越後上杉毘沙門堂

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【神指城/本丸編】天下に轟く野望を秘めた≪景勝と兼続≫幻の巨城

2011.05.04 神指城/本丸 大手口付近に建つ城跡幟
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今回は【神指城/二ノ丸編】を経て、本丸へと登城致します。

本丸大手口付近の駐車場脇にある城址説明板から
神指城 (福島県会津若松市神指町本丸)
神指城は、慶長3年(1598)越後から会津へ120万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に命じ築かせた日本有数のの規模をもつ平城です。『会津旧事雑考』によると、当初は会津盆地中央とする予定でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長5年(1600)3月18日から築城を開始しました。兼続の総指揮により、神指の十三ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から12万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣には着工できませんでした。
面積は、若松城(鶴ヶ城)の二倍、約55ヘクタールもあり、毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・大阪・西の広島・東の会津というように、政治経済の中心拠点にしようと川や運河を利用して築こうとしました。慶長6年(1601)に上杉氏は、米沢30万石へと移封となり、城は破城され、更に寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総て若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となりました。
会津古城研究会 会長 石田明夫 監修
設置者       神指城を守る会
越後上杉家として、【春日山城】から移封後、謙信公以来の越後の栄華を再びの思いをこの城に託したはず

なのに、時の天下人「徳川家康」の力に屈してしまった「上杉景勝・直江兼続」の幻の巨城です。

※時代背景などの詳細は【若松城/真冬編】【若松城/晩秋編】【若松城/赤瓦編】も併せてご覧下さい。


城郭概略図です。
※ クリックすれば、大きくなります。
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本丸大手口付近にある現地城郭図からです。
※ クリックすれば、大きくなります。
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神指城の城郭遊歩道案内図です。
※ クリックすれば、大きくなります。
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現在の駐車場付近に大手口があり駐車場は内堀跡です。
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大手口付近です。
※ ここから本丸へは観光目的では入れないようです。源さんは観光客ではなく山城探検隊でござる。
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石垣跡
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現地説明板より
神指城穴太積み石垣跡
織田信長の安土城石垣を築いた穴太衆が考案し江戸時代に技術が完成した、耐久力に優れた独特の石垣。普通野面積みともいわれるが裏込め石を大量に詰める為、正式には「穴太積み石垣」と云う。今、皆さんが立っている足元の土を掘れば、沢山の裏込め石が出て来ます。此処の石垣は、約360年前に鶴ヶ城に運ばれ難攻不落の名城の石垣に利用されました。

遊歩道入口です。
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本丸南側土塁と濠址
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二の丸西口付近
※ 写真手前の本丸から向こう側の阿賀川(大川)に運河を作り、塩川を経て阿賀野川(越後平野)へとつながり、諸国と貿易をしようと考えていたようです。
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本丸西口御門付近
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現地説明板より
本丸西御門濠跡
上杉景勝・直江兼続らの築城構想では、この西門濠から小船で大川に漕ぎ出し、塩川の川湊で帆掛け舟に乗り換えて阿賀野川を下り、日本海へと漕ぎ出して諸国と貿易が出来る城郭都市の大構想計画であったと伝えられるが、築城途中で廃城となる。

本丸西側土塁と内堀跡、本丸北西隅には天守予定地があります。
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現地説明板より
大天守予定地
天守閣の大きな土塁の形が見えます。この辺りには石垣の裏に詰めた栗石や残された石垣の大石が遺されています。
神指城を守る会

天守予定地の土塁
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天守予定地にある畑
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天守予定地から本丸郭内
※ 農家の方に許可を得て少し本丸郭内へと入らせて頂きました。郭内は土塁に囲まれ、現在は畑となっています。
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本丸の北側の土塁と内濠跡と本丸北東付近の土塁です。
※ 北東隅付近は土建屋さんの資材置き場か何かになっています。
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大手口付近です。
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グランド脇の城址説明板
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≪ ちょいスタTime ≫

「 神指城 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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《 本丸遊歩道入口付近の現地説明板より 》

【 神指城 】(輪郭式の平城) 総面積 約166.386坪(55ヘクタール)

