さぶやんの山梨県民間伝承・民話・伝説・行事・歴史資料室

日本列島人が居ればそこには独特の民間伝承が息づいていた

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甲陽軍艦の著者、高坂弾正   卯花園漫録(石上宜續)

 甲陽軍艦を高坂弾正書たると、世に傳ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州滅て後引籠り隠れ居たる物には、香坂としるせり。姓も違ひ、偽妄多き書なりといへども、軍国の事情を能書たる故、其虚妄を人は疑はず。控弦の家専読むべき物と、古人も云しなり。然れども其事実を按じ、其真意を考へずば、大に惑はれなん事必然なり。川中島九月十日の合戦の事、記せしに依て是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからず。卯の刻に初りたるは越後の方勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏へたる方をもって勝とする事を、甲陽軍艦に論ず、明白なり。然れば其日戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助が其軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西条山へさし向、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越退ん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しく其地に在るべきに非るを以てなり。是を以ていへば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云べからず。是一つ。又信玄芝居を踏へたりとも云がたきは、甘糟近江守犀川を渋りて三日止りたるを、甲斐より押寄て軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。是二つ。昔老人の物語に云傳へし事あり。信玄嫡子義信を殺されしは、継母の讒言ありしといへども、其實は川中島にて、信玄、義信将□に換らして、信玄は廣瀬の方へ引退く、敗軍とは云ながら、義信を捨殺すべき勢なりし故義信深く恨めるを以て、終に不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄其場を踏む事能はずして、迯たるを以て、芝居を踏へたると云べきや。是三つ。謙信もとより甘糟を以て、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以て見れば、甲陽軍艦に、甘糟が兵散亂せしと記せるも、虚妄なる時論を待ず。甘糟三日芝居を踏へたるに、謙信何事に狼狽して、主従二人高梨山に還りて走るべきや。謙信既に其前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍艦に記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは村上義清に頼れて、其求めに應じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強て勝敗を見るに非ず。當る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をただへず、又其兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄氏康両旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は謙信小田原へ攻め入たる跡に、討てなしたるはなし易きに非ずや。甲陽軍艦に、長沼を城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて、密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、〔割註〕此次切れて見えずと記せり。」永禄十一年謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寳物にせよと、神職に云れし由語り傳ふ。今其書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり。實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云べきにや。村上義清信州に再帰り入し事、甲陽軍艦に載せずといへども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍艦に長坂調(長)閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人權を取ることに勝頼に始れるに非ず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威權ありき、信玄の時北条の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍艦に載たるをもって知べきなり。又云傳へしに説に、甲陽軍艦を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿楽彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅て後、大久保忠隣の所にありて、東照宮の御事を書加へて、一書となしたるとなり。又或人の云しは、川中島の合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる對々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云ふ事を、甲陽軍艦に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北条に負たるは、天の罸なりと云へり。持氏の滅せしは永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北条早雲は延徳二年に相模に打入たり。其頃上杉顕定は越後にあり。顕定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れぬ。早雲さへ両上杉と如レ斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍艦に記せし事誤りなり。天正六年七月十五日、管領朝定と北条氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合戦を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。同十五年四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍艦に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を両上杉となすなり。持氏四男成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍艦に載る功名の事、其虚妄多し。中に就て采配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、采配を手にかけしと見ゆ。寔に笑ふべきの書の記しさまなり。其儘虚妄勝て計べからず。然れ共其時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆゑ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄べきにはあらず。又上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍艦を讀せて聞かれしが、事實謬れる事多く、又なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如レ斯誤れるなれば、此書更に信ずる足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。今をもって是を見るに甲陽軍艦過半は贋物なり。又按ずるに、今世の専ら行はるゝ書に、川中島五戦記と云へる書あり。此書は川中島の戦五度なりと記せり。然れども其中に疑ふべき事なきにしもあらず。是又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ヶ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍艦に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従ずば、いかでか其年京に上る事あるべき。是年の情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍艦の虚妄論を待ず。御上の説常山紀談に見えたり。
  甲陽軍艦の著者、高坂弾正   卯花園漫録(石上宜續) 荻生徂徠の南留別志に、高坂弾正と云者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば甲陽軍艦他人の偽作なり事、いよいよあきらかなり。
 

馬場美濃守

馬場美濃守    三省録(志賀 忍) 

