かごしま検定をめざす鹿児島案内

かごしま検定(マスター)合格者が鹿児島を探求します

全体表示

[ リスト ]

舞鶴城と島津義久

舞鶴城と島津義久
 
 
舞鶴城跡は、JR日豊線国分駅のほぼ東、2kmほどのところにあります。
 
ここは、慶長年間に島津義久によって築城された城で、義久は慶長9年から没するまでの約7年をここで過ごしたと伝えられています。
 
この城は、天守閣を持たない「屋形造り」で、背後にあるかつての隼人城の南麓に築かれ、国分御屋形ともよばれ、いざというときは隼人城に立て籠もる戦術を想定した、隼人城と一体となった城であったといわれています。
 
跡地は、現在は国分小学校と国分高校のグランドになっていますが、周囲に石垣と堀が残り、また旧国分城南門で藩士屋敷に払い下げられていた「朱門」が移築されています。
 
 
1 場所↓
 
 
2 城跡のようす
①全景
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 13
 
 
②堀と石橋
イメージ 17
 
イメージ 18
 
イメージ 19
 
イメージ 20
 
イメージ 21
 
イメージ 22
 
イメージ 23
 
イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
 
③「舞鶴城館跡」の石碑
イメージ 7
 
 
④舞鶴城復元図
イメージ 8
 
イメージ 9
 
 
⑤朱門(あけもん)
イメージ 10
 
イメージ 11
 
イメージ 12
 
<説明板「朱門」>
イメージ 14
舞鶴城内陣の門であったものを、市内重久の細山田家の祖先が領主島津義久公より拝領したものと伝えられている。
 
昭和38年、細山田家から大隅国分寺跡に移転保存されたが、台風のため倒壊した。
 
昭和50年、国分市の市制二十周年事業の一環として、朱門を修復し、ゆかりの舞鶴城に復元した。
 
 
<説明板「舞鶴城と朱門」>
イメージ 15
「朱門は、当初舞鶴城内にあったものを移築したと言われているが、その根拠は定かではない。門が「朱」で塗布されていることや、門の形状も比較的小さいことから、舞鶴城内にあったとすれば、奥向きに通じる門ではなかったか、と推察される。」
 
 
⑥島津義久辞世の句
イメージ 16
「世の中の 米と水とをくみ尽くし つくしてのちは 天つ大空」
 
 
 
3 沿革
 
フリー百科事典『ウィキペディア』には、次のような記載があります。
 
・国分城(こくぶじょう)は鹿児島県霧島市国分中央にあった城。別名「国分新城」、「国分御屋形」、「舞鶴城」
 
・慶長9年(1604年)頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城から、新しい城を新設して移り住んだ。
 
・義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を整備したが、慶長16年(1611年)に義久が没した後は、義久の娘で18代当主・島津家久(忠恒)の正室であった亀寿姫が鹿児島城より別居させられて移り住んだ。
 
・寛永7年(1630年)に亀寿姫が死んだ後は国分城は藩主直轄の地となり、地頭屋形がおかれていた。
 
・その後、薩摩国、大隅国の境に位置するという絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は国分城下の測量まで行ったが、斉彬の死去により頓挫しこの計画は実行されなかった。
 
・明治10年(1877年)の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯。その後は霧島市立国分小学校がおかれた。
 
・現在は国分小学校の周囲に石垣と堀が残り、また旧国分城南門で藩士屋敷に払い下げられていた「朱門」が移築されている。
 
・また、堀には二ヶ所江戸時代の外城時代に石橋が設けられている。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事