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【手取川古戦場】上杉謙信公が戦国武将最強を証明した戦いの舞台

2011.04.09訪問 手取川古戦場の石碑
※ 何て書いてあるかは下記の説明板のとおりです。
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手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川において

上杉謙信軍約2万が織田信長軍約1万8千(後詰含め5万とも)を撃破したとされる合戦です。

天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、2万余の軍を率いて侵攻します。

これに対し当時の能登領主能登畠山氏(当主幼年のため重臣の長続連が実権を掌握)は【七尾城】に籠城。

【七尾城】は屈指の堅城のため、戦いは翌年までもつれこみ、関東で「北条氏政」が攻勢を強めたため、

関東諸将から救援要請を受けた謙信公は、一旦 【 春日山城 】に撤退します。

その間に畠山軍によって上杉軍が前年に奪っていた能登の諸城が落とされ、能登での戦況は悪化します。

ここに至り謙信は反転を決意し、同年閏7月、再び能登に侵攻します。

【七尾城】の「長続連」は上杉軍に対抗するため、百姓や町人までも城内に収容していたため、屎尿処理能力が

追いつかず、城内各所で糞尿が放置される極めて不衛生な状態となり疫病が発生してしまいます。

当主「畠山春王丸」までもが病死するに至り、畠山軍は危機的状況に陥ったため、「長続連」は、かねてから誼を

通じていた「織田信長」に救援を求めるべく、息子の「長連龍」を使者として【安土城】に派遣します。

信長としても謙信の勢力拡大は望むところではなく、即座に援軍の派遣を決定し、筆頭家臣「柴田勝家」を

総大将に1万8000の軍勢を先発させ、自らも3万の軍勢を率いて出陣しました。

ところが、織田軍到着前の9月15日(10月26日)、以前より「長続連」が実権を握る事に不満を抱いていた

能登畠山氏の重臣「遊佐続光」・「温井景隆」ら親上杉派が上杉軍に内応して謀反、「長続連」をはじめとする

長一族は、皆殺しとなり、【七尾城】は、落城したのです。その後、それらの情勢を知らずに北上してきた織田軍と

情報統制で待ち構えていた上杉軍との間で戦いが起こるのです。その舞台がここ手取川です。


古戦場の石碑位置です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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越後方面から北陸道美川IC下車、県道25号線を南へ手取川を渡河して直ぐに左に折れます。
※ 呉竹文庫の駐車場で下馬します。
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駐車場の入口に古戦場の石碑と説明板が建っています。
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現地説明板から
上杉・織田手取川の戦
天正5年(1577)9月23日、上杉謙信と織田信長軍の戦いが、この手取川一帯で行われ、この地より遠望することができる。9月15日、上杉謙信は七尾城を攻略したが織田信長軍総勢5万が加賀手取川を越えたという情報を受け、9月18日、馬を走らせ南下した。
柴田勝家を総大将に前田利家、滝川一益らの勇将が謙信を待ち受けていた。折りしも七尾城落城の悲報が伝わると織田軍は浮足立ち士気が低下したため不利を悟った織田軍は9月23日、夜陰に紛れて退却を始めた。
ところが運悪く手取川の増水で逃げ場をを失い、織田軍は千余人が討ち取られ、川に流された者、その数を知らずといわれたほどの大打撃を受けて退散した。このとき謙信は「信長と雌雄を決する覚悟で望んだが案外弱く、この分なら天下を統一することは簡単だ。」と言っている。
   手取川での両軍の激突の様子を後世に人は
    上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)
     はねる謙信逃ぐるとぶ長(信長)
という狂歌に詠んでいる。
謙信は関東情勢が気にかかっていたので織田軍を追撃せずにいったん帰国し、関東を平定した上で上洛しようと考え春日山城に凱旋した。
越後一の宮 居多神社 宮司
花ヶ前盛明氏著 「上杉謙信」より引用
平成8年9月 美川町教育委員会

織田軍から見る手取川の対岸方面
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織田軍から見る手取川の上流と下流
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手取川の河口付近、今も増水の危険を知らせる看板があります。今も昔も暴れ川なんですね。
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上杉軍から見る手取川の上流と下流
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上杉軍から見る対岸、下の写真は石碑がある場所の遠景です。
イメージ 9


