制できた信長は他の戦国大名とは

違い、まさに戦国の覇王だったんだと思われます。

やがて秀吉も「太閤検地」を強制し、「刀狩」により土民たちの武装解除もしてしまいます。

武士・農民・商人が、それぞれ分離させられ、それぞれの立場で支配をうけると、

これらの人々が独立した政治集団としての活動もできず、身分として固定され、他の身分への移動も困難に

なって行ったのです。

そして、それらを制度化して、徳川家康が近世封建社会を確立して行くことになるのです。



【小牧山城】へのアクセス地図は下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/dUA9Hd

閉じる コメント(4)

これって犬山城に行ったとき、高速道路から見えたお城かな?
すっごい綺麗に整備されているんだね〜。
ちょっと綺麗過ぎる感もあるかな?

2011/11/16(水) 午後 9:04 ♪rogumama♪ 返信する

>ログママ姫・・・そうですよ。小牧長久手の戦いでは、犬山城が秀吉でこの小牧城が家康だったんですよ。合戦は家康が勝って天下は秀吉が取ったんだなこれが。。。

2011/11/16(水) 午後 9:41 上杉政虎 返信する

いまの日本には明確な国家観はありません。
有権者の利を誘った民主党が政権を取るも、何も実現できずに、混乱を誘い、現在に至りましたね。
非常に残念です

さて、小牧山城。
家から車で15分くらいにあります。
小牧山を中心に整備されて、風情がある公園です。
毎年、桜の季節に訪れています

2011/11/17(木) 午後 9:07 ヒックス店長 返信する

>ヒックス店長殿の地元でしたか、、、明確な国家観をを持った政治家が育たないのは現代日本全体の責任ですね。

2011/11/20(日) 午後 5:14 上杉政虎 返信する

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