≪二ノ丸土塁≫
 
東西 五丁二十間(581m) 南北 四丁五十間(526m)
塁址(幅) 九丈(約27m)  高さ 五丈五尺(18.15m)
外濠 幅(広さ) 三十間(約54m) 水深 一丈(約3m)

城門、石垣、四方に門と虎口を築き、橋で渡る。外濠の水は応湖川及び大川(阿賀川)より引き込む。
高瀬の大木(欅・昭和16年国指定天然記念物指定) 樹齢は推定九百年〜千年と見られる。
直江兼続は、この欅と北極星で基点を決め、提灯測量で城の縄張り(設計)を決めたと伝えられる。


≪本丸の石垣≫

東西 二丁四十間(290m)  南北 二丁五十間(308m)
塁址(幅) 十間(約18m)   高さ 六丈五尺(約19.5m)
内濠 幅(広さ) 三十間(57.6m) 水深 一丈(約3m)
城門、石垣、東・西・北口に、門と虎口を築き橋で渡る。内濠の水は主に大川(阿賀川)より引き込む。
兼続の構想では、西口門濠から高瀬舟で大川を塩川の川湊に下り、帆掛舟で阿賀野川を下り日本海に出る事が出来る。経済都市120万石の城下町を築き、諸国との貿易を考えたという。


≪築城≫

慶長5年(1600)3月、上杉景勝は執政兼続に神刺(指)ヶ原に、新城と城下町の造営を命じた。兼続は鉄孫左衛門に普請奉行を、大国但馬守実頼に作事奉行を命じ、領内から約8万人の農兵と在郷から約数万人の役夫を集め、延べ12万人で慶山から切り出した大石を三里の石引き道を昼夜兼行で神指城へ運んだという。本丸の石垣積みは、佐竹家・前田家から穴太石垣職人が数百人応援に来たという。二ノ丸は土塁で囲み、本丸は高石垣で四方を囲み、外濠・内濠には大川と応湖川から水に引き込み、本丸石垣の東・西・北口の城門に橋を架けた。


≪廃城≫

同年4月、秀吉亡き後の覇権を狙う徳川家康は、上杉景勝に上洛を迫る。
兼続は主君と協議の上、理路整然と家康の非を衝き、上杉家の義を貫いた『直江状』を送る。直江状に激怒した家康は、朝廷・豊臣秀頼から上杉討伐の論旨を受け、諸侯に激を飛ばして、自ら約6万の上杉討伐の軍勢を率いて、6月16日大阪を出発した。
急報を受けた景勝は築城の工事を中止して、国境の重要拠点、特に白河口などには、防塁・塹壕・砦などを短期間で築き徳川勢の侵攻に備えた。
しかし京の伏見で石田三成が挙兵し、小山に到着した家康は小山評定の結果関ヶ原に軍を反した。白河決戦は幻に終わり、兼続は北の最上・伊達勢との合戦が続いたが、9月、関ヶ原の東軍勝利の報が届き、兼続は苦渋の選択をし「長谷堂城の撤退戦」など、勝ち戦を放棄し上杉軍は兵を引いた。
翌6年、上杉景勝は徳川の臣下に降り、米沢30万石に転封と決まり景勝は神指城を破城して米沢に去った。その後、寛永16年(1643)時の領主加藤明成は、神指城本丸の石垣を総て鶴ヶ城に運び去り、北出丸・西出丸などの拡張をした。その結果、神指城は廃城となった。



神指城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。  
http://yahoo.jp/Okbpe6

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【神指城/二の丸編】豊臣政権五大老≪上杉景勝≫の幻の巨城

2011.05.04 神指城/二の丸北東隅櫓跡にそびえる高瀬の大ケヤキ
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神指城(こうざしじょう)は、現在の福島県会津若松市神指町にあった城で、

本丸と二の丸からなる「回」字形の輪郭式平城で、面積は本丸56,000m²、二の丸を含む全域では500,000m²あり、

【若松城】(会津若松城/鶴ヶ城)の約2倍の規模だったようです。

城の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」(現存)と北極星を基点に縄張りしたと伝えられています。

2009年のNHK大河ドラマの「天地人」で、『 北斗の七星 』 と良く登場していた言葉は、

こう言うところと絡んでいるのでしょうか?

