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本題に入る前に、前回の記事中誤りが発見されましたので、先ずはその訂正をしときます。
お袋の面会が「4月30日」と記してましたが、「3月31日」でした。
獄中5度目にして最後の「昭和節」を保護房に在って、心ゆくまで奉祝の軍歌演習を為し4月30日逗留戦を打ち切って保護房を出房し、約半年振りに2舎1階29房の独房に還房した。
保護房の利点は、大声で何物にも遠慮無く軍歌演習が出来ることである。刑務所で大声を張り上げることなど、普通に受刑者生活を送っておれば先ず出来ない。一般房に居たころ、たまーにラジオから軍歌が流れることがあるのだが、嬉しくて無意識の裡に唱和している。ほとんど声を出していないつもりが士気が高揚するので、ちょっとづつ大きくなってくるらしい。それでよく看守から注意され忸怩たる思いをしたものである。
だから保護房での軍歌演習は、唯一の楽しみであった。
事ある毎に、やれ「大詔奉戴日」です 「天長節」です 「紀元節」です 「2・26事件記念日」です 「陸軍記念日」ですと理由付けして終日の軍歌演習をしていたのである。
還房翌日より半年遅れの懲罰執行である。従う訳がない。
一日何件と目標を立てて、職員巡回の度に違犯行為を繰り返す。そして違犯事由告知の為にその都度取り調べ室への連行であるから、独座して居る暇とてない。夜中でも巡回の気配を感じると、待ち構えておって違犯行為を行うので、2日目からは一日分を纏めて夕方か翌朝に呼び出して告知する横着さである。
仕舞いには視て視ぬ振りをして通り過ぎようとする始末である。
現場の職員が云うには、違犯行為の検知報告書は職員の休憩時間に書かねばならぬから、そう何件もやられると報告書の作成だけで休憩時間が潰れてしまうのだと。
罪無き末端職員に対して「それはかわいそうだ」ということで、それでは幹部巡回の時だけにしようと云う事になった。
若い職員の中には、日勤或いは夜勤の上がり前にわざわざ謝辞を述べて行く者さえ現れ始めるのである。
それでも懲罰期間は着実に過ぎ去り15日に解罰となったものの、引き続き取り調べの独居作業である。この期間は工場出役囚と同じ扱いになるので、溜まった差し入れの機関誌類や手紙を読み、或いは懲罰執行状況を書き綴り、面接願箋や検閲官及び法務大臣上願を作成し、次の懲罰執行に備えるのである。
そして6月10日突然の懲罰審査会である。
官賊の首魁たる処遇首席の列席はないではないか。その上処遇部長は新任である。先ずは違反行為の数が噛み合わないので口論となる。
処遇部長激昂して曰く「お前は何様のつもりだぁー」と。
吾輩答えて曰く「日本人のつもりだぁー」と。
するとあろうことか「お前は恥ずかしい日本人だぁー」と暴言を吐くではないか。「何を抜かすかぁー 国家の禄を食いながら国家の危急に平々凡々としながら、仮に尖閣諸島の一つでも視てみろ、今これを死守しているのは、誰ぞ。我等右翼の同志先輩達ではないか。貴様に斯様に言われならん筋合いはない」と反論し、スリッパを片手に歩み寄ろうとすると、すかさず警備隊が吾輩をなだめにかかる。
以前ならば「暴行の気勢」ということで、保護房入房となるところだけどねぇ。「最早上の言う通りにしても事態は更に紛糾するだけで、事は解決しない」と現場は実感してたのだろうねぇ。
とんだ懲罰審査会だわな。罵り合いに終始して何も審査しなかったくせに、それでも翌日、懲罰執行の言い渡しである。
然も通常にはあり得ぬ教育首席の言い渡しとなった。
審査会開催前に列席の課長間で激論が交わされたらしい。
前出の分類課長を始め処遇部門外の幹部は「桂田の言い分にも一理ある。そんな形式ばったことの繰り返しでは事態は解決せぬ」と大分吾輩を弁護してくれたということを後日聴いたが、権力呆けした強欲爺共は事態の解決よりも面子を選んだのだろうねぇ。
そしてその結果、強権発動を以て保たんとした面子は逆に完全に潰え去ることになるのである。
懲罰期間中、通常は正規の懲罰姿勢で独座して居る吾輩が、所長以下の幹部巡回の折になると当人共を捉えて暴言を吐き、無視するとそれを茶化して同囚の笑いを誘うもんだから仕舞いには巡回に来なくなってしまった。
そこで「それでは職務放棄じゃろう」と指摘すると、通常幹部巡回の際は舎房の担当職員が「現在員何名 異常無し」などと軍隊調の大声を張り上げて申告するのだが、吾輩に気配を察知されぬ様小声で申告を受けて、隠れる様にこそこそと去って行く始末である。
最早、上席矯正処遇官の威厳も地に堕ちたりという態である。
この様に始まった獄中最後の懲罰執行であるが、開始二日目にしていきなり転房である。
何処へ転房かと思いきや 5舎3階24房という。5舎は受刑者には縁の無い未決監房である。
その3階は満期房であるが、通常満期出所者は3日前に此処に上がってくる。そこの一番隅っこの監視カメラ付きの独房に転房というのである。
当時半分空房であったから幹部共は、我が房の前まで巡回せずに引き返してしまう。舎房担当は何くれと世話を焼いてくれる。解罰までは敵が出てこないのだから戦い様もない。
そこで戦線復帰に備えての体力づくりに専念することになる。汗だくになって運動をし、刑務所では中々うるさい水をふんだんに使って拭き身をして後はごろ寝の毎日である。
解罰になっても房内作業をやらせない。夜は一般受刑者と同じ扱いである。
ある日、この扱いの法的根拠を問い糺したところ何と「行刑処分対象外扱い」などと訳の解らぬことを言うではないか。
詰まる所「懲役囚を懲役囚として扱わぬ」ということらしい。
出獄後法務省に抗議に行った際、説明を求めたところ「そのような扱いは法律上無い」と回答しおった。
昼間は体力作りに勤しんで、夜は獄中闘争で等閑になっていた座学と読書に精を出し、戦線復帰までの4ヶ月程を悠々自適で過ごしたのである。
因みにその後の福岡刑務所のときは、吾輩の監房前だけに廊下幅の半分の位置に天井まで板囲いをして完全に隔離するという念の入れようであった。
完
質問・疑問・意見等御座いましたら遠慮なくコメント下さい。
尚、この前橋刑務所の獄中闘争は、決して吾輩独りで成し得たものではありません。有形無形の多くの同憂同志の支援有りたればこそであります。
官賊の暴虐は、岡山刑務所に於いては面会人を標的に、名古屋刑務所では受刑者を対象に制圧行為にかこつけた殺人行為にまで発展しております。然もこれらは獄吏獄卒個人の資質というよりも、刑務所の秩序維持という大義名分の下に職権の発動として行われております。
一歩誤れば吾輩もまた、岡山や名古屋の如く官賊に依って抹殺されていたかも知れないのです。
併し、獄吏獄卒をしてそうさせ得なかったのは吾輩の周囲にそれを許さぬ無言の力が存在していたからに他なりません
。
その無言の力こそ、同憂同志の存在そのものに他ならないのであります。
既に幽明境を異にされた先輩諸先生もおられます。
獄中闘争記を終わるに当たり、ここに謹んで感謝申しあげます。
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