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			<title>さぶやんの山梨県民間伝承・民話・伝説・行事・歴史資料室</title>
			<description>今日もひとつ消えていく。忘れることに慣らされた多くの日本人は再びふるさとに戻っていく。自分のふるさとを捨てて。多くの伝承行事が失われる中で、多くの歴史と風土の伝承記事を中心に記していきます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito</link>
			<language>ja</language>
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			<title>さぶやんの山梨県民間伝承・民話・伝説・行事・歴史資料室</title>
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			<description>今日もひとつ消えていく。忘れることに慣らされた多くの日本人は再びふるさとに戻っていく。自分のふるさとを捨てて。多くの伝承行事が失われる中で、多くの歴史と風土の伝承記事を中心に記していきます。</description>
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			<title>甲陽軍艦の著者、高坂弾正</title>
			<description>甲陽軍艦の著者、高坂弾正 　　卯花園漫録（石上宜續）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　甲陽軍艦を高坂弾正書たると、世に傳ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州滅て後引籠り隠れ居たる物には、香坂としるせり。姓も違ひ、偽妄多き書なりといへども、軍国の事情を能書たる故、其虚妄を人は疑はず。控弦の家専読むべき物と、古人も云しなり。然れども其事実を按じ、其真意を考へずば、大に惑はれなん事必然なり。川中島九月十日の合戦の事、記せしに依て是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからず。卯の刻に初りたるは越後の方勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏へたる方をもって勝とする事を、甲陽軍艦に論ず、明白なり。然れば其日戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助が其軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西条山へさし向、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越退ん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しく其地に在るべきに非るを以てなり。是を以ていへば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云べからず。是一つ。又信玄芝居を踏へたりとも云がたきは、甘糟近江守犀川を渋りて三日止りたるを、甲斐より押寄て軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。是二つ。昔老人の物語に云傳へし事あり。信玄嫡子義信を殺されしは、継母の讒言ありしといへども、其實は川中島にて、信玄、義信将□に換らして、信玄は廣瀬の方へ引退く、敗軍とは云ながら、義信を捨殺すべき勢なりし故義信深く恨めるを以て、終に不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄其場を踏む事能はずして、迯たるを以て、芝居を踏へたると云べきや。是三つ。謙信もとより甘糟を以て、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以て見れば、甲陽軍艦に、甘糟が兵散亂せしと記せるも、虚妄なる時論を待ず。甘糟三日芝居を踏へたるに、謙信何事に狼狽して、主従二人高梨山に還りて走るべきや。謙信既に其前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍艦に記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは村上義清に頼れて、其求めに應じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強て勝敗を見るに非ず。當る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をただへず、又其兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄氏康両旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は謙信小田原へ攻め入たる跡に、討てなしたるはなし易きに非ずや。