≪関ヶ原の戦い≫が短期決戦と終わり、一気に天下が「徳川家康」政権に移ったため、無念ながら完成まで

至らなかった越後上杉家の会津での幻の巨大城です。

※時代背景などの詳細は【若松城/真冬編】【若松城/晩秋編】【若松城/赤瓦編】も併せてご覧下さい。


城郭概略図です。
※ クリックすれば、大きくなります。
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本丸大手口付近にある現地城郭図からです。
※ クリックすれば、大きくなります。
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神指城の完成予定図/高瀬の大木の付近に白黒版が掲示されています。
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高瀬の大木の遠景(城郭東側から)
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高瀬の大木のある場所は二の丸の北東隅の土塁で櫓跡だったようです。
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二の丸北東隅の土塁
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現地説明板より
高瀬の大木(ケヤキ)
会津若松市神指町高瀬字五百地
慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある。築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mある。大枝のの折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである。昭和56年11月会津若松市教育委員会

二の丸北東隅櫓跡
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現地説明板より
慶長5年、時の会津藩主「上杉景勝」が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。この巨石はここより南方300mの本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである。    高瀬共有財産区

高瀬の大木の根と城郭図
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北東隅の外堀址
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二の丸北東隅の外堀を挟んで福昌寺があります。
※ 境内の説明板から、上杉時代よりかなり昔から、この寺院はあったようです。
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二の丸北東隅から城郭南側にも土塁が残っています。
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二の丸北西隅土塁
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二の丸北西隅土塁から北東隅櫓と本丸
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二の丸の南西側の土塁
※ 土塁上に民家があるけど、どうなってるんだろう?
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南東隅土塁
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本丸北側の内堀址
※ 分譲しているようですが?買おうかな???
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本丸南側の内堀址
※ 南側は田畑になっています。
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本丸北東隅から二の丸の北東と北西隅
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城郭南側からの全景と五穀神社
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≪ ちょいスタTime ≫

「 神指城の築城 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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慶長3年(1596年)会津へ移封された上杉景勝が、会津盆地の東南隅に位置する【会津若松城】は拡張が

難しいと判断し、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新たな城の建設を家老「直江兼続」に命じ築城させた

ものです。

兼続は弟の「大国実頼」を作事奉行とし、慶長5年(1600年)3月18日から築城を開始します。

神指ヶ原の13ヶ村を強制的に移住させ、領内から12万人を動員、石垣、土塁、堀、門、などを完成させますが、

天守着工前に「徳川家康」の会津征伐により6月10日で工事は中断してしまいます。

≪関ヶ原の戦い≫の後、慶長6年(1601年)上杉氏は米沢へ移封となり、完成を待たずして神指城は破却され、

寛永16年(1639年)会津藩主「加藤明成」が石垣を全て若松城へ運び去ったとされています。


《 高瀬の大ケヤキ下にある現地説明板より 》

【 神指城跡 】

神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、

重臣「直江兼続」に命じて築城させた城です。

慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。

縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。

このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。

面積は、本丸だけでも約56.000屐二ノ丸を含む全域では約500.000屬發△蝓⊆秕松襪鰺擇に凌ぐ規模の

壮大な城でした。この土地(高瀬の大木の場所)は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。

この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が

難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城、築城地として適していたためと考えられます。

しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は

中断されます。そして、関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、

神指城は完成を見ないまま廃城となりました。

このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。



神指城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。  
http://yahoo.jp/Okbpe6

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【会津若松城/二の丸三の丸/赤瓦編】豊臣政権五大老≪上杉景勝≫の居城

2011.05.04 会津若松城/鶴ヶ城の天守と本丸
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若松城(わかまつじょう)は、地元では一般的に【鶴ヶ城(つるがじょう)】とも呼ばれ、地元以外では【会津若松城】と

呼ばれることも多く、1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)に「蘆名氏7代当主の蘆名直盛」が【小田垣の館】

または【東黒川館】という館を造ったのが【若松城】の始まりとされています。

以後、代々蘆名氏の城で、戦国中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が、この【黒川城】を中心に広大な版図を

