越後上杉毘沙門堂

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【高山城】上杉遺民一揆で討死した上杉の敵方≪堀将監≫の居城

2011.12.02登城 城址と推定される正楽寺の入口碑
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高山城は、長岡市高島町 『 正楽寺 』 北側の畑地になっている所に存在した館城でした。

築城は、上杉景勝が会津移封後の慶長3年(1598)と伝わります。

豊臣政権化で、越後上杉家の代わりに越後に入封した「堀秀冶」の家臣「堀将監」の居城でしたが、将監は

慶長5年の≪上杉遺民一揆≫の際に 【 下倉城 】 城主「小倉主膳」に加勢し、会津から攻める上杉軍と対峙

広瀬大聖寺川の付近で討死し、以後、高山城は廃城になったと云われています。

現在、遺構は残っておりませぬ。

※日本城郭大系などより


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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正楽寺入口です。
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正楽寺の北側です。
イメージ 4


北方向から観る正楽寺北側の畑地全景
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北側の畑一帯
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北方向から観る高山城跡近景
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≪ ちょいスタTime ≫

「 越後の関ヶ原の戦い≪上杉遺民一揆≫ 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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慶長3年(1598)、当時の越後領主「上杉景勝」は、「豊臣秀吉」の命で会津120万石に加増移封されます。

