|
先月行われた同級会の後、幹事から「何か一文を書け」と依頼されたので、中学校時代のことなど思い出すままに雑文を書いたので、ここに掲載する。実名入りになっているが、多分ご迷惑はかけていないと思う。もし迷惑あるいは誤りがあればご容赦いただきたい。 「思い出すことなど」 近頃よく「物忘れがひどくなったなあ。たった今のことを忘れてしまう。それなのに昔のことは不思議に覚えているのだが」とか言い合うことが多い。しかし本当は昔のことも大方忘れてしまっている。
先日は久しぶりに、約10年振りに、同級会に出席した。卒業後半世紀余になるが、今回が3回目の出席である。8人掛けの丸テーブルで、顔と名前が一致したのは小田切君一人だった。きっと同席の諸嬢方も私のことを忘れていたに違いない。増田君の名司会により少しずつ思い出す人も、思い出すこともあったが、正直に言ってあまり記憶を蘇らすことは少なかった。 めいめいのスピーチを聞き、また帰りの車中で、当時のことをいろいろ思い浮かべてみた。 不思議なことに勉強や授業のことはほとんど思い浮かばない。当時は今と違って受験競争はなく、皆のんびりしていて、勉強もそれほど真剣にはしなかったのだろう。1年生の時の担任は大畑先生だった。話が脇道に逸れると、試験の範囲はそれだけ少なくなるので、「先生、山の話をしてください」とよくせがんだ。先生は得意そうに「アンナプルナ(?)登頂の話をしてくださり、写真集を見せてくれた。2年の担任は飯塚先生、3年は秋山先生だった。この2年間も思い出すのは遊びのことだけである。 授業の合間の少しの休み時間を利用して、中庭のコンクリートテラスでテニポンをし、理科教室の実験用の大きな机では黒板拭きをラケット代わりにピンポンをした。また昼休みには大急ぎで弁当を掻き込んで、バスケットコートに急いだ。 2年の時、学年別対抗総合点で我々2年組が3年組を負かしてしまうという椿事があった。3年組が怒って押し掛けてくるという噂も飛んだが、そんなこともなかった。その時のリレーのアンカーはどうしたはずみか私で、1位でゴールをしたが、走り終わると踵から血が流れていた(多分裸足で走ったのだろう)。忘れもしないが、その時国崎さんが駆け寄ってきて傷の手当てをしてくれた。彼女の親切も身にしみたが、その手の柔らかさに胸が熱くなった。今回彼女にお会いしたらその時のお礼を言おうと思っていたが、あいにく彼女は不参加だった。 私は汽車通学であり、最終電車は5時半だった。そのため放課後はその時間まで運動場の砂場で遊んだ。メンバーは辻彊君、山本操君、君島君、疋田君、加藤安昭君など。3段跳び、走り幅跳び、立ち幅跳びなど。よくもまあ飽きずに毎日、繰り返しやったものだ。丁度日本が復帰したヘルシンキオリンピックの年だったので、テレビで見た表彰式の真似をして、表彰台を作って金メタル、銀メタルなど表彰をし合った。 真っ直ぐ帰って勉強をする人や運動部で励む人もいただろうが、われわれ仲間はいわばノンポリであり、女の噂話もしない、奥手というか、幼稚なグループだった。 今だから告白できるが、当時心惹かれる同級生がいて、学校の近くにあった葵文庫(県立図書館)に立ち寄ると彼女に逢うこともあり、そのために文庫に行ったが、会っても互いに目礼するだけだった。しかしそのおかげで吉川英治の本や三銃士、岩窟桜などを読むことが出来た。残念ながら彼女にも今回お会いできなかった。 このように中学時代のことを思い出そうとすると、遊びのことだけである。しかしこのようにおおらかに育んでくださった中学生活に対していまさらながら感謝している。その後高校、大学、企業と競争社会に巻き込まれた。いわば付属中学時代は青年期へ脱皮するための最後の少年期であったようだ。 同級会の帰りの電車の中で駄句を作った。 「今日会ひて次は何時ぞよ鰯雲」 「父母逝きてふるさと遠し蜜柑山」 幹事の皆さまにはいつも感謝しています。今回もありがとうございました。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




