越後上杉毘沙門堂

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【上田城/本丸編】上杉景勝の人質だった≪真田幸村≫の父・昌幸の居城

2011.01.03登城 上田城本丸跡に建つ本丸址石碑
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上田城は、別名:尼ヶ淵城 真田城とも呼ばれ、「真田昌幸」が、1583年(天正11年)に築城しました。

城郭構造は、梯郭式平城で上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、

「尼ヶ淵城」と呼ばれることもありました。戦国時代きっての知将、謀将にして古狸「真田昌幸」が二度にわたる

徳川軍の攻撃を撃退した≪上田合戦≫が行われたことで有名です。

江戸時代に入り、上田藩の藩庁が置かれ、真田氏が信濃国松代へ転封されて上田城は破却されますが、

その数年後に、仙石氏「仙石忠政」が入城して、【上田城】を現在のような姿に再建します。

現在は旧二の丸内が上田城跡公園という公園になっており、本丸跡には、明治に松平神社として建立された

歴代城主を祀った「真田神社」が建立されています。境内の“古井戸”があり「城外への抜け穴になっていた」

との伝説が残っています。また、三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されています。

現在の遺構からして、梯郭式の縄張りとなっていますが、これは前述とおり仙石氏により再建され時のもので、

「真田昌幸」時代の 【上田城】 について正確な構造は、わかっていないようですが、

仙石氏が再建された上田城は、真田時代のままを復興させたと言われています。

上田城三櫓の内、西櫓は復興時のままで、東と北櫓は移築復元、東虎口櫓門は完全復元です。

そして、築城主「真田昌幸」の次男が「真田幸村」の名で有名の「真田信繁」であり、長男は戦国の世を生き抜く

ため≪関ヶ原の戦い≫で、父と弟(幸村)と袂を分かつことになる「真田信幸」(信之とも言う)であるのです。
ちなみに仙石氏の仙石忠政は、知る人ぞ知る「秀吉」の家臣で、戦国の猛将「仙石秀久」の三男(仙石家家督を継ぐ)です。父、秀久は、豊臣秀吉の家臣団では最も早く大名に出世し、そして失敗により改易も、後に手柄を重ねて挽回し大名に返り咲いたという、失敗と挽回の繰り返し大名として有名です。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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二の丸駐車場の説明板にある城郭マップです。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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二の丸駐車場の説明板にある古図の再現マップです。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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本丸への東出入口、東櫓門です。
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東櫓門の左右に建つ北櫓と南櫓です。
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東櫓門に付帯される外側の石垣の一部には真田石と呼ばれる巨石があります。
※ 下の説明板の内容をみると、微動だにしなかった真田石を使って、仙石氏の時代に石垣を造ったという事なのか?微動だにしない石をどうやって動かして石垣を造ったのだろう?
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現地説明板から
真田石
真田信之が、松代に移封を命じられた際に、この石だけは父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであり、真田氏に寄せる人々の敬愛の情が伺える伝承である。

真田神社の石碑です。
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真田神社境内です。
※ 真田の「六文銭」と仙石氏の「永楽銭」(織田信長より下賜されたといわれます。)の旗が見えます。
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真田神社境内には、桶状の茶室、御神木「真田杉」と、真田赤備えの兜などがあります。
※ 真田杉は真田昌幸が築城当時からあった杉で、その一本の大木が台風により倒木の恐れが出て、やむを得なく伐採したところ年輪から450年に及ぶ事が判り、まさに築城当時からこの地を見てきた老木だったのです。伐採後は、下記に説明するよう「赤備え兜」でお守りしています。
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現地説明板から
真田赤備え兜
二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に響き大阪夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称されました。自ら信じる道を民とともに歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしています。
真田神社奉賛会

真田神社の北側の本丸郭内の様子
※ 本丸を一周するように土塁が施されています。
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神社境内から一旦出て、本丸郭中央部から西櫓に向います。
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西櫓の枡形です。
※ 一旦、入城者を枡状の区画に入れて城内へ入れる方法の虎口だと思われます。
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西櫓と西櫓外側の空掘です。
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西側二の丸への虎口と内掘(水濠)です。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 上田城の歴史/真田昌幸・幸村父子と越後上杉家の関係 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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≪ 先ずは、上田城の歴史についてですが、現地の説明板から抜粋して紹介します。 ≫

上田城は真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正13年(1585)には一応の完成をしたと考えられている。

この城は、まもなく天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が二度にわたって

徳川大軍の攻撃をうけ、見事にそれを撃退してしまったからである。

最初の合戦は天正13年に行なわれた。攻め寄せた徳川勢は7000人余、迎え撃つ真田勢は2000人弱であった。

しかし真田氏の巧妙な戦術によって徳川軍は思わぬ大敗となり死者を1300人余も出した。

これに対し真田方の死者は40人ほどであったという。(第一次上田合戦)