築いていきます。1589年(天正17)、一旦「伊達政宗」の手に渡りますが、天下人「豊臣秀吉」に会津を召し上げられ

代わって黒川城に入ったのは「蒲生氏郷」、この蒲生氏郷により城下町が整備され、1593年(文禄2年)望楼型7重

(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名を【鶴ヶ城】に改められます。

蒲生氏の家中騒動のため、1598年3月、今度は越後国春日山城より豊臣政権五大老の1人「上杉景勝」公が

120万石で入封します。しかし、その数ヵ月後に豊臣秀吉が死去。

その2年後、1600年(慶長5年)≪関ヶ原の戦い≫で徳川家康は西軍に加担したとして景勝公を30万石に減封、

出羽国米沢に移封したのです。

※城の詳細は【会津若松城/本丸北出丸/真冬編】【会津若松城/本丸晩秋編】も併せてご覧下さい。


城郭概略図です。
※ クリックすれば、大きくなります。
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三の丸の様子です。
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二の丸と三の丸間の濠
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二の丸東門
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二の丸東門の内側
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二の丸のテニスコートと濠
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二の丸南門付近
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二の丸から本丸間の廊下橋
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廊下橋の外側と内側
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本丸郭の北側にある北帯郭
※ 御弓櫓や北櫓の址があります。
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北帯郭から本丸郭内へ
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本丸埋門
天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。城内のほか尚門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639)の加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。

本丸郭を縄張りする石垣
※ 赤瓦に復元後直ぐに起きた東日本大震災で石垣も崩れていました。
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本丸郭中央部には藩主の居間跡があります。
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御居間跡からの天守閣
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御三階址
※ 当時の現存で市内の正覚寺へ移されています。再びここに移築する計画があるようです。
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茶壷櫓跡からの天守閣
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茶壷櫓跡と廊下橋
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茶壷櫓
櫓内には常に貴重な茶器類がおさめられていたのでこの名がある。更に武器の収容をも目的とした二重の塗込櫓であった。茶壷櫓の西側の本丸奥御殿内には茶室「麟閣」が建てられていた。この櫓は御弓櫓と共に本丸の旧大手口に通じる廊下橋の横矢掛りとしても重要な櫓であった。北側の石垣は高さ20メートル余りで城内では最も高く美しい扇勾配をなし、「忍者落し」ともいわれている。

月見櫓跡
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月見櫓
二十の塗込櫓で常に武器が収められていた所であったが、城内から月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから月見櫓の名が付けられていた。城下南方の湯川や天神橋方面の搦手側の物見櫓として、また内濠、牛沼沿の本丸石垣の外部の横矢掛りとしても重要な櫓であった。

鉄門と天守閣
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表門(鉄門/くろがねもん)
帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で北向きの多聞櫓城門である。扉や柱が鉄で包まれていたところから鉄門の名が付けられている。門の石垣の仕法は「切込ハギ」と呼ばれ代表的な遺構の一つとして知られている。
※多門/多聞とは長屋状の建物をいう。

上杉謙信公仮廟所跡
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上杉謙信公仮廟所跡
天正6年(1578)に亡くなった戦国武将「上杉謙信」は甲冑姿で甕(かめ)に納められたと伝えられ、居城の春日山城に葬られました。その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移されることとなり、若松城(鶴ヶ城)内の西南の隅の仮殿に安置された記録があります。当時の城内の様子は正確にはわかりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば、この蔵跡あたりが該当するのではないかと考えられます。慶長6年(1601)、上杉景勝の米沢転封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移されました。

太鼓門付近と北出丸方向
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太鼓門
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、そこには多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、胴の径五尺ハ寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから太鼓門と呼ばれていた。

太鼓門内側の武者走り
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太鼓門内側から見上げる天守閣
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御三階
※市内の「正覚寺」の境内に移され現存しています。
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御三階
江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが内部は4層になっており、2階と3階のの間に天井の低い部屋があります。3階に上る梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており当時は密議所に使用されていたと思われます。また本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから物見や展望台の役目を果していました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。