甲陽軍艦に、長沼を城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて、密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、〔割註〕此次切れて見えずと記せり。」永禄十一年謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寳物にせよと、神職に云れし由語り傳ふ。今其書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり。實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云べきにや。村上義清信州に再帰り入し事、甲陽軍艦に載せずといへども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍艦に長坂調（長）閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人權を取ることに勝頼に始れるに非ず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威權ありき、信玄の時北条の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍艦に載たるをもって知べきなり。又云傳へしに説に、甲陽軍艦を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿楽彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅て後、大久保忠隣の所にありて、東照宮の御事を書加へて、一書となしたるとなり。又或人の云しは、川中島の合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる對々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云ふ事を、甲陽軍艦に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北条に負たるは、天の罸なりと云へり。持氏の滅せしは永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北条早雲は延徳二年に相模に打入たり。其頃上杉顕定は越後にあり。顕定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れぬ。早雲さへ両上杉と如ﾚ斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍艦に記せし事誤りなり。天正六年七月十五日、管領朝定と北条氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合戦を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。同十五年四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍艦に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を両上杉となすなり。持氏四男成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍艦に載る功名の事、其虚妄多し。中に就て采配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、采配を手にかけしと見ゆ。寔に笑ふべきの書の記しさまなり。其儘虚妄勝て計べからず。然れ共其時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆゑ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄べきにはあらず。又上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍艦を讀せて聞かれしが、事實謬れる事多く、又なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如ﾚ斯誤れるなれば、此書更に信ずる足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。今をもって是を見るに甲陽軍艦過半は贋物なり。又按ずるに、今世の専ら行はるゝ書に、川中島五戦記と云へる書あり。此書は川中島の戦五度なりと記せり。然れども其中に疑ふべき事なきにしもあらず。是又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ヶ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍艦に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従ずば、いかでか其年京に上る事あるべき。是年の情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍艦の虚妄論を待ず。御上の説常山紀談に見えたり。&lt;br /&gt;