二度目の戦いは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際してのものであった。

関ヶ原へ向う途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、3万8000人という大軍。これに対し昌幸・幸村父子の率いる

上田城兵は、わずか2500人ほどであった。

しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に

遅れるという大失態を演ずることになる。(第二次上田合戦)

上田城は、いわば地方の小城であった。石垣も少なく一見したところ要害堅固な城とも見えない。

しかし実際は、周囲の河川や城下町を含めた全体が、きわめて秀でた構造となっていたことが、現在、学術的研究に

よって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭のなかで二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい

戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。
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≪ 続いて、真田昌幸・幸村の父子と越後上杉家との関係です。 ≫

信濃小県にあった真田氏の所領を村上義清から奪還するため羽陽曲折の末、武田信玄の家臣となった

真田幸隆が、天正2年(1574)に病死すると、真田氏の家督は長兄・信綱が継ぎますが、翌天正3年の

≪長篠の戦い≫で、信綱と次兄・昌輝が討死し、昌幸が真田氏の家督を相続します。

しかし、この時所領は安堵されておらず≪長篠の戦い≫の敗北で、武田家の勢力が三河・遠江から大きく

後退したため、昌幸は、近江国に行き、一時期「羽柴秀吉」の弟「秀長」の家臣になっています。

天正6年(1578)上杉謙信公の死後、≪甲越同盟≫が成立すると今度は、武田軍として、北条家の所領である

上野の【沼田城】・【名胡桃城】などを奪取します。一時は、盛り返した武田家でしたが、天正10年(1582)3月

≪織田信長・徳川家康連合軍≫による「武田征伐」が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われ、武田家は

滅亡していくのです。武田家滅亡後、真田昌幸は「織田信長」の家臣となり、小県の本領を安堵され、信長の家臣

「滝川一益」の与力となります。

しかし、織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月≪本能寺の変≫で信長が横死すると、

旧武田領の織田勢力は衰微し、甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐり「徳川家康」・「北条氏直」・「上杉景勝」ら

が争うこととなります。

昌幸は、滝川一益の配下として≪神流川の戦い≫に敗れると「北条氏直」に臣従し、北条家の信濃侵攻の先手を

務めます。しかし、一転して「徳川家康」の懐柔に乗り「北条氏」を裏切ります。

これが契機となり、徳川軍と北条軍は和睦するのですが、和睦条件の中で、昌幸は自力で獲得した沼田割譲に

ついて代替地が不明瞭だったことに反発し、今度は、徳川・北条と敵対していた越後の「上杉景勝」に臣従し

次男の「真田信繁(幸村)」を越後上杉家へ人質に出します。

そして、天正11年(1583)、昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になり、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする

地に【松尾城(後の上田城)】と、その周囲に城下町を築いたのです。そこで、天正13年(1585) 徳川家康と

北条氏直は、真田氏の制圧を狙い兵を挙げ、上田城を攻めたのが前述の 第一次上田合戦 です。

この ≪上田合戦≫ を契機に、「真田氏」は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で

認知されることになったのです。そして、同年には、越後上杉家に人質として出していた次男の信繁(幸村)を

時の天下人となった「豊臣秀吉」の人質として大坂に出仕させ、真田昌幸は、豊臣家に臣従することになるのです。

目まぐるしく、主君や同盟相手を変えながら戦国を行きぬいた、まさに戦国時代きっての知将、謀将「真田昌幸」

でございます。徳川家康が、狸なら、真田昌幸は、古狸ですね。



【上田城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/nUmmeY

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ここは立派だよね〜。
私は感激しちゃったよ〜〜〜。

でも・・写真・・随分暗くない??(笑)

2011/12/7(水) 午後 10:38 ♪rogumama♪ 返信する

アバター

ここの城壁と矢倉たち、印象的ですよね。
時代の流れで電車が通ったり、矢倉が妓楼に売られたり。。。
でも、現在の姿に復元されて何よりです。
同じ様な場所の記事、TBいたします。 ポチ☆彡

2011/12/8(木) 午前 7:55 ちぇるしー 返信する

>ログママ姫・・・ここは2007年放送の「お城ファンが選んだ 好きな城ベスト10」で、姫路城(2位)大阪城(3位)を抑えて1位に選ばれているそうだよ。
写真が暗いのは、カメラの設定を変えたまま元に戻さずに撮ったからでござる。。。

2011/12/8(木) 午後 8:01 上杉政虎 返信する

>ちぇるしー姫・・・そうでござるな〜!立派立派!
矢倉は妓楼に売られたのでござるか〜!?何という〜〜〜ことじゃ〜昌幸殿が悲しむであろうぞ!!!

2011/12/8(木) 午後 8:04 上杉政虎 返信する

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