上杉軍から織田軍、当時の風景は凄惨なものだったでしょう。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 手取川の戦い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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上記に書かれている説明板と少し違いますが、これも一つの諸説としてあります。

織田軍総大将「柴田勝家」は、【七尾城】が落城し、上杉軍の手に落ちたことを知らずに北上を続けます。

織田軍が手取川に、さしかかった頃は、上杉軍はまだかなり東の方を進んでいました。

両者の距離は、両軍がそのまま進んでも遭遇するのに数日かかるぐらいの距離です。

一方、上杉謙信公が率いる上杉軍(2万)は、北上してくる「柴田勝家」の織田軍(1万8千)に対するため、

【七尾城】から出陣、南下して、加賀国の【松任城】を一旦攻めますが、城攻めに時間がかかるとみるや、

一向宗の若林「長門守」と和睦開城の上、【松任城】に入城し織田軍の進軍状況などの情報を集めます。

数日の距離どころか、手取川を渡河した織田軍との距離は、わずか10kmのところに両軍は対峙していたのです。

七尾城の情勢、上杉軍の南下など、情報が乏しいまま北上する織田軍と

情報を統制しコントロールし織田軍の動きを充分察知している上杉軍の図式が戦いの前からありました。

しかも、軍議作戦を巡って、以前から仲の悪かった「柴田勝家」と後の関白「羽柴秀吉」の意見が対立し、

秀吉は軍勢と共に勝手に【長浜城】へ帰陣してしまったこともあり、織田軍は内部統制が乱れていました。

そんな中、、織田軍総大将「柴田勝家」は、手取川を渡河したところで、七尾城落城と上杉軍が直ぐ近くに居る

との情報を知り、まずは、手取川後方までの撤退を開始します。

しかし、謙信公は、陣を張っている場所に、いつもより多めに「かがり火」を炊かせて、さもそこに部隊が駐留して

いるように見せかけると、騎馬だけの精鋭部隊を率いて織田軍の陣へ向かって夜襲を仕掛けます。

織田軍は、突然の奇襲に大混乱し、先陣にいた織田軍の部隊はあっという間に壊滅します。

しかも当時、雨が降り続いていて≪手取川≫が増水していたため、織田軍は撤退が困難な状況に陥り、

追撃も受け続け、大被害を被ってしまいます。

手取川は、その昔「石川」とも呼ばれ、日本有数の急流河川です。

勇将で知られる 「柴田勝家」 の部隊が何とか軍をまとめて反撃しようとしますが、すでに気勢を制されており壊滅。

「織田信長」も残存の兵をまとめて対抗しようとしますが、その頃には騎馬以外の上杉軍の兵士達も到着しており、

そのまま圧倒されて軍は崩壊。信長は、近衛兵数十騎と共に戦場からの脱出を計りますが、上杉軍に追撃され、

何とか美濃まで逃げ帰った時、近衛兵は数人だけになっており、自身も傷を負っていたと伝わります。

結局、織田軍は、≪手取川での戦い≫で溺死者も相次ぎ、合計2千もの死者を出す大敗を喫したのでした。

こうして、魔王と恐れられていた「織田信長」を窮地に立たせた毘沙門天の化身「上杉謙信」 公でしたが、謙信公

にとって、戦国最強武将と証される戦いでもあり、最後の勇名となった戦いでもありました。

関東情勢が気になり、一旦【春日山城】に戻り、翌3月、出陣間際、謙信公が厠に行った時に、突然 脳卒中で

倒れてしまったのです。(諸説はありますが、これが一番多いです。)

出陣は「信長打倒と上洛」のためとも「関東に出陣し北条氏政の征伐」のためとも云われています。

そして、数日後そのまま、謙信公が戻ってくることはありませんでした。享年49才。

この謙信公の突然の死で、越後上杉家では謙信の養子 「上杉景勝」 と 「上杉景虎」 の間で家督争いが

起ってしまいます。この戦いを 「御館の乱」 と呼びます。


尚、この記事では、織田信長が本戦に加わっているように書いていますが、実際は加わっていたかどうかは不明です。

秀吉が勝手に帰陣し、信長が残る事はありえるのか?もしかして、信長が居たとしたら、秀吉は勝手に帰陣した

のではなく何かの密命で帰ったのではないでしょうか?( 松永久秀の謀反の察知など )