　　甲陽軍艦の著者、高坂弾正 　　卯花園漫録（石上宜續）　荻生徂徠の南留別志に、高坂弾正と云者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば甲陽軍艦他人の偽作なり事、いよいよあきらかなり。&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/393922.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 20:58:58 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>馬場美濃守</title>
			<description>馬場美濃守 　　　三省録（志賀　忍）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（前文略）甲州の武田信玄の家老の中にて、別て弓矢の巧者と名を呼ばれし馬場美濃と申たる侍は、戦場常存（在か）申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如ﾚ件。（『武道初心抄』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（『武道兵語抄』）　　馬場美濃守信房 　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　三省録（志賀　忍）　甲州の武田信玄の家老の中にて、馬場美濃と申たる侍は、戦場常存と申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申し傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如ﾚ件。&lt;br /&gt;
（武道初心抄』）　　小幡勘兵衛景憲の養子 　　　三省録（志賀　忍）　小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。（『明良洪範後編』）　　　（『改正武野燭談』）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　馬場美濃守信房 　　柳庵随筆（栗原信充）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『治乱記』馬場美濃守氏勝とあり。甲州侍大将也。『甲陽記』馬場伊豆守虎貞、大永六年武田信虎に殺されその跡絶たりしを、当屋形教成（来）石民部少輔景政に仰付られ、馬場民部氏勝とめされ、信濃国眞木島の城に置せらる。永禄の比は美濃守とめされしが、長篠にて討死也。『甲陽軍艦』馬場美濃守百廿騎。『□□一書』はじめ教来石民部丞氏勝、天文十五年馬場美濃守と改む。（或は尚房と云）『仏祖統記』馬場民部少輔景政（後改美濃守信房）日豪上人、遠州端和妙恩寺祖。『家忠日記』天正三年五月廿一日長篠ノ戦ニ甲兵多ク戦死シ、勝頼自殺セントスルノ處、馬場美濃守、内藤修理亮踏留リ討死ス、塙九郎左衛門ガ従卒、河井三十郎馬場ガ首ヲ得タリ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/389609.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:59:25 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
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			<title>一条忠頼のこと</title>
			<description>一条忠頼のこと ()内清水註 　三省録（志賀 忍）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　甲斐源氏一条次郎頼忠（忠頼）謀反の企てありと聞、鎌倉殿（頼朝）これを誅せらるべきと、壽永三年六月十六日殿中に於て誅したまふ。頼忠が侍新平太、同武藤與一並山村小太郎等、事の起る見しより、面々太刀押取侍所の上に乱れ入る。中にも山村小太郎なをも寝殿ちかくはしり入、天野藤内遠景かたはらなる大魚板を以これを打つと云々。（『武道兵語抄』）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/389544.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:55:53 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>江戸市川團十郎のこと</title>
			<description>市川團十郎 　　　俗耳鼓吹（大田南畝）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
市川團十郎三升、市川八百蔵の後家と（名はおるや）密通の沙汰ありし時、&lt;br /&gt;
　　八百蔵が後家へさんじやう（三升）つかまつり &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　歌舞伎役者の異名 　　　俗耳鼓吹（大田南畝）　歌舞伎の役者の異名ある事、もとは少かりしが、近頃にいたりて、甚多し。二朱判吉兵衛などこそ人よくしたり。その外にもありしや聞もわたらず。&lt;br /&gt;
　　親玉　二代目市川海老蔵　　子玉　五代目市川團十郎云々&lt;br /&gt;