≪ ちょいスタTime ≫

「 五大老と五奉行/豊臣政権末期から徳川政権への変遷概略 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康、前田利家ら有力五大名を指した言葉。

豊臣秀吉は己の死後、その息子「豊臣秀頼」を五大老が補佐し、合議制をとることにより「徳川家康」の台頭を

防ごうと考えていました。将来台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある家康を大老として取り込んでしまうことに

より禍根を断とうとした秀吉の策でもあったのです。秀吉存命中は、秀吉の期待に沿う働きをしていましたが、

死後は家康の度重なる盟約違反により有名無実化していきます。

なお、五大老はその数が常に固定化されていたわけではなく、上杉景勝は小早川隆景が死去するまでは、連署に

署名している場合とそうでない場合があり地位が固定化されるのは隆景死後からでした。

また総ての人物が同格でなく特に徳川家康は終始、五大老内でも特段の地位を保持し続けていました。

この家康に対抗する人物として前期は≪毛利輝元/小早川隆景≫、後期は≪前田利家≫が充てられていました。

秀吉の死後は遺命により、「徳川家康」が【伏見城下】にて政務をとり、「前田利家」は【大坂城】において

秀頼の傅役とされました。

前田利家の存命だった慶長4年(1599年)までは、家康の専横までは防げなかったものの、家康が豊臣家より

上回る権威を持つことを防ぐことはできていました。

しかし、「前田利家」死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて【大坂城西の丸】に入って秀頼を

掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなったのです。

前田家は、家康に屈服し人質を差し出し、残る二家(毛利家・宇喜多家)は≪関ヶ原の戦い≫で敗れ、

上杉家は≪慶長出羽合戦≫などで東軍の敵となり、いずれも改易または大幅減知となり脱落、転落していきます。

こうして「徳川家康」の単独支配体制が確立していったのです。

また、五奉行とは、豊臣政権末期に主に政権の実務を担う5人の政治家(奉行職)的人物を指した言葉。


【五大老】

□徳川家康(関東に256万石)
□前田利家(北陸地方・加賀など83万石)
□毛利輝元(中国地方に120万石)
□宇喜多秀家(中国地方・備前57万石)
□上杉景勝(東北地方・会津120万石)

【五奉行】

□主に司法担当 – 浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
□主に行政担当 – 石田三成(近江佐和山19万石)
□主に土木担当 – 増田長盛(大和郡山22万石)
□主に財政担当 – 長束正家(近江水口5万石)
□主に宗教担当 – 前田玄以(丹波亀岡5万石)



鶴ヶ城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。  
http://yj.pn/JBsgfk

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【魚津城】織田信長軍と上杉景勝軍の越中覇権争いの舞台城

2011.04.09登城 本丸址の現「大町小学校」正門付近に建つ城址石碑
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魚津城(うおづじょう)は、富山県魚津市にあった平城で、別名「小津城」または「小戸城」とも云われています。

【松倉城】の支城のひとつで、≪魚津城の戦い≫の舞台で有名です。

伝承では、建武2年(1335)「椎名孫八入道」によって築城されたと云われ、戦国時代に「椎名康胤」が

上杉氏から離反すると、【魚津城】は、椎名氏を追討して越中に侵攻した上杉軍の手に落ち、以後上杉氏の

越中支配における重要拠点となり、「河田長親」が長くの間、城代を務めています。

跡地は現在大町小学校および裁判所などの敷地となっており遺構は殆ど残っていません。
※ 現地説明板より
魚津市指定文化財 記念物(昭和38年4月1日指定) 
史跡 魚津城跡
松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。築城年代は定かではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していました。
天正10年(1582)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らの攻撃を受け「本能寺の変」の翌日である6月3日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下となりましたが、江戸時代の初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代中頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。本丸の部分は現在、大町小学校となっています。
平成22年9月 魚津市教育委員会
※【魚津城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/h5ZQd2


