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奄美大島の西郷隆盛の蟄居の地、島妻「愛加名」そして菊次郎


 奄美大島の北部の入り組んだ海岸線を持つ町、龍郷町。

 ここに、西郷隆盛が幕末の安政6年(1859)に藩の命令で蟄居を命ぜられ、その後ほぼ3年間、ここで暮らしていました。

 西郷は島の暮らしに徐々に溶け込み、奄美大島の龍郷村の比較的裕福な農家、龍一族の娘の愛加那と結婚し、菊次郎と菊草という2人の子供が生まれています。

 やがて文久2年(1862)11月に西郷に帰国命令が下り、島を出ることになりました。

 しかし、愛加那は島の掟により島から出ることが許されず、2人の子は鹿児島の西郷家に引き取られました。

 西郷は鹿児島に戻った後、イトという女性と結婚し、そこで2人の子はイトとの間で生まれた2人の子とともに育てられました。

 愛加那は、その後、奄美でその一生を送りました。

 一方、西郷は鹿児島に戻ったのち、久光の怒りに触れて奄美のすぐ南の島の徳之島に再び流され、このとき愛加那は、2人の子供をつれて徳之島に渡り、再会をしました。

 しかしすぐに西郷は沖永良部島に流されることになり、以降、再び西郷と愛加那が会うことはありませんでした。


1 愛加那が西郷と2人の子たちと暮らした家


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内部は西郷南州翁遺跡として有料で公開しています。
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西郷は藩より蟄居を命ぜられ、ここで暮らしていました。

だ抄燭琉簓
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・食膳
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・枕と盃台
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・書
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2 愛加那(あいかな、「かな」は女性の尊称)
・愛加那と菊次郎
(書は西郷の3度目の妻イトとの間の子、寅太郎の子の吉之助によるもの。吉之助は、後に第二次佐藤内閣の改造内閣で法務大臣に就任)
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愛加那が西郷や二人の子と暮らした家が現存しています。この家の前に、平成15年に、愛加那没後100年を記念して建てられた愛加那の石碑があります。

・愛加那の石碑
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碑文はつぎのように書かれています。

・天保8年(1837)、龍一族の娘として生まれた。
・少女期から芭蕉布を織り始め、やがて村の女たちに教えるほどの腕前になる。
・気丈で働きものだった。
・安政6年(1859)、鹿児島から遠島になった西郷吉之助と結婚し、この家で暮らした。
・菊次郎と菊草の二児に恵まれたが、三年後、吉之助は島を去り、やがて二人の子も西郷本家へ引き取られた。
・吉之助は明治維新の立役者の一人として歴史に名を残した。
・愛加那は、この家でひっそりと暮らし、ひたすら夫と子らに会う日を待った。
・明治35年(1902)8月、大雨の中を畑仕事に行き、そこで倒れた。享年66歳。

<愛加那の墓>
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3 西郷菊次郎

・愛加那と菊次郎
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・菊次郎は2歳の時に西郷本家に引き取られ、のちに西南戦争に従軍し、銃撃されて、その結果右足のひざ下を切断することになります。その後は外務省に入り、明治35年に退職して鹿児島に帰っていました。

 その頃、北垣国道などのバックアップを受けて京都市長候補に推薦され、明治37年から44年までの6年間という長い期間、京都市長に就任し、京都の近代都市としての原形を作り上げたということで高く評価されています。

 また、菊次郎は奄美に残した母のことを気にかけて、手紙を書き送っています。母、愛加那は、一人でひっそりと島で暮らし、明治35年に亡くなりました。


4 菊草
 菊草は後に大山巌の弟と結婚しました。


5 「西郷松」
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 安政6年(1859)、奄美に流された西郷を乗せた船が龍郷湾に上陸したとき、船のとも綱を結んだ木が、この琉球松だといわれています。

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詳しく調べられましたね。有難うございます。
奄美の吉

2009/9/24(木) 午前 5:14 [ yos*ii*120*000 ] 返信する

ここは昔は無料でしたけどね。

2010/1/21(木) 午後 11:01 陽ちゃん 返信する

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