(前文略)甲州の武田信玄の家老の中にて、別て弓矢の巧者と名を呼ばれし馬場美濃と申たる侍は、戦場常存(在か)申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如レ件。(『武道初心抄』)

(『武道兵語抄』)  馬場美濃守信房   

 三省録(志賀 忍) 甲州の武田信玄の家老の中にて、馬場美濃と申たる侍は、戦場常存と申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申し傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如レ件。
(武道初心抄』)  小幡勘兵衛景憲の養子    三省録(志賀 忍) 小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。(『明良洪範後編』)   (『改正武野燭談』) 

 馬場美濃守信房   柳庵随筆(栗原信充) 

 『治乱記』馬場美濃守氏勝とあり。甲州侍大将也。『甲陽記』馬場伊豆守虎貞、大永六年武田信虎に殺されその跡絶たりしを、当屋形教成(来)石民部少輔景政に仰付られ、馬場民部氏勝とめされ、信濃国眞木島の城に置せらる。永禄の比は美濃守とめされしが、長篠にて討死也。『甲陽軍艦』馬場美濃守百廿騎。『□□一書』はじめ教来石民部丞氏勝、天文十五年馬場美濃守と改む。(或は尚房と云)『仏祖統記』馬場民部少輔景政(後改美濃守信房)日豪上人、遠州端和妙恩寺祖。『家忠日記』天正三年五月廿一日長篠ノ戦ニ甲兵多ク戦死シ、勝頼自殺セントスルノ處、馬場美濃守、内藤修理亮踏留リ討死ス、塙九郎左衛門ガ従卒、河井三十郎馬場ガ首ヲ得タリ。

一条忠頼のこと

一条忠頼のこと ()内清水註  三省録(志賀 忍)

 甲斐源氏一条次郎頼忠(忠頼)謀反の企てありと聞、鎌倉殿(頼朝)これを誅せらるべきと、壽永三年六月十六日殿中に於て誅したまふ。頼忠が侍新平太、同武藤與一並山村小太郎等、事の起る見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なをも寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以これを打つと云々。(『武道兵語抄』)

江戸市川團十郎のこと

市川團十郎    俗耳鼓吹(大田南畝) 

市川團十郎三升、市川八百蔵の後家と(名はおるや)密通の沙汰ありし時、
  八百蔵が後家へさんじやう(三升)つかまつり

  歌舞伎役者の異名    俗耳鼓吹(大田南畝) 歌舞伎の役者の異名ある事、もとは少かりしが、近頃にいたりて、甚多し。二朱判吉兵衛などこそ人よくしたり。その外にもありしや聞もわたらず。
  親玉 二代目市川海老蔵  子玉 五代目市川團十郎云々
  武田信虎の息女    醒醉笑(安楽庵策傳) 甲斐の國武田信虎の息女を菊亭殿へ契約ありしが、いまだ聟入りなきさきに、信虎公、菊亭殿
  むこいりをまだせぬさきのしうと入きくていよりもたけた  入道

  團十郎艾  近世商売狂歌合(豊芥子) 

『おでこ双六』に載る、二代目市川團十郎艾賣〔割註〕實は景清。」 作せしを、真似て町々を賣し物なるべし。今なし。浅草御門跡前に、歯医者にて艾を鬻ぐ。此家に二代目柏筵艾賣の人形あり。又大傳馬町二丁目に團十郎艾あり。是は五代目市川團十郎白猿なり。三升屋五郎兵衛といひし建看板に、暫の畫ありしが今はなし。

  團十郎煎餅

 『飛鳥川』に云、安永の末、天明の初め頃迄は、正月の内、團十郎煎餅と賣あるく、常もおりおりうりあるくなり。
 斯あれば正月前に賣しもの歟。今浅草並木町に團十郎煎餅とて、さしわたり五寸丸程に三升の紋あり。是を團十郎煎餅と云。 
  劇場役者市川團十郎家傳の事   思出草紙(栗原東随舎) 寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十藏といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十藏といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎芝居来り。標準サイズの文字がここにはいります。
標準サイズの文字がここにはいります。

 劇場役者市川團十郎家傳の事   思出草紙(栗原東随舎) 

寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十藏といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十藏といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎芝居来り。十日餘逗留なすうち、種々の狂言仕組の節、彼小三郎好みて毎日見物に来り。能覚へて芝居を始めざる前に、此小三郎、仕組のまねをして、人々に見せける故、芝居の者も迷惑に思ひながら感心しけるとぞ。此事、、芝居頭取見て、何卒、此子を貰ひ藝を仕込なば、後々は能役者にも成べきと、人を頼み十藏方へ申遣しければ、もとより貧家の小商人の事、はかゆかざるをかこちぬる自分なれば、草速遣すべしと貰ひ請の相談調ひぬ。夫より所々田舎を連歩行、藝を仕込けるに、段々上手に成て、廿七歳の頃は市川團十郎と改め、田舎芝居の立物とは成りぬ。然るに、此芝居の若女形に、筒井若松迚、美麗いふ計りなく愛敬有て、人々、心を懸ざる者なし。彼と團十郎男色の因み深く、いひかはしむつましかりしとかや。同芝居に市川半三郎とて、是も又、團十郎におとらぬ役者なりしが、若松にしうしん深く、さまざまにくどきけるよしを、若松物語りぬるを聞て、團十郎、心能からぬ事に思ひ居たる折節、葛西にて芝居興行の節、若松が廻し方の若者〔割註〕女形役者の召仕男を云」宗四郎といふ者に、密かに半三郎は存じ寄叶はぬものなり。何卒退けたきものなるに、その手便なしと咄しけるに、宗四郎は常々若松との事に付ては、團十郎世話にもなり、恩をも受ぬる事なれば、何がな、其心に應じたきと心懸る折なれば、良思案なしていふは、外に致し方迚もなし。酒の上にて喧嘩えお仕掛て、當分、藝のならざるやう而體へ疵を付、恥を與へて芝居勤めも成兼、自然と退く道理なりと心易く請合ぬれば、團十郎、然らば能に頼むなりといふにぞ。折あらばとしめし合せたるを、夢にもしらざる半三郎は、若松が旅宿へ密に来り、宗四郎が機嫌を取、酒肴抔持参して振舞けるに、宗四郎、段々と酒を呑て、寝ながら物語するに、半三郎も同じく手枕して挨拶するうちに、宗四郎、寝返りなしながら、半三郎顔を蹴たり。半三郎が言は、其方は我らが顔を蹴たる段、無作法の事なれども、内々に頼み度事あれば、川捨しておくなり。其替りに、我らが頼む事を何卒取持呉よといふに、宗四郎は大音にて、わづかの酒を振舞て、其代りに頼む事を取持てなどとは何事ぞ。無作法なしたるを用捨なして貰はずとよきなり。云分あらば聞べきなりと、側に有合ふかん鍋を取て、半三郎が眉間へ投付たり。半三郎、堪忍ならずと立上れば、宗四郎は勝手の間へ逃込處を続て、半三郎追て行くに、宗四郎、兼て心に掛置しや。脇差を抜隠し持て、半三郎が顔かすり疵を付てやらんと切て懸れば、半三郎、あわて抜身を握ると強く引たる拍子、半三郎が右の手の指四本落たるを見て、半三郎、死物狂ひに騒ぎつゝ掴み懸る故、最早能程に成難しと、酩酊の跡先しらずに、半三郎が脇腹へ抜身を突込ゑぐりける故、息絶て伏たりけり。此事、内済なり難く、半三郎が弟子ども有て合点せず。村役人差添て、座中の役者残らず奉行所へ打った訴へ出けるに、差當り半三郎を殺したる宗四郎吟味となり、私し儀半三郎を切候事、外に存じ寄は是なく候が、團十郎に頼れ候故切殺し候といふ。是に依て、團十郎吟味の處、團十郎申には、我ら半三郎に遺恨存じなく候。まして宗四郎を頼み候事、毛頭是なく、何の證據もなし。喧嘩の起りは大酒の以後と承知仕候。其場に酒呑うつは色々と引散し御座候事故、酒狂乱心と覚へ候と、團十郎が申候證據多く、宗四郎は頼れ計りにて、少しも證據なければ、下死人なりと仕置に相成、是にて此一件相済といへども、此騒動にて芝居崩れて、役者も己が様