　　武田信虎の息女 　　　醒醉笑（安楽庵策傳）　甲斐の國武田信虎の息女を菊亭殿へ契約ありしが、いまだ聟入りなきさきに、信虎公、菊亭殿&lt;br /&gt;
　　むこいりをまだせぬさきのしうと入きくていよりもたけた　　入道&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　團十郎艾 　近世商売狂歌合（豊芥子）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『おでこ双六』に載る、二代目市川團十郎艾賣〔割註〕實は景清。」　作せしを、真似て町々を賣し物なるべし。今なし。浅草御門跡前に、歯医者にて艾を鬻ぐ。此家に二代目柏筵艾賣の人形あり。又大傳馬町二丁目に團十郎艾あり。是は五代目市川團十郎白猿なり。三升屋五郎兵衛といひし建看板に、暫の畫ありしが今はなし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　團十郎煎餅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　『飛鳥川』に云、安永の末、天明の初め頃迄は、正月の内、團十郎煎餅と賣あるく、常もおりおりうりあるくなり。&lt;br /&gt;
　斯あれば正月前に賣しもの歟。今浅草並木町に團十郎煎餅とて、さしわたり五寸丸程に三升の紋あり。是を團十郎煎餅と云。　&lt;br /&gt;
　　劇場役者市川團十郎家傳の事 　　思出草紙（栗原東随舎）　寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十藏といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十藏といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎芝居来り。標準サイズの文字がここにはいります。&lt;br /&gt;
標準サイズの文字がここにはいります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/389121.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:32:30 +0900</pubDate>
			<category>その他舞台、演劇</category>
		</item>
		<item>
			<title>劇場役者市川團十郎家傳の事 　</title>
			<description>　劇場役者市川團十郎家傳の事 　　思出草紙（栗原東随舎）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寛文年中、両国橋より三里東に、葛飾郡市川村といふ所に、薦の十藏といふ者有。元は武家より出て虚無僧となり。其以後、商人となりて、市川村に住居なしたり。依て異名を俗称の如く薦の十藏といふ。勝れて大酒を呑けり。一子小三郎といふは、勝れて敏達にして、更に群兒の類ひに非ず。弁舌能く発明なり。然るに、彼十三歳の頃、市川村へ田舎廻りの歌舞伎芝居来り。十日餘逗留なすうち、種々の狂言仕組の節、彼小三郎好みて毎日見物に来り。能覚へて芝居を始めざる前に、此小三郎、仕組のまねをして、人々に見せける故、芝居の者も迷惑に思ひながら感心しけるとぞ。此事、、芝居頭取見て、何卒、此子を貰ひ藝を仕込なば、後々は能役者にも成べきと、人を頼み十藏方へ申遣しければ、もとより貧家の小商人の事、はかゆかざるをかこちぬる自分なれば、草速遣すべしと貰ひ請の相談調ひぬ。夫より所々田舎を連歩行、藝を仕込けるに、段々上手に成て、廿七歳の頃は市川團十郎と改め、田舎芝居の立物とは成りぬ。然るに、此芝居の若女形に、筒井若松迚、美麗いふ計りなく愛敬有て、人々、心を懸ざる者なし。彼と團十郎男色の因み深く、いひかはしむつましかりしとかや。同芝居に市川半三郎とて、是も又、團十郎におとらぬ役者なりしが、若松にしうしん深く、さまざまにくどきけるよしを、若松物語りぬるを聞て、團十郎、心能からぬ事に思ひ居たる折節、葛西にて芝居興行の節、若松が廻し方の若者〔割註〕女形役者の召仕男を云」宗四郎といふ者に、密かに半三郎は存じ寄叶はぬものなり。何卒退けたきものなるに、その手便なしと咄しけるに、宗四郎は常々若松との事に付ては、團十郎世話にもなり、恩をも受ぬる事なれば、何がな、其心に應じたきと心懸る折なれば、良思案なしていふは、外に致し方迚もなし。酒の上にて喧嘩えお仕掛て、當分、藝のならざるやう而體へ疵を付、恥を與へて芝居勤めも成兼、自然と退く道理なりと心易く請合ぬれば、團十郎、然らば能に頼むなりといふにぞ。折あらばとしめし合せたるを、夢にもしらざる半三郎は、若松が旅宿へ密に来り、宗四郎が機嫌を取、酒肴抔持参して振舞けるに、宗四郎、段々と酒を呑て、寝ながら物語するに、半三郎も同じく手枕して挨拶するうちに、宗四郎、寝返りなしながら、半三郎顔を蹴たり。半三郎が言は、其方は我らが顔を蹴たる段、無作法の事なれども、内々に頼み度事あれば、川捨しておくなり。其替りに、我らが頼む事を何卒取持呉よといふに、宗四郎は大音にて、わづかの酒を振舞て、其代りに頼む事を取持てなどとは何事ぞ。無作法なしたるを用捨なして貰はずとよきなり。云分あらば聞べきなりと、側に有合ふかん鍋を取て、半三郎が眉間へ投付たり。半三郎、堪忍ならずと立上れば、宗四郎は勝手の間へ逃込處を続て、半三郎追て行くに、宗四郎、兼て心に掛置しや。