≪手取川の戦い≫が謎に包まれているのは、上杉方残る史料文献には、手取川の戦いや戦後の上杉家の

加賀国への支配拡大などの記録が残されているのに対し、織田方の史料文献には手取川の戦いの記述が一切

残されていないのです。これは、時の権力者が、自分の不利なことを抹消することが多々あり、その類でしょう。

ただ、織田軍の大敗北が紛れもない事実だった証拠に、この戦後、越前国手前まで上杉の支配下になったという

史料が残っており、それは、それまで支配下にあった加賀南部を織田側が放棄・撤退したことになるからです。

しかし、謙信公の死によって、三次に及ぶ≪織田信長包囲網≫は完全に瓦解し、信長の天下布武が

ほぼ達成されることになるのです。



※ 謙信公亡き後の越後上杉の内紛は、【上杉館城/御館編】などをご覧下さい。

【手取川古戦場石碑】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/fc63i8

閉じる コメント(11)

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本当に詳しく調べられてますね! いつも感心させられます。

2011/12/19(月) 午後 0:56 [ pikadane ] 返信する

信玄公も謙信公も病死、信長ってつくづくついてます(*^^)v
秀吉と勝家の喧嘩別れも、現代ではなかなかありえない話です。
やはり戦国時代、強烈な自負心を持つ者同士なんですね。

2011/12/23(金) 午後 9:52 ヒックス店長 返信する

行ったときは穏やかな川だったのに、そんな激戦の地だったとはね〜?

2011/12/26(月) 午後 7:22 ♪rogumama♪ 返信する

>pikadane殿・・・いつもお褒めをありがとうござる。

2012/2/10(金) 午後 8:58 上杉政虎 返信する

>ヒックス店長殿・・・まさに天・地・人の天の時と地の利が織田信長には有ったのでしょうね。最後は、人の和に問題が有りましたけど。。。まさか光秀が???と歴史そのものも判らなかったような気がします。あまりにも急だったので家康さんが力を付けるまでの間、秀吉さんの時代は歴史の遊び心だと思っています。

2012/2/10(金) 午後 9:03 上杉政虎 返信する

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>ログママ姫・・・この川は世界的にも有名な急勾配の暴れ川なんだよ。川底を掘れば何かが出てくるんだろうな。。。

2012/2/10(金) 午後 9:04 上杉政虎 返信する

疑問に思うことがあります
そんなに強い謙信が 天下統一できなかった理由は何でしょう。

2014/5/31(土) 午前 6:36 [ AONORI4353 ] 返信する

私 上杉謙信が大好きなんです
そんなに早く亡くなるなんて…
49歳までに どうしたら 上杉謙信に天下統一を成し遂げる事が出来たのか 考えています…

2014/6/2(月) 午後 8:23 [ AONORI4353 ] 返信する

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> AONORI4353さん
謙信が川中島で時間を浪費した事が大きい。しかし謙信は戦をゲームとして楽しんでた様な処もあり、領地の獲得や天下のことは晩年になってのことであると思います。> AONORI4353さん
> AONORI4353さん
> AONORI4353さん
> AONORI4353さん
> AONORI4353さん

2016/7/23(土) 午後 9:54 [ hay***** ] 返信する

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> hay*****さん
初めから焦りまくって余裕もなく、敵を憎んで殺しまくった信長とやはり謙信は違う。謙信は自分の戦の才能を楽しんでいて、その遊び相手になってくれる敵を真から憎む事はなかった。

2016/7/23(土) 午後 10:02 [ hay***** ] 返信する

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僕は日本の歴史上の人物で上杉謙信が一番好きですし、川中島よりも手取川の戦いの方が好きです。信長好きでないし、これをコテンパンにやっつけた戦いだから。手取川の現場に信長が居ても居なくても同じと思います。信長軍の強さはその軍勢の数と鉄砲等の装備にあります。つまり物量です。面白くもなんともない。信長の存在は関係ない。

2016/9/7(水) 午後 7:57 [ hay***** ] 返信する

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