越後上杉毘沙門堂

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【宮崎館城】伊達氏と蘆名氏の東北覇権抗争戦の一つ「本名合戦」主将の居城

2011.05.21登城 本丸址に建つ祠
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金山町指定 重要文化財 【 宮崎館跡 】

この宮崎館城は、「館の越」といわれ、天正年間まで宮崎右近が三十貫を領した地に築かれたものである。

天文13年(1544)横田中丸城「山内俊清」は、領主を「長子俊通」に譲り、末子「俊甫」とともに川口に移り住み

【玉縄城】を築いた。

宮崎右近は、その一族で、最初は【玉縄城】と峰続きの【雀ヶ城】を守備していたが、6年後(天文19年/1550頃か)

館を築き、この地に移ったという。

この館は河畔の絶壁に築かれ、伊北道と只見川の水運を確保する重要な位置にあった。なお日常の居館はここより

600m川下の竪(館)町にあり、隣接して横町・出田町・中丸・馬垣・館ノ下などの地名が現在も残っている。

宮崎右近は、天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻には、本家「川口氏」とともに伊達に内応して先陣を勤め

≪本名合戦≫の主将となって戦い、戦後は伊達氏に従って米沢へ去って行った。

※ 現地説明板より

【追記】 登城日は2011.05.21ですが、この2ヶ月後、只見川沿線は甚大な水害に見舞われています。被災者の皆様方への心からお悔やみを申し上げると共に犠牲者の方々に対し哀悼の意を表します。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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現地の説明板の城郭見取り図です。
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活性化センターの見取図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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金山町活性化センターの裏手に城郭が広がっています。
※ 説明板は活性化センターの上流にあり、直ぐ横には江戸時代の旧五十島邸や沼田街道跡などがあります。
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本丸近景
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本丸手前には帯郭が認められ、そこからの只見川の眺めは必見です。
※ 今はどうなっているのか判りません。
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{{ 本丸全景です。本丸の祠の後ろは高台になっていて館があった場所でしょうか? }}}
※ 高台から土塁址の向こうは空掘を挟んで二の丸があります。
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本丸と二の丸間の空掘
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空掘は只見川方向に伸びています。
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二の丸全景です。巨石がありましたが石垣?ではないでしょうが・・・
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二の丸の搦め手口?只見川に行っています。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍の東北覇権争い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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伊達政宗は、東北地方の覇権を賭けて≪人取橋の戦い≫以降、蘆名氏・佐竹氏との対決姿勢を強めながら、

仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しつつありました。

一方、それに対する蘆名氏・佐竹氏の危機感は高まっており、伊達政宗は蘆名氏の本拠会津を奪うべく行動を

開始します。しかし、それは当時の天下人「豊臣秀吉」が出した「惣無事令」を無視する行動であったのです。

政宗は、猪苗代盛国の内通(盛国の長男盛胤は蘆名軍先鋒。盛国と後妻の生んだ次男らが伊達方)で

本宮から会津への道を確保すると【猪苗代城】を拠点にし、一方の「蘆名義広」は須賀川城から猪苗代湖南岸

を進み、軍を【黒川城】(現:会津若松城)へ集結させます。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち

伊達勢を挑発。伊達軍は21,000人、蘆名軍は18,000人とほぼ互角。

しかし蘆名軍には1580年の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者、伊達氏に内通する者、佐竹氏より

送り込まれた当主・蘆名義広に対し不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力に乏しかったのです。

主合戦は、猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である≪摺上原≫で行われました。

開戦当初は、蘆名軍が有利に戦っていましたが、暫くして風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、

蘆名軍は総崩れとなります。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大。

蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常陸国へ敗走。

蘆名氏は金上盛備、佐瀬種常など有力家臣の多くを失い大打撃を受けたのです。

当主・義広は、敗戦による家臣の背反や奥州惣無事令を気にして決戦に踏み切れず、実家の常陸佐竹家へ

落ち延びます。こうして、「伊達政宗」は、南奥州の覇者となり居城を【会津黒川城】へ移し、

更に白川結城・石川氏らを服属させます。

この一連の会津攻略戦の戦いの一つに宮崎右近が活躍した≪本名合戦≫があったのでしょう。

しかしながら翌年の豊臣秀吉の奥州仕置によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、

獲得地の会津領ほかを召し上げられます。

しかし会津の地は蘆名氏が復帰することはなく、蒲生氏郷に与えられます。

そして数年後、蒲生氏の代わりに越後から「上杉景勝」が120万石の加増移封されてくるのです。



【宮崎館城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/nFaIoW

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げんさん、おはようございます。
伊達政宗は中学の時に小説で読んで以来なので、ほぼ忘れています
政宗には夢とロマンがありますよね。
蘆名との東北覇権抗争戦、久しぶりに読みたくなってきました

2012/2/22(水) 午前 7:16 ヒックス店長 返信する

>ヒックス店長殿・・・私は最近、渡辺謙の大河ドラマ「独眼竜 政宗」を観ましたよ。政宗は結構、越後と縁があったとは知らなかった。まさに夢とロマンを追いかけた日本史上最後の戦国武将ですね。

2012/2/22(水) 午後 8:49 上杉政虎 返信する

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ちょいスタを読んで勉強させていただきました、大河ドラマでやりましたね。

けっこう政宗が米沢で生まれたことを知らない人が多いんですよね。

☆!

2012/2/27(月) 午後 0:13 [ pikadane ] 返信する

>pikadane殿・・・米沢城は政宗の産まれた所ですよね。その後、越後から直江兼続がお邪魔をさせて頂きました。伊達と上杉が真剣に組めば天下は東北に移ったかもしれないのにね。。。

2012/2/27(月) 午後 10:06 上杉政虎 返信する

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