脇差を抜隠し持て、半三郎が顔かすり疵を付てやらんと切て懸れば、半三郎、あわて抜身を握ると強く引たる拍子、半三郎が右の手の指四本落たるを見て、半三郎、死物狂ひに騒ぎつゝ掴み懸る故、最早能程に成難しと、酩酊の跡先しらずに、半三郎が脇腹へ抜身を突込ゑぐりける故、息絶て伏たりけり。此事、内済なり難く、半三郎が弟子ども有て合点せず。村役人差添て、座中の役者残らず奉行所へ打った訴へ出けるに、差當り半三郎を殺したる宗四郎吟味となり、私し儀半三郎を切候事、外に存じ寄は是なく候が、團十郎に頼れ候故切殺し候といふ。是に依て、團十郎吟味の處、團十郎申には、我ら半三郎に遺恨存じなく候。まして宗四郎を頼み候事、毛頭是なく、何の證據もなし。喧嘩の起りは大酒の以後と承知仕候。其場に酒呑うつは色々と引散し御座候事故、酒狂乱心と覚へ候と、團十郎が申候證據多く、宗四郎は頼れ計りにて、少しも證據なければ、下死人なりと仕置に相成、是にて此一件相済といへども、此騒動にて芝居崩れて、役者も己が様&lt;br /&gt;
々に離散し、大かたは、江戸に出て、種々の家業を思ひ付て世を渡るもあり。宮芝居へ入て勤むるも有が中に、市川團十郎も江戸に出て、吹屋市村竹之丞た座へ一ケ年十二両の給金にて、番附の数にいらぬ下の役者に抱へられけり。二年目には十八両の給金にて勤めける。斯て三年目の正月二日の夜、同じ給金取の下役者野沢権三郎といふ者。初夢に悪敷夢見たりとて、殊の外心に掛けるを、團十郎聞て、如何やうの凶夢を見たるやとたづねければ、権三郎がいふに、何かしらず我磔にあげられたる夢を見たり。心持よからずさつしたまはれと、うつうつとしてたのしまずものがたりけるにを、團十郎、良暫らく考へて居たりしが、其夢を我ら方へ買取たし、賣呉られよといふに、権三郎聞て、彌々買事候や。随分賣べしといふ。然らば夢の價三貫文遣すべしと差出す。権三郎きいて、あたへに及ばずといへば、只貰ひては手前の夢にはなりがたしと、無理に料を渡したる跡にて、扨夢の買取相済上は、われ等存じ寄を物語らん。差當り一両年の内給金百両以上も成べきとおもふなり。彌々存じ寄通りに成たらば、その節、同格傍輩中は、残らず茶屋にて振舞すべし。其節、委細は申述んといふにぞ、人のいみ嫌ふ夢をあたへを出してかいとりしは、いかなる所存なるかと、皆々いぶかりぬとかや。夫より團十郎、段々評判よく、其としの顔見世は五十両の給金となりて、其翌とにの給金は八十両となり、三年目には百二十両の給金取となりたり。此時に至りて、先年申たる通り、茶屋へ料理を云付、約束したる者ども残らず振舞ぬ。以前同給金の者ども、残らず元の給金なれば、格段の曽於相違なり。夢を賣し権三郎を始め、其席の者どもいふは、先年正月二日、初夢よからぬを買れしより、斯段々々立身して、百両餘の給金と成、今日の振舞、誠に目出度事なり。如何、なる心有て凶夢を買て、自分の夢といたされしやと問ひけるに、團十郎がいふに、されば其事なり。凶夢と計り心得ては悪夢となり、又評判にて吉夢とはなれり。先我らが心には磔といふものは、人より高く揚られて、数萬人の見物寄つどひて、扨すさまじくやつなりなどと評判して、数多の人の上に見上られ、身の内への金の入事なれば、役者の見たる夢には、大極上々吉夢といふべし。依て三貫文に買取たりと物語りければ、皆々、其判だんを聞て感じつゝ、厚く禮を述て、皆々立帰れり。團十郎も宿所にかへりけるに、頃は九月上旬故、栗商人、田舎よりきたれたるを呼入て、栗を買んと立出てみるに、大ひなるが升に入て、其中に一升と五合と一合と升を入子にして有るを、つくづくと考へ見るに、目出度升を組入たり。藝を見増の嘉瑞なり。今迄の定紋三階松なれど、向後は三升をつけべしと、栗三升を買ひ、此時より定紋を三升に改めたり。表徳は才牛といふ。宝井其角が門に入て誹道に達せり。段々評判は能、評判記の位ひづけ極上々吉と成、給金八百両迄に登りぬ。然に一年、堺町邊残らず類焼故、芝居も小屋懸にて狂言興行なす。役者ども皆々、所々へ離散して、夫より通ひて座を勤めける。其頃、市村座芝居の頭取は杉山半六といふ役者なり。是も類焼以後、本所四つ目前裁河岸にかり宅して、市村座へ通ひける。渠、子供なければ、團十郎が弟子團之助といふ者を養子として嫁をとりける。しかるに半六、嫁と密通有事と聞、團十郎、気の毒に思ひて、夫となしに 夫となしに度々意見なしぬれど、露恥る色なきまゝ、大ひに怒り、人面獣心と怒り見限り、おのづからうとうとしくなりたり。後には役者仲間の風説とも成たり。流石に恥敷や思ひけん。痛み所ありとやいふて、舞台は勤めざりしが、頭取の事故、晝の間は楽屋へ来りて世話やきける。此節、市村座芝居の狂言に、舅が嫁に恋慕なす所の仕組なり。此狂言の趣向は、團十郎が作者へ助言にて取組たり。一旦、半六を見限りたりといふとも、斯の如く狂言にもせば、自然と恥も出て、本心に立帰る事もやあらんとおもふこゝろより、風諫の為になしたるを、却て深く遺恨に思ひ、頃は元禄十七年甲申二月十九日〔割註〕九月晦日改元宝永となる。此時の狂言名題團十郎役割不分明に付、爰に不ﾚ記。晝時頃、團十郎が花道より出て、正面にて白眼居る處、俄に大雨降出れば、假小屋の芝居舞台、所々雨漏り強し。この時、楽屋より半六合羽を持来り、衣装のぬるゝなりと後ろより打掛ながら、氷の如き脇ざしを團十郎が横腹へつき立、力に任せてゑぐりけるに、なにかもつてたまるべき。其儘、息はたへ果たりとかや。〔割註〕一説に、狂言の仕組太刀打處、刄引と見せて真剣をもつて害せし故、見物は狂言にて殺すと心居たりといふは非なり。此事は、予が曾祖父の見たるといふを、祖父たる者の咄し傳へたるなり。」思ひよらざる事故、上下の棧敷切落しなど、貴賤老若男女見物、其騒動いふ計りなく、押合倒れて怪我をせしもの少なからずとかや。半六は抜身をもつてかけ廻りしを、やうやう搦めとり公訴せしに、牢内未だ普請出来ず。其節の假牢は小石川切支丹屋敷なり。是へ半六入牢なしぬ。此日、彼岸の入に當りける。何者かしたんけん。落首に、　　市川が彼岸團子にまるめられ杉の楊枝でさゝれこそすれ&lt;br /&gt;