々に離散し、大かたは、江戸に出て、種々の家業を思ひ付て世を渡るもあり。宮芝居へ入て勤むるも有が中に、市川團十郎も江戸に出て、吹屋市村竹之丞た座へ一ケ年十二両の給金にて、番附の数にいらぬ下の役者に抱へられけり。二年目には十八両の給金にて勤めける。斯て三年目の正月二日の夜、同じ給金取の下役者野沢権三郎といふ者。初夢に悪敷夢見たりとて、殊の外心に掛けるを、團十郎聞て、如何やうの凶夢を見たるやとたづねければ、権三郎がいふに、何かしらず我磔にあげられたる夢を見たり。心持よからずさつしたまはれと、うつうつとしてたのしまずものがたりけるにを、團十郎、良暫らく考へて居たりしが、其夢を我ら方へ買取たし、賣呉られよといふに、権三郎聞て、彌々買事候や。随分賣べしといふ。然らば夢の價三貫文遣すべしと差出す。権三郎きいて、あたへに及ばずといへば、只貰ひては手前の夢にはなりがたしと、無理に料を渡したる跡にて、扨夢の買取相済上は、われ等存じ寄を物語らん。差當り一両年の内給金百両以上も成べきとおもふなり。彌々存じ寄通りに成たらば、その節、同格傍輩中は、残らず茶屋にて振舞すべし。其節、委細は申述んといふにぞ、人のいみ嫌ふ夢をあたへを出してかいとりしは、いかなる所存なるかと、皆々いぶかりぬとかや。夫より團十郎、段々評判よく、其としの顔見世は五十両の給金となりて、其翌とにの給金は八十両となり、三年目には百二十両の給金取となりたり。此時に至りて、先年申たる通り、茶屋へ料理を云付、約束したる者ども残らず振舞ぬ。以前同給金の者ども、残らず元の給金なれば、格段の曽於相違なり。夢を賣し権三郎を始め、其席の者どもいふは、先年正月二日、初夢よからぬを買れしより、斯段々々立身して、百両餘の給金と成、今日の振舞、誠に目出度事なり。如何、なる心有て凶夢を買て、自分の夢といたされしやと問ひけるに、團十郎がいふに、されば其事なり。凶夢と計り心得ては悪夢となり、又評判にて吉夢とはなれり。先我らが心には磔といふものは、人より高く揚られて、数萬人の見物寄つどひて、扨すさまじくやつなりなどと評判して、数多の人の上に見上られ、身の内への金の入事なれば、役者の見たる夢には、大極上々吉夢といふべし。依て三貫文に買取たりと物語りければ、皆々、其判だんを聞て感じつゝ、厚く禮を述て、皆々立帰れり。團十郎も宿所にかへりけるに、頃は九月上旬故、栗商人、田舎よりきたれたるを呼入て、栗を買んと立出てみるに、大ひなるが升に入て、其中に一升と五合と一合と升を入子にして有るを、つくづくと考へ見るに、目出度升を組入たり。藝を見増の嘉瑞なり。今迄の定紋三階松なれど、向後は三升をつけべしと、栗三升を買ひ、此時より定紋を三升に改めたり。表徳は才牛といふ。宝井其角が門に入て誹道に達せり。段々評判は能、評判記の位ひづけ極上々吉と成、給金八百両迄に登りぬ。然に一年、堺町邊残らず類焼故、芝居も小屋懸にて狂言興行なす。役者ども皆々、所々へ離散して、夫より通ひて座を勤めける。其頃、市村座芝居の頭取は杉山半六といふ役者なり。是も類焼以後、本所四つ目前裁河岸にかり宅して、市村座へ通ひける。渠、子供なければ、團十郎が弟子團之助といふ者を養子として嫁をとりける。しかるに半六、嫁と密通有事と聞、團十郎、気の毒に思ひて、夫となしに 夫となしに度々意見なしぬれど、露恥る色なきまゝ、大ひに怒り、人面獣心と怒り見限り、おのづからうとうとしくなりたり。後には役者仲間の風説とも成たり。流石に恥敷や思ひけん。痛み所ありとやいふて、舞台は勤めざりしが、頭取の事故、晝の間は楽屋へ来りて世話やきける。此節、市村座芝居の狂言に、舅が嫁に恋慕なす所の仕組なり。此狂言の趣向は、團十郎が作者へ助言にて取組たり。一旦、半六を見限りたりといふとも、斯の如く狂言にもせば、自然と恥も出て、本心に立帰る事もやあらんとおもふこゝろより、風諫の為になしたるを、却て深く遺恨に思ひ、頃は元禄十七年甲申二月十九日〔割註〕九月晦日改元宝永となる。