一説によると当初、秀吉は「徳川家康」ではなく、「上杉景勝」を「謙信公」の流れから関東管領の位置付け

として、関東に移封するつもりであったともいわれています。

しかし、結果的には、関東八州は「徳川家康」のものになります。


越後上杉家は、この移封により、越後の旧領地から引き続き統治が認められたのは、佐渡一国及び

越後のごく一部(東蒲原)と「本庄繁長」が「最上義光」と激しい争奪戦をして奪った出羽庄内地方のみで、

後は、以前、伊達氏の領地だった出羽置賜地方、陸奥伊達郡、信夫郡、刈田郡と「伊達政宗」が侵略した

会津地方でした。

この会津地方は山地で隔絶され、常に北側に境を接する最上義光、伊達政宗と衝突の危険性が有り

改易された「蒲生氏」に代わり、東北諸大名の監視と牽制のための配置であったようです。

景勝は、要となる【米沢城】に家老の「直江兼続」、対「伊達氏」最前線【白石城】に「甘糟景継」、

【福島城】に「本庄繁長」など軍事的重要地点に重臣達を配しています。

つまりは、加増とはいえ、秀吉に損な役回りを押し付けられたという事だと思います。

このことは当初、上杉家が関東だったはずが徳川家になったのは、家康が伊達や最上と手を結ぶとやっかいだと

豊臣秀吉が懸念したことが理由のようです。


こうして会津に移封した上杉家の代わりに越後に入封したのが、「堀 秀治(ほりひではる)」です。

「堀 秀治」は、織田信長の側近で後に秀吉に使え、文武両道に優れた「堀 秀政(ほりひでまさ)」の長男です。

天正18年(1590)、父・秀政とともに≪小田原の役≫に参陣し、父がそのときに陣中にて病死したため、家督を

継ぐこととなったようです。

しかし、知勇兼備の名将として知られる父と違って、あまり才覚に秀でた人物ではなかったと云われます。

一揆の話は、後にするとして、「堀秀政」の従弟に6歳上の「堀直政」(堀家家老)が居ます。

「堀秀政」の死後、家督を継いだ息子の「堀秀治」が幼かったため豊臣秀吉は所領の「北ノ庄」を召し上げようと

したため、怒った「堀直政」が、書状で訴え出ると所領召し上げは破談、慶長3年(1598)秀吉の命で上杉景勝を

会津へ、堀秀治を越後へ移す国替えが行なわれたのです。

こうして、越後45万石を「堀一族」とその与力で統治することになるのです。

【春日山城】に「堀秀治」・【蔵王堂城】に「堀秀治」の弟「堀親良」【坂戸城】に「堀直政」の次男「堀直寄」

【三条城】に「堀直政」(城代として嫡男の「堀直清」)【新発田城】に「溝口秀勝」【本庄城】に「村上義明」

(後に地名を村上に改める)が入ります。

【高山城】城主の「堀将監」は、堀秀政から仕えていた重臣だったようです。

「堀秀治」は、越後入封後、領内総検地を実施します。しかし、その過酷さから農民に不満を与えてしまいます。

いわゆる検地による貢租が、上杉氏時代よりはるかに厳しくなったのです。

また、田畑、屋敷にまで小物成(こものなり)という雑税(ぞうぜい)をかけ、青芋、桑、楮(こうぞ)

漆(うるし)にまで新税を課していったのです。


そしてまもなくのち、慶長3年(1598)8月秀吉が死去し、葬儀のため上洛していた上杉景勝が、慶長4年(1599)

伏見から会津へ帰国すると、砦、道を修復し、武器、米を買い、浪人を雇入始めます。

さらに、景勝は慶長5年(1600)2月になると夏までに領内諸城の補修を命じ、3月になると鶴ヶ城が将来手狭に

なると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指に新城 【 神指城 】 の建築を命じます。

そして「堀直政」は、これらの実情を「徳川家康」に、ちくるのです。家康は当然の如く、申し開きの返答を要求

その後、世に云う上杉家家老「直江兼続」の家康への強烈な返状「直江状」へと繋がり、秀吉の死後、

五大老五奉行の対立から、徳川家前田家の対立、そして東軍西軍と分かれていく過程の中で、ついに上杉家は

徳川家康と完全に対立関係になるのです。

家康は、上杉討伐の軍を組織し、堀秀治に「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送ります。

これについては、堀一族内でも意見が分かれました。

「堀直寄」は、太閤秀吉の恩に報いるため上杉と組むべきと主張。

「堀直政」は、太閤のみの恩ではない、信長公の御恩から起こったのだとし、「堀秀政」も、信長公の御子孫が

衰退したことを嘆いていたとし、豊臣家存続は、秀頼公の本心ではなく、家康の勝利は必定であると直政が主張。

一族は、結局、「堀直政」に同意し、こうして、慶長5年(1600年) ≪関ヶ原の戦い≫が起こると上杉家は西軍、

堀一族は東軍に与し、上杉と堀両軍は対立するに至るのです。

上杉軍は、津川口から会津に攻め入られないよう、関ヶ原の戦いの本戦前の7月には、先手をうち国境を越えて

越後に侵入していきます。

【下倉城】を囲んで「小倉主膳」を滅ぼし、【三条城】をとり囲んで「堀氏」の軍を苦しめます。

この時、越後各地の百姓や越後上杉旧家臣達も「上杉氏」の求めにより一揆を起こして応援します。

越後風土記によると、直江兼続の策略で、身分の低い兵の内、智謀に富み、忠義のあるものを越後に浪人を

装わせて潜入させ、寺社などに検地入を苦情の一つとして一揆を起こさせ、堀家の会津入りを遮らせようとしたと

記されています。また、北越太平記によると、兼続の催促、三成からの書状により、上杉譜代の兵達が八千人、

鉄砲が二千挺集まるなどとも記されています。

この戦いは互角の状況だったと伝わっていますが、ご存知のとおり、同時に伊達氏、最上氏との戦も控えており、

上杉軍は、分散せざるを得なく、その内、関ヶ原における徳川方勝利の報とともに、上杉軍は越後から引き揚げ

終息をみるのです。

これを「越後一揆」とも「上杉遺民一揆」とも呼ばれ、関ヶ原の戦いの越後編です。



【高山城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/hINDbO

閉じる コメント(2)

探せばいろいろあるよね〜。
あんな場所にこんな遺構が・・。
すごいわ〜。

2011/12/6(火) 午後 10:38 ♪rogumama♪ 返信する

>ログママ姫・・・そうでござるな〜!探せば山城に当たるものよ。

2011/12/7(水) 午後 7:49 上杉政虎 返信する

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