半六は下手人の刑、假獄屋にて死罪となりぬ。團十郎が子九蔵は、此時七歳、二代目の親にまさりて、其藝、古今に独歩し、此時こそ日本に其名高く、朝鮮、大明迄も、今年毎の劇場顔見世狂言に、暫くといふ事有り。是は正徳四申年三月、生島新五郎密通顕れ、新五郎は伊豆の大島へ遠流、絵島は信州高遠へ御預となり。此一件は断絶諸家多く、木挽町座元山村長太夫遠島と成、其團十郎へも詮議懸りけるに、兼々おもん計り有まゝ、事なく申分相立、此事、分入組て事長き故、文略す。其後、生島方より大島流罪に成て、古郷戀ひしきより、書状に認めつゝ、　　初鰹からしなくても涙かな&lt;br /&gt;
かく申越したるに、其返し、&lt;br /&gt;
　　其辛子聞ひて涙だの鰹かな&lt;br /&gt;
其外、数多の名句どもあり。拍の小莚といふ小冊に是あり。親團十郎横死の芝居なればとて、中村勘三郎座計り勤めて居て、宝永の始めより享保十七年壬子年迄、市村座へは二十九年が間だつとめたりしが、其年の顔見世より市村竹之丞座をつとめける。しかるに、一子もなきまゝ三升や助十郎といふやつし事師の子を養子として、升五郎表徳徳辨といふ。是に團十郎の名を譲り、改名して海老蔵拍莚といふ。程なく團十郎草世して後、幼名七蔵といひし松本幸四郎五粒を養子とし、後に海老蔵拍莚團十郎と名乗らせて、四代目の家を継、其子幼少松本幸四郎五代目の家を継せ、其身は白猿と改名して、寛政七乙卯年芝居引て、本所向ふ島に隠居す。其時のたわむれ歌に、&lt;br /&gt;
　　うへつかたならば紅裏召頃に我はぬきける紅裏いせう&lt;br /&gt;
　　身の上をかへり三升の海老なれば足をかゞめて髭のびるな　　り&lt;br /&gt;
　　惜まるゝ時こそ人の花なれや鼻も鼻なり花も花なり&lt;br /&gt;
其後、寛政十午年の顔見世、忰團十郎、二十一歳にて座頭となりし時、座附口上に白猿、舞台へ出たる折に忰團十郎、二十一歳にて座頭となりし有がたさに、&lt;br /&gt;
　　十露盤の親玉子玉目はちはちしめて三七二十市川&lt;br /&gt;
　　牛島をもふ出ましと籠りしに引出されし花の顔見世&lt;br /&gt;
　　はな高き人とや我を噂せん秋葉の山の奥に遊べば&lt;br /&gt;
三升より養老酒を五合送りければ、&lt;br /&gt;
　　三升を六つにはかりし六代目五合づゝにあたる顔見世&lt;br /&gt;
其外、贔負連中の狂歌多く略す。然る處、寛政十一未五月六日、團十郎、不幸短命にして病死なす。今迄、海老蔵と號せし白猿が末子を、七代目團十郎と改名させ、白猿は猶閑居なしたり。然るに、享和元辛酉年七月、或人、三圍閑居の心をたはれ歌に読とて、三圖の繪、浮世絵師北斎が書しに讃を望みぬれば、&lt;br /&gt;
七年以前に世の勤めを捨て、廣さきに遁れたる&lt;br /&gt;
草の庵に、或日、何某の君の音信給ひて、此絹、&lt;br /&gt;
汝じが隠遁の心を狂歌によめとの仰せに、頓に&lt;br /&gt;
書付て奉るのみ。&lt;br /&gt;
　　芝居事遁れても又かしましや松が琴ひく竹の笛&lt;br /&gt;
　行年六十一歳&lt;br /&gt;
　　　反古菴白猿越書鼻&lt;br /&gt;
　　（以下略）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/389019.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:27:28 +0900</pubDate>
			<category>伝統芸能</category>
		</item>
		<item>
			<title>甲州金</title>
			<description>金 　　　柳庵雑筆（栗原信充）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　甲州の金工の説に、山吹金四十八匁八分あり、上に鎔て四十四匁を得る。依て是を四四の金と云ふ。極品なりと云へり。深井庄兵衛入道常甫（甲州金座）が説に、無交銀六十目焼つめ四匁六釐（りん）になる。元和小判位の金となる、四匁七分六釐の金焼つめ三匁八分となる。是より何日焼ても耗らずと云へり。但し常甫の銀を鎔化て、金と為すと云ふ説は、小判六十目と云ふ説の本據にして、實に銀をて金と為すにはあらずと、殿村常久が語りし。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/388871.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:19:25 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>富士の雪</title>
