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【七尾城/調度丸編】謙信公最後の城攻め≪七尾城の戦い≫の舞台

2011.04.10登城 調度丸から望む七尾城の石垣群
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他の七尾城記事もお立ち寄り下さい。
【七尾城/百間馬場編】
【七尾城/二の丸編】
【七尾城/本丸編】

七尾城の概要は、【七尾城/百間馬場編】に記してありますのでご覧下さい。

今回は、現在の本丸駐車場から城内に入り「調度丸と寺屋敷周辺」の検分結果を紹介します。

先ずは、調度丸の石垣群の附近の木碑の文面から抜粋です。
国指定史跡「七尾城跡」
この城跡は、室町時代能登国の守護であった畠山氏が、歴代居城とした所である。石動山脈の北端、七尾湾が一望できる標高約300mの山頂部を割平して本丸を置き、これを中心として急峻複雑な地形を巧みに利用し、東方に長屋敷、西方及び北方にかけて西の丸、二の丸、三の丸等を構えた規模雄大な山城です。
天正5年(1577)9月、上杉謙信がこの城を囲んだ際、折からの月明に感嘆して詠じたと伝えられる漢詩
  霜満軍営秋気清
  数行過雁月三更
  越山併得能州景
  遮莫家郷懐遠征
が広く世に称賛されたことで、本城の名を高めている。その後、幸いにも自然災害や開発等の厄にもあわず、各尾根上の城郭や石垣は良く保存され、わが国中世における山岳城郭史上優れた遺跡として昭和9年12月28日国の史跡に指定された。

※ 七尾城は、日本五大山城の一つに数えられ、上杉謙信公が居城【春日山城】に匹敵する巨大山城です。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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本丸北側駐車場の説明板にある城郭復元図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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七尾城史資料館内にある七尾城絵図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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調度丸全景
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七尾城の象徴、調度丸の石垣群と大手道からの虎口
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大手虎口
※ ここら辺りから見る石垣群も見事です。
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大手道から見上げる石垣群
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大手道
※ 調度丸から下城すると寺屋敷があります。
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大手道から寺屋敷への入口です。
※ この分岐から、しばらく三の丸方向に進むとまもなく「樋(とよ)の水」という湧水場があります。
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寺屋敷からの大手道と調度丸の方向を見ます。
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寺屋敷全景です。
※ 絵図では「大塚」となっていますが、この意味が判りません。
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調度丸に戻り、石垣群から桜馬場へ向います。
※ 何度も言いますが、城サポでなくとも、この石垣群は一見の価値があります。
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桜馬場への石段と石垣です。
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桜馬場への虎口と石垣を上方から見下します。
※ 石垣は大規模な5段重ねで、武者走りから弓矢などで射掛けると中々城内へは侵入できないだろうと思われます。いわば、ここが七尾城の「殺し間」かと思います。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 第二次七尾城の戦い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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七尾城の第一次の戦いは、【七尾城/二の丸編】で紹介しましたが、その続きです。

天正4年(1576年)9月から越中に侵攻、その勢いで11月には能登に兵を進め、最初は攻めあぐねていた謙信公

でしたが、一向一揆を鎮圧し、支城を攻め落とし、七尾城を孤立させますが、それでも長続連ら七尾城の

重臣達は降伏せずにいました。

そんな折、翌天正5年3月、小田原城「北条氏政」が、謙信公の領地である「上野国」に大軍を率いて侵攻しよう

としたため、謙信公は帰国することを余儀なくされます。謙信公は、各要所に将を配置し上で一旦春日山に戻り、

第一次の戦いが一旦終了しました。

謙信公が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始します。

支城を奪還するために、畠山軍の攻勢は凄まじかったとされています。

ところが、同年7月には、北条軍をあっという間に破った謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきたのです。

驚いた「長続連」は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もります。

さらに、この時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を【七尾城】に籠もらせたのです。

このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となり、頭数なら越後上杉軍に劣らない人数

を動員したのでした。

しかし、【七尾城】は堅城ではあったが、「籠城戦」が続く中で、城内で「疫病」が起こり、畠山軍の兵士たちは

戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだのです。

また幼君の「畠山春王丸」も籠城中に死去してしまいます。

窮した「長続連」は、子の「長連龍」を使者として【安土城】の「織田信長」のもとに派遣し、後詰を要請すると共に

「小伊勢村の八郎右衛門」に、一揆を起こすように扇動します。

ところが、この一揆はまたもや「上杉謙信公」によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となったのです。

このような中で、かねてから親謙信派であった「遊佐続光」は、かねてからの謙信公の呼びかけに応じて、

仲間の「温井景隆」や「三宅長盛(景隆の弟)」らと結託して内応しようとしていました。

もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った「長続連」を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても

勝機が無いと踏んだからです。

そして9月15日、十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れたのでした。

この反乱によって「長続連」とその子「長綱連」、さらに長一族はことごとく討たれてしまいます。

長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った「長連龍」と、綱連の末子でした。

こうして【七尾城】は、謙信の手に落ち、能登国も完全に謙信公の支配下に入ったのです。

これが、第二次七尾城の戦いで、この後に≪手取川の戦い≫につながって行くのです。

そして、謙信公にとって、これが最後の城攻めになろうとは、この時誰も思わなかったでしょう。



【七尾城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/s7t0Z6

閉じる コメント(2)

ここの石垣の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがありましたな。
さすが!日本五大山城でございます!!

2011/11/25(金) 午後 6:14 ♪rogumama♪ 返信する

>ログママ姫・・・ホンマに!!!

2011/11/27(日) 午前 10:03 上杉政虎 返信する

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