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。当時の絵図を参考に推定城郭図にしてみました。
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現地の説明板の城郭図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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大町小学校のグラウンドです。
※ 小学校裏手(当時の大手口)からの登城。隅に土塁みたいにしてありますが、まさか当時のものではあるまい?
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グラウンドの入口には上杉謙信公の歌碑が建てられています。
※ 同所に植えられている松は「ときわ松」(二代目)と言われる松です。
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上杉謙信公の歌碑です。
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上杉謙信公の歌碑の説明です。
※ この歌を詠んだ時は、自分の死後、魚津城に織田軍が攻め寄せて来ることなど思いもしなかったでしょう。
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ときわの松と魚津城址の案内です。
※ 魚津城址の石碑などは小学校の正面に回って下さい。「ときわ松(初代)」は、古くから【魚津城】内にそびえ立っていとのことで、上杉謙信公が植えたとも云われています。しかし、昭和16年(1941年)の火災で焼失してしまい、焼け残った木の部分を木材にして、大町小学校の机などを作ったそうです。今の松は植えなおしたもので当時のものではありません。
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大町小学校の正面にある城址石碑と説明板
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魚津城城址石碑
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小学校正面玄関付近です。玄関前あたりは濠があったようです。
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現在の大町小学校の学び舎です。当時に、あんな悲惨で凄まじき戦いがあったとは思えぬ光景です。
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魚津とは遠く離れていますが、魚津在城十三将の一人「吉江宗信」の墓所は、山形米沢市の林泉寺にあります。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 魚津城の戦い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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上杉氏と織田氏は、一時は、甲斐武田氏と相模後北条氏に対するため同盟を結んでいましたが、織田信長が

将軍家をないがしろにしていくのを見るに絶えず、毛利氏の元に身を寄せていた将軍「足利義昭」が反信長勢力を

迎合すると、謙信公は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦、同盟は手切となり敵対関係に入ります。

七尾城攻防戦や≪手取川の戦い≫を経て、一旦は上杉軍が優勢になりますが、天正6年に謙信公が死去すると

上杉家内部で、亡き謙信公の家督争い≪御館の乱≫を起してしまいます。しかし、1年以上続いた、この乱で、

「上杉景勝」公が当主となったものの、多くの諸将を失い越後の国力・武力は半減してしまいます。

結果的には越後統一までは、その後も続き、約7年余りも費やす事になるのです。

乱を制圧した上杉景勝ですが、この乱に勝利するため、信長の当敵である甲斐武田氏と同盟したため、

上杉・織田氏は引き続き敵対関係が続きます。

一方、謙信公死後、≪御館の乱≫の隙を付き、織田信長は北陸地方の支配を目論み、織田軍の

北陸方面軍総司令官「柴田勝家」らが上杉勢を次々と粛清、北陸地方における織田の基盤が作られていきます。

そして、ついに天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、その勢いで同年3月に魚津城を囲みます。

一旦は、織田方「神保長住」の【富山城】を奪還し、魚津城から織田方を兵を引かせるも、再び【富山城】を

奪還され、「柴田勝家、佐々成政、前田利家・佐久間盛政」ら、4万ともいわれる織田軍は【魚津城】への攻撃を

再開し、上杉氏も3,800ともいう兵で、城に立て籠もったのです。

【魚津城】を再び包囲された上杉方指揮官「中条景泰」は、すぐに越後【春日山城】の「上杉景勝」に救援を

求めますが、越後に接する信濃・上野には武田征伐を終えた織田軍が駐屯し、さらに越後の揚北衆【新発田城】

の「新発田重家」が織田軍と通じ、景勝の領内侵攻の姿勢をとった為、後詰の兵を出すことが出来ずにいました。

そして、その後に兵を整えた景勝は天正10年(1582)5月4日魚津城救援のため、自ら軍勢を率い【春日山城】を

出発、5月19日には魚津城東側の【天神山城】に入り陣を張ります。

しかし、すでに織田軍は、5月6日に二の丸を占拠していたため、景勝は【魚津城】に戦を仕掛けられずにいたところ

今度は、信濃【海津城】の「森長可」、上野【厩橋城】の「滝川一益」が、【春日山城】を総攻撃する態勢に入った

ため、5月27日に、【天神山城】からの退陣を決断。その後、【魚津城】の上杉軍は篭城戦を展開し、

両軍が決死の攻防戦を繰り広げますが、開戦から3ヶ月後の 6月3日に、落城を悟った


 「 山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・

  亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱 」ら上杉方の守将13人が自刃して果て【魚津城】は落城。


