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【七尾城/本丸編】信長と謙信公の覇権争い前哨戦の地

2011.04.10登城 七尾城本丸に建つ城址石碑
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他の七尾城記事もお立ち寄り下さい。
【七尾城/百間馬場編】
【七尾城/二の丸編】
【七尾城/調度丸編】

今回は、七尾城本丸周辺の検分結果を紹介します。

七尾城は、七尾湾を一望する石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称:城山)にあり、

その尾根から枝分かれする大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城です。

「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されています。

城の歴史は、七尾畠山氏の初代当主で能登国守護「畠山満慶」が正長年間(1428 - 1429年)頃に

砦程度の規模で築いたのが始まりとされ、守護所は府中(七尾城山の麓で現七尾市府中)に置かれていました。

次第に拡張、増強され、以後約150年間にわたって領国支配の本拠となり、守護所も七尾城内へと移されます。

その後、能登国でも戦国の世がおとずれ、戦闘目的の要害となり七尾城史上最大規模の縄張りになります。

1576年(天正4年)には、能登国に侵攻した「上杉謙信公」に包囲され、一年にわたって持ちこたえますが、

重臣同士の対立の末に重臣「遊佐続光」の内応により翌年9月13日に開城されます。

この際、謙信公が詠んだとされる漢詩「九月十三夜陣中作」は有名です。

  霜満軍営秋気清 ( 霜は軍営に満ちて 秋気清し )
  数行過雁月三更 ( 数行の過雁(かがん) 月 三更(さんこう) )
  越山併得能州景 ( 越山併わせ得たり 能州の景 )
  遮莫家郷懐遠征 ( 遮莫(さもあらばあれ)家郷 遠征を憶(おも)う )

  【 漢詩の意味 】
  霜は陣営に満ちて秋気清く
  数列の雁が飛び去り真夜中の月はいよいよ冴え渡る
  戦勝の陣中に祝宴を張れば時あたかも十三夜の名月中天に冴え渡り
  越後の山々に能登の景色まで併せ賞する事ができて武人の本懐である
  さればままよ家郷の者達がこのような遠征にある身を気づかうともそれは仕方がない事である。

また、この七尾城落城にまつわる白米伝説というものがあります。
百間馬場の展望台への道中の説明板から抜粋
七尾勢は籠城が長引き、もはや城中には水がなくなっただろうと上杉勢は思った。しかし見上げると、何と城山より瀧がとうとうと流れ落ちているではないか。その瀧に鳥が群がってきた。このことで瀧とみたのは実は白米を流していたのだとわかり、上杉勢は再び兵を戻して七尾城を攻め落としたという事である。

※ 七尾城は、日本五大山城の一つに数えられ、上杉謙信公が居城【春日山城】に匹敵する巨大山城です。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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本丸北側駐車場の説明板にある城郭復元図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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遊佐屋敷と桜馬場前
※ 上の写真は調度丸から遊佐屋敷前の桜馬場に上がる虎口です。石垣は桜馬場と遊佐屋敷の境界です。
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遊佐屋敷と本丸への虎口(搦手側)
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七尾城本丸搦手虎口と三段石垣の武者走り
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搦手虎口の本丸内側と本丸全景と土塁
※ 本丸西側には土塁が設けられています。
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現地説明板から
本丸跡
七尾城跡の中心となる曲輪。東西の長さが50m、南北の長さが40mあり、二の丸までの一連の曲輪とともに主郭を構成する。石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い北側は三段に組まれている。

本丸北東側には城址石碑が建っています。
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本丸北側の城下の眺めと三段石垣
※ 石垣の眼下には調度丸への番所跡があります。
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本丸の南側の高台には城山神社が建立され南側には土塁があります。
※ ここが館跡なのでしょうか?
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本丸の南西側(上)と北東側(下)からの全景です。
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井戸跡?と本丸表門で内側は土塁状ですが反対側は石垣仕様になっています。
※ 絵図では、ここが本丸表門(大手虎口)のようです。石垣も残っていました。
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本丸から南西外側にある郭は大手門址ではないかと思われます。
※ 郭内は石垣も残り、門は枡形仕様と思われます。ここから急斜面で桜馬場につながっています。
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桜馬場と遊佐屋敷です。
※ 桜馬場は平時に軍馬を検分し、その調練を検閲した馬ぞろえの場所です。
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桜馬場から見下す調度丸との境の石垣群です。
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現地説明板から
桜馬場跡
この曲輪は、東西の長さが45m、南北の長さが25mあり軍馬の調練を行なった馬場などと言われる。北側の石垣は五段に組まれ、七尾城跡でも最大規模を誇る。

もう一度、調度丸側から見上げる桜馬場との境界石垣です。
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桜馬場から西へ向うと西の丸、西の丸は高台にあり、今回は進入せず。
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西の丸を左手にみながら進むと温井屋敷跡にでます。
※ ここは二の丸との境界にあり、屋敷前には大きな土塁が残っています。
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温井屋敷脇からにも城内への虎口が設けられており、虎口から出ると直ぐに九尺石が見られます。
※ 現地説明版には、城の鎮護のかなめ石。石の大きさにちなんでこの名があると記されています。
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温井屋敷と西の丸、二の丸の位置関係です。
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温井屋敷と二の丸の石垣です。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 七尾城の戦いが何故起きたか/などその他 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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上杉謙信公は、長年にわたり武田信玄と争っていました。