此時の狂言名題團十郎役割不分明に付、爰に不レ記。晝時頃、團十郎が花道より出て、正面にて白眼居る處、俄に大雨降出れば、假小屋の芝居舞台、所々雨漏り強し。この時、楽屋より半六合羽を持来り、衣装のぬるゝなりと後ろより打掛ながら、氷の如き脇ざしを團十郎が横腹へつき立、力に任せてゑぐりけるに、なにかもつてたまるべき。其儘、息はたへ果たりとかや。〔割註〕一説に、狂言の仕組太刀打處、刄引と見せて真剣をもつて害せし故、見物は狂言にて殺すと心居たりといふは非なり。此事は、予が曾祖父の見たるといふを、祖父たる者の咄し傳へたるなり。」思ひよらざる事故、上下の棧敷切落しなど、貴賤老若男女見物、其騒動いふ計りなく、押合倒れて怪我をせしもの少なからずとかや。半六は抜身をもつてかけ廻りしを、やうやう搦めとり公訴せしに、牢内未だ普請出来ず。其節の假牢は小石川切支丹屋敷なり。是へ半六入牢なしぬ。此日、彼岸の入に當りける。何者かしたんけん。落首に、  市川が彼岸團子にまるめられ杉の楊枝でさゝれこそすれ
半六は下手人の刑、假獄屋にて死罪となりぬ。團十郎が子九蔵は、此時七歳、二代目の親にまさりて、其藝、古今に独歩し、此時こそ日本に其名高く、朝鮮、大明迄も、今年毎の劇場顔見世狂言に、暫くといふ事有り。是は正徳四申年三月、生島新五郎密通顕れ、新五郎は伊豆の大島へ遠流、絵島は信州高遠へ御預となり。此一件は断絶諸家多く、木挽町座元山村長太夫遠島と成、其團十郎へも詮議懸りけるに、兼々おもん計り有まゝ、事なく申分相立、此事、分入組て事長き故、文略す。其後、生島方より大島流罪に成て、古郷戀ひしきより、書状に認めつゝ、  初鰹からしなくても涙かな
かく申越したるに、其返し、
  其辛子聞ひて涙だの鰹かな
其外、数多の名句どもあり。拍の小莚といふ小冊に是あり。親團十郎横死の芝居なればとて、中村勘三郎座計り勤めて居て、宝永の始めより享保十七年壬子年迄、市村座へは二十九年が間だつとめたりしが、其年の顔見世より市村竹之丞座をつとめける。しかるに、一子もなきまゝ三升や助十郎といふやつし事師の子を養子として、升五郎表徳徳辨といふ。是に團十郎の名を譲り、改名して海老蔵拍莚といふ。程なく團十郎草世して後、幼名七蔵といひし松本幸四郎五粒を養子とし、後に海老蔵拍莚團十郎と名乗らせて、四代目の家を継、其子幼少松本幸四郎五代目の家を継せ、其身は白猿と改名して、寛政七乙卯年芝居引て、本所向ふ島に隠居す。其時のたわむれ歌に、
  うへつかたならば紅裏召頃に我はぬきける紅裏いせう
  身の上をかへり三升の海老なれば足をかゞめて髭のびるな  り
  惜まるゝ時こそ人の花なれや鼻も鼻なり花も花なり
其後、寛政十午年の顔見世、忰團十郎、二十一歳にて座頭となりし時、座附口上に白猿、舞台へ出たる折に忰團十郎、二十一歳にて座頭となりし有がたさに、
  十露盤の親玉子玉目はちはちしめて三七二十市川
  牛島をもふ出ましと籠りしに引出されし花の顔見世
  はな高き人とや我を噂せん秋葉の山の奥に遊べば
三升より養老酒を五合送りければ、
  三升を六つにはかりし六代目五合づゝにあたる顔見世
其外、贔負連中の狂歌多く略す。然る處、寛政十一未五月六日、團十郎、不幸短命にして病死なす。今迄、海老蔵と號せし白猿が末子を、七代目團十郎と改名させ、白猿は猶閑居なしたり。然るに、享和元辛酉年七月、或人、三圍閑居の心をたはれ歌に読とて、三圖の繪、浮世絵師北斎が書しに讃を望みぬれば、
七年以前に世の勤めを捨て、廣さきに遁れたる
草の庵に、或日、何某の君の音信給ひて、此絹、
汝じが隠遁の心を狂歌によめとの仰せに、頓に
書付て奉るのみ。
  芝居事遁れても又かしましや松が琴ひく竹の笛
 行年六十一歳
   反古菴白猿越書鼻
  (以下略)

  

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