こうして織田軍の勝利となったのです。この時、守将らは自刃する際、自分の耳に穴を開けて自分の名前を書いた

木札を全員で結び自刃したと伝えられています。

これにより、景勝は信長に北陸地方を支配され窮地に立たされますが、6月2日に信長が本能寺で明智光秀に

より討たれ(本能寺の変)、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退します。

落城前日の6月2日に、織田信長が明智光秀により討たれ、織田軍指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは

落城の翌日6月4日で、この急報があと1日早く、6月3日だったら、守将自刃の悲劇は起きなかったも云われます。

空城となった【魚津城】には「須田満親」を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還するも、

越中平定を目指す「佐々成政」に再び押され、城を開け渡すことになります。

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≪越後上杉軍の越中方面指揮官について≫

魚津城の戦い当時の【魚津城】の指揮官は、奥山庄の鳥坂城城主「中条景泰」とされています。

※ 越後上杉所縁の古城 (下越後)の【江上館】記事を参照して下さい。

中条氏は、越後国人衆の揚北衆三浦党の一人ですが、中条氏で後継の男子がいなくなり、同じく越後国人衆の

西蒲原郡の吉江氏から中条氏に婿養子に入り家督を相続したのが「中条景泰」です。

前指揮官「河田長親」死後、越中戦線に送られ、実父「吉江景資」らと織田軍の攻勢を防いできました。

十三守将の一人で、老将「吉江宗信」の孫に当ります。自刃時、老将「吉江宗信」77歳。

「中条景泰」25歳、「吉江景資」55歳。


前指揮官「河田長親」という武将は、長尾景虎(後の上杉謙信公)が2度目の上洛の際、その美貌と才能を

認められて側近として取り立てられ、奉行職を歴任した智勇兼備の武将であったとされています。

古志郡【栖吉城】城主を務め、永禄年間は【沼田城】城代、永禄末年からは【越中魚津城】を預かり、

越中方面の総指揮官として軍政に当たっています。その後、越中松倉城城主を経て、天正5年(1577年)

謙信公が織田の大軍を迎え撃った手取川の戦いの際は落城した【七尾城】を受け取っています。

天正6年(1578年)に謙信が死去すると出家して禅忠と号し、≪御館の乱≫では景信や一族の河田重親が

「上杉景虎」に味方したのに対し、はじめ中立を保ち、のちに「上杉景勝」を支援します。

この間「河田長親」は、謙信の死を好機として侵攻してくる織田軍への防戦に追われていました。

織田信長からは、近江国を与える条件で上杉氏に背くよう誘いが来たが、これを断り景勝を支援し続けます。

その後も柴田勝家、佐々成政らの越中侵攻を迎えて戦うが、その最中の天正9年(1581年)に越中松倉城で病死。

享年39歳。

この長親の死去に乗じて勢い付いた織田軍により、越中の過半が織田氏の支配圏に入ることとなったのです。

「河田長親」が、織田信長軍の侵攻を遅らせた功績は、多大な物があります。

もう少し、元気でいたら能登や越中は越後上杉氏の支配下のままだったはずですが、これも歴史です。

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【宮崎館城】伊達氏と蘆名氏の東北覇権抗争戦の一つ「本名合戦」主将の居城

2011.05.21登城 本丸址に建つ祠
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金山町指定 重要文化財 【 宮崎館跡 】

この宮崎館城は、「館の越」といわれ、天正年間まで宮崎右近が三十貫を領した地に築かれたものである。

天文13年(1544)横田中丸城「山内俊清」は、領主を「長子俊通」に譲り、末子「俊甫」とともに川口に移り住み

【玉縄城】を築いた。

宮崎右近は、その一族で、最初は【玉縄城】と峰続きの【雀ヶ城】を守備していたが、6年後(天文19年/1550頃か)