元亀3年(1572)には武田信玄をけん制するため、上杉織田同盟を結んでいます。

しかし、天正元年(1573)4月に信玄が没すると上洛の行動を起す織田信長との対決の前提として

能登を手中に収める必要が出てきました。

実際、天正3年(1575年)8月には、天下布武を目指す織田信長が、柴田勝家に越前侵攻を命じ、

当時越前を支配していた石山本願寺の宗徒ら12000人を処刑させています。

このことにより、越後の上杉謙信公が越後方面への侵攻を有るまじきとし、それまで結んでいた

信長との同盟を破棄し、翌天正4年(1576年)に、それまで対立していた「本願寺顕如」と和睦し、

武田・北条とも和睦し、信長包囲網を作ることにしたのです。

また、謙信公は畠山義綱(9代守護)の弟で謙信公の猶子であった義春(義明・上条織部政繁)を

七尾の新城主として送り込む体制を図ったのですが、それが果たされなかったため

天正4年能登攻略の軍を発し、本隊は謙信自ら1万余の軍勢を指揮して、越中から加賀国津幡に

入り、高松、能登一宮、龍谷、上田庄(現、志賀町加茂地区附近)から奥山峠を越えて鹿島郡大槻

を経て、七尾城下の天神川原に布陣しました。

別働隊は、有坂備中守を将として珠州の三崎に上陸。熊木、富来、穴水、甲山を攻め落とし七尾城へ

また直江景綱を将とする一隊は越中から石動山城を築き、一連の七尾城の戦いが始まります。

そして、二年がかりで開城に追い込み≪七尾城の戦い≫を制し、能登の版図を塗り替えた謙信公は、

結果戦力をさらに増強となり、改めて西上して織田信長征伐の意思を示したのです。

一方、柴田勝家を総大将とした織田氏の援軍は七尾城救援に向いますが、途中で落城の報に接します。

これは、謙信が既に七尾城落城後も、当地にとどまり、信長軍をおびき出そうとした策でもあったようです。

そして、織田軍が手取川を渡河した段階で、一気に織田軍を攻め懸け勝利しています。

詳細は、手取川古戦場の検分結果の記事にて紹介いたします。

この後、暫く能登国は、上杉勢力下でしたが、翌年の関東出兵間近に、謙信公が亡くなり、以後

越後上杉家のお家騒動≪御館の乱≫が勃発、能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ

織田勢力に圧迫され、織田信長の手に帰したのです。

謙信公死後も、上杉景勝と上杉景虎が手を取り合って、越後上杉家を守り立てて居たならば、

戦国最強軍と云われた上杉軍の弱体化を防げたものを・・・

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それはさておいて、この七尾城の素晴らしさは謙信公も絶賛し、初登城の際には、次のような感想を云いました。

天正5年(1577)9月29日

「 聞きしに及び候より名地、(加)賀・越(中)・能(登)の金目の地形と云い、要害山海相応し、

  海頬嶋々の躰までも、絵像に写し難き景勝までに候 」



【七尾城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/s7t0Z6

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この本丸は見事だったよね〜。
景色も石垣も最高!!

2011/11/28(月) 午後 10:01 ♪rogumama♪

げんさん、こんばんは。
山全体が史跡といった感じで、随所に見どころがあるんですね。
特に山城跡って、地形からの想像が出来て楽しいですよね(*^^)v
良い趣味ですな〜ポチ!!

2011/11/28(月) 午後 10:15 ヒックス店長

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良く調べた記事で写真の説明も親切ですね♪
ポチッします☆

2011/11/28(月) 午後 11:22 KAWA

>ログママ姫・・・本当に本丸も石垣も最高〜〜〜!!!

2011/11/30(水) 午後 8:05 上杉政虎

>ヒックス店長殿・・・山城巡りは我がライフワークであり申す。想像力が養えますよ。

2011/11/30(水) 午後 8:06 上杉政虎

>KAWA殿・・・ありがとうございます。歴史背景を勉強しながらの城廻が面白うござる。

2011/11/30(水) 午後 8:07 上杉政虎

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記事とはまったく関係ないのですが、学生時代クルマで能登半島一周の旅に出掛けました。
金がないのでキャンプしながらでしたが、七尾で雨に降られ旅館に素泊まりしました。

ふとそんなことを思い出してしまいました。

☆!

2011/12/1(木) 午前 2:30 [ pikadane ]

>pikadane殿・・・七尾は、歴史を感じる良い街でした。

2011/12/5(月) 午後 7:21 上杉政虎

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「思えば昔霜台公、能信越を切りなびき 七尾城頭月清く
戦勝の宴たけなわに 矛横たえて詠いてし 威風ぞここに芳しき♪」校歌の一節を思い出しました。

2011/12/5(月) 午後 7:38 カワラヒワ

>カワラヒワ殿・・・貴殿は、七尾城下から越後国に移ってまいられましたか???
能登も越後も宜しくお頼み申す。。。

2011/12/5(月) 午後 8:32 上杉政虎


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