			<description>富士雪 　　　中陸漫録（佐藤成裕）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幸庵対話記に、六月朔日には富士の大宮より一里奥宮山と云ふ所より氷を献上す。五月晦日の夜より山を　出し、三尺四方計に切りし氷、駿河の御城へ朔日に上り、申刻は六七寸四方計になる也。江戸へ献上の氷は御城へ上り、申刻二寸四方計程になりよし也。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/388833.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:17:19 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>甲州の柿餅（ころがき・枯露柿） 　</title>
			<description>柿餅（ころがき） 　　　中陸漫録（佐藤成裕）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　柿餅の製法種々あれど、甲州山梨郡下井尻村の製は、八夜の類、百目以上の柿、霜落て紅葉になるを待て、實の色、少し紅色なるを蒂（へた）の落ざるやうに枝より折て、一夜を隔て蒂のきはより薄くむき、蒂の莖を二寸許付て、二つ索にて結び付て日乾する事二十四五過て、手にて揉み、揉て中の心の塊を揉ほごし、又日乾する事七八日して、四つ手揉とて四方より指の腹にて揉みよせて、又日乾して大抵に心まで水気盡たる時に、箱に入て置く時は、自然と霜を生ず。此霜の生ずる加減甚だ手練あり。大抵此方法にて、上々の柿餅出る也。上手になれば一日二千餘も剥くなり。しかればさのみむつかしき事にあらず。かくのごとくすれば其價も十倍す。其種類の別にあるにあらず。人の手より出る仕法なり。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/388787.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:15:14 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>富士を望 　</title>
			<description>富士を望 　　　中陸漫録（佐藤成裕）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日本の高岳は富士より高大なるはなし。しかれども、是を望む事二百里に過ず。奥州にては仙台の富の観音より、天晴を待て遙に望む事有り。故に此處を富と呼ぶ。此處を去て十里なれば、人の目力及ばずして望むと難見る事なし。西にては大阪より希に見る事有り。大抵人の眼力にかぎりあればなり。然ども、濟州の世琉兜宇須は、本と日本松前に人なり。彼國に至て日本の富士を見る事、甚近きに有と云ふ。此説疑はし。若海を隔て望めば、水気に因て見る事有り。いまだ決しがたし。又日本にても南部の富士、薩摩の富士、其外出羽の三山、鳥海山のごとき、富士に似たる高山有り。此等を遠望して富士と見誤るか。異邦より望みし事は甚だ疑はし。又五雑爼に、天竺の雪山を見ると云ふ。雪山は二百里已外に有りと見えたり。彼人の眼力も日本に相同じ。甚だ遠ければ絶て見る事なし。云々</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/388638.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 17:06:55 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>山本晴幸（勘助）の開眼</title>
			<description>山本晴幸の開眼 　傍廂（斎藤彦麿）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　山本勘助晴幸は、素性賤く、五體不具なれど、系図正しき豪勇の士には遙まされり。あるとき甲斐の諸将を集めて、軍慮の物語する席に、小兒三人交れり。小宮山助太郎、小山田八彌、秋山友市なり。助太郎は談中しづまりて、うづくまりて、よく聞き居たり。八彌はわらひ居たり。友市は退屈して、度々座を立ちたり。晴幸この三兒をつくづくと見て、助太郎は赤心うごかぬ丈夫にて、八彌はこゝろ定まらず。友市は不忠の名をのこすべしといひしに、はたして、助太郎は後に小宮山内膳と云ひ、故ありて甲州を浪人しつれども、勝頼天目山にて生涯の頃、わざわざはせかへりて、死を共にして義を立てたり。八彌は後に小山田八左衛門と名のり、勝頼生害の頃、善光寺（甲斐の）にげ行きしなり。友市は後に秋山内記といひ、又摂津守に任ず。勝頼生害の五日以前に、甲州を出奔し、敵方の織田信忠へ降参しつれども、不忠の逆賊なりとて、しばり首うたれたり。晴幸は一眼ながらよく見ぬきたり。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kaikomasaito/380979.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Apr 2009 07:52:57 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
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