館を築き、この地に移ったという。

この館は河畔の絶壁に築かれ、伊北道と只見川の水運を確保する重要な位置にあった。なお日常の居館はここより

600m川下の竪(館)町にあり、隣接して横町・出田町・中丸・馬垣・館ノ下などの地名が現在も残っている。

宮崎右近は、天正17年(1589)伊達政宗の会津侵攻には、本家「川口氏」とともに伊達に内応して先陣を勤め

≪本名合戦≫の主将となって戦い、戦後は伊達氏に従って米沢へ去って行った。

※ 現地説明板より

【追記】 登城日は2011.05.21ですが、この2ヶ月後、只見川沿線は甚大な水害に見舞われています。被災者の皆様方への心からお悔やみを申し上げると共に犠牲者の方々に対し哀悼の意を表します。


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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現地の説明板の城郭見取り図です。
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活性化センターの見取図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
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金山町活性化センターの裏手に城郭が広がっています。
※ 説明板は活性化センターの上流にあり、直ぐ横には江戸時代の旧五十島邸や沼田街道跡などがあります。
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本丸近景
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本丸手前には帯郭が認められ、そこからの只見川の眺めは必見です。
※ 今はどうなっているのか判りません。
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{{ 本丸全景です。本丸の祠の後ろは高台になっていて館があった場所でしょうか? }}}
※ 高台から土塁址の向こうは空掘を挟んで二の丸があります。
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本丸と二の丸間の空掘
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空掘は只見川方向に伸びています。
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二の丸全景です。巨石がありましたが石垣?ではないでしょうが・・・
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二の丸の搦め手口?只見川に行っています。
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≪ ちょいスタTime ≫

「 米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍の東北覇権争い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
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伊達政宗は、東北地方の覇権を賭けて≪人取橋の戦い≫以降、蘆名氏・佐竹氏との対決姿勢を強めながら、

仙道筋(現在の福島県中通り)で勢力を拡大しつつありました。

一方、それに対する蘆名氏・佐竹氏の危機感は高まっており、伊達政宗は蘆名氏の本拠会津を奪うべく行動を

開始します。しかし、それは当時の天下人「豊臣秀吉」が出した「惣無事令」を無視する行動であったのです。

政宗は、猪苗代盛国の内通(盛国の長男盛胤は蘆名軍先鋒。盛国と後妻の生んだ次男らが伊達方)で

本宮から会津への道を確保すると【猪苗代城】を拠点にし、一方の「蘆名義広」は須賀川城から猪苗代湖南岸

を進み、軍を【黒川城】(現:会津若松城)へ集結させます。高森山に布陣した蘆名勢は民家に火を放ち

伊達勢を挑発。伊達軍は21,000人、蘆名軍は18,000人とほぼ互角。

しかし蘆名軍には1580年の蘆名盛氏の死去以来主家に不満を持つ者、伊達氏に内通する者、佐竹氏より

送り込まれた当主・蘆名義広に対し不満を抱く者などがおり、その様々な思惑から団結力に乏しかったのです。

主合戦は、猪苗代湖の北岸、磐梯山の裾野である≪摺上原≫で行われました。

開戦当初は、蘆名軍が有利に戦っていましたが、暫くして風向きが東風に変わると伊達軍が逆に圧倒し始め、

蘆名軍は総崩れとなります。敗走する蘆名軍は日橋川によって黒川城への帰還を妨げられ、被害が拡大。

蘆名義広は実家である佐竹氏を頼って常陸国へ敗走。

蘆名氏は金上盛備、佐瀬種常など有力家臣の多くを失い大打撃を受けたのです。

当主・義広は、敗戦による家臣の背反や奥州惣無事令を気にして決戦に踏み切れず、実家の常陸佐竹家へ

落ち延びます。こうして、「伊達政宗」は、南奥州の覇者となり居城を【会津黒川城】へ移し、

更に白川結城・石川氏らを服属させます。

この一連の会津攻略戦の戦いの一つに宮崎右近が活躍した≪本名合戦≫があったのでしょう。

しかしながら翌年の豊臣秀吉の奥州仕置によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、

獲得地の会津領ほかを召し上げられます。

しかし会津の地は蘆名氏が復帰することはなく、蒲生氏郷に与えられます。

そして数年後、蒲生氏の代わりに越後から「上杉景勝」が120万石の加増移封されてくるのです。



【宮崎館城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/nFaIoW

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