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山梨県かいのきた小学生バレーボール ジュニアバレーボールスクール

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山梨県バレーボール協会 かいじ国体の記録 国体へのチームづくり 成年6人制女子「あやめクラブ」

 当初、県内クラブチームのピックアップでチームを作り、関東大会へ出してみたが、女子の場合、練習やらチームワークのまとめが難しく、成果を上げることは出来なかった。
 そこで県強化指導課の力人れもあって、企業協力団体の中から日立甲府、トキコ山梨の2社に5人の高校新卒選手の採用をお願いし「あやめクラブ」を昭和59年度から発足させることが出来た。
 この名前は、国体競技会場となる櫛形町のシンボルフラワーの名からとったもので、地元チームのイメージを強く打出し、町挙げての支援をお願いする狙いがあった。
 翌60年には、日本女子体育大学から教員採用で1名、実業団リーグ「東芝京浜」の主将だった県出身選手を、町の国体事務局職員として採用補強した。
 こうして町や会社の強力な支援もあって、順調に成果が上り、関東、全国のクラブカップで優勝し、推薦されて出場した全日本選手権では、日本リーグのチームと互格にわたり合う程に成長した。
 当年を迎えて、さらに関東大学優勝の東海大学から1人を補強。また日本リーグ「ダイエー」の県出身選手をUターンさせてチームに加えた。その結果、関東クラブカップでは楽勝して2連覇を遂げ、数々の交流試合では、関東大学一部チームや東芝京浜にも勝てる力をつけた。
(『山梨県バレーボール協会史』)

山梨県バレーボール協会 かいじ国体の記録 国体へのチームづくり 成年6人制男子「やまなし」

 有名選手はいないが、地元出身の教員が集って作った山梨教員クラブが地道な努力と熱心な練習で県内優勝を重ね、強化指定を受けた。ブロック対抗ながら1勝は欲しい種別である。昭和60年度には、関東大学リーグ一部の順天堂、東海両大学から2名の選手を補強した。
 しかし、この年のスケジュールを終っていま一つ伸び悩む状況に頭を痛め、県内の教員以外から更に補充し、チーム名も「やまなし」と改め打開策を求めた。
 そうしたことが選手達に危機感を産み、当年の関東クラブカップで準優勝、全日本クラブカップでベスト8を獲得し、ようやく明るい見通しがついて来た。
 成年は、9人制絶対優勝を重点対策にして来た。そのため、強化費配分や選手確保の事でその分犠牲になった事もあり、日本リーグ級のチームが参加する中で、一勝を義務付けられ、監督以下スタッフの苦労は並太低ではなかったようだ。(『山梨県バレーボール協会史』)

山梨県バレーボール協会 かいじ国体の記録 国体へのチームづくり 少年女子「増穂商業高等学校」

 県内では常勝だった増穂高が、単独指定を受けることについては、男子程の難問はなかったが、指定選手の中には普通高校への希望者もあり、それらの父兄から数々の異論が出された。
 しかし、他校に進学した場合、練習上の制約が大きく、国体選手としては外さざるを得ないという強い姿勢を打ち出したため、主軸となるような選手達の大部分は増穂商に入り、順調なチーム作りをすすめることができた。
 また、成年の強化選手を教員として配置することでコーチにも人を得、その年すでに県内では1年生チームが他校を制するよう育った。
 増穂高は、以前から目本リーグの日立、ダイエーと親密な関係にあり、合宿計画の半分はこの両チームの世話になった。このため、同様な関係にある全国でも有数な高校との交流試合にも恵まれ、頗る実戦的なチーム作りがすすめられた。
 その成果は、国体当年に一挙に花開き、関東大会初優勝に続き、インターハイの準優勝と輝ける成果になって表われた。
 特にインターハイでは、次々に名門校と対戦。古川商(宮城)、中村(東京)等を接戦の末破って決勝進出を果しただけに、実力は優勝した水上(兵庫)よりも上との評価が高く、国体初優勝も夢ではない程の盛り上りをみせてきた。(『山梨県バレーボール協会史』)

山梨県バレーボール協会 かいじ国体の記録 国体へのチームづくり 少年男子「山梨選抜」

 小学生から中学生と、長期計画の中で育て上げた選手を、いよいよ高校に進学させるために、強化指定校をそれまでの4校から2校にしばった。これは選手の集中化を計り選抜編成に都合が良いようにと考えたが、なかなか円滑にはいかなかった。
 特に郡内バレーの拠点ともいえる谷村工高は、本来なら自校に入る郡内出身の強化対象選手も多いことから猛反対である。これを誠意をもって説得し、岐南の協力も得て日川、韮崎工2校の最終指定を実現した。
 大切に育ててきた選手だけに、県外からも目をつけられる優秀選手も多く、中学の全日本選手に選ばれて台湾に遠征したり、それが仇となって県外からの引抜きにあった者もあった。
 また、本番前年の冬には日川高の不祥事件が発生し、泣く泣く3名の選手を国体候補選手から外すなど、思わぬアクシデントもあった。
 選抜編成といっても、国体以外の大会出場は単独校でなければならず、両校合同の練習も大きな制約を受けた。しかし、韮崎工が昭和60年6月、激戦の関東大会で3位になったのをはじめ、全国大会を合めて両校具常に上位を確保する地力をつけて来た。
 かいじ国体では、唯一の都道府県対抗種別である少年男子は、少なくとも3回勝ち抜かないと天皇杯得点にはならない。この8月のインターハイ終了直後から約2ケ月、過密ともいえるスケジュールの中で選抜チームは、強化合宿、交流試合を繰り返した。
 北から南から全国隅なく県外チームの戦力分析に走り回った強化スタッフの情報を基に転戦し、勝つための具体的な強化練習を重ねて本番に備えた。

山梨県バレーボール協会 かいじ国体の記録 国体へのチームづくり
10年前に国体誘致が決定され、その2年後には県選手強化対策本部が設置されて、先ず指導者養成事業が始まった。
 バレーボールでも、若手指導者を選んで数数の中央講習会や、日本リーグをはじめとする有名チームの練習見学に派遣する一方、日本協会から豊田博先生(干葉大学教授)と栃堀先生(筑波大学教授)を専任コーチとして招聘し、指導者育成と強化チームの直接指導に力を貸して頂いた。
 両先生共に、日本では超一流の指導者で、数多くの優秀選手を育てて全日本チームに送り込んだ実績を持ち、また国際的な場でも活躍中の方々である。
 バレーボール競技は6種別であるが、有力な企業チームもなく、正直いって水準的に低い本県の状況下では、強化チームの指定も単独チームか、選抜チームか決定に苦慮した。
 そんな中で、昭和56年に県内企業の大手である山梨中央銀行が、成年9人制女子に名乗りをあげ、選手採用や強化計画など積極的な施策を打出した。これが引き金となり、成年9人制男子と成年6人制女子は選抜、成年6人制男子は山梨教員クラブ十補強の線が決まった。
 少年男女については、当面複数校を指定し本番3年前に一本化を計るための検討をすることになり、男子は日川、韮崎工、谷村工、峡南が、女子は増穂商、山梨、大月短大附属等が選ばれた。
 また、これまで並行して強化、育成をすすめてきた小学生優秀選手が中学に進学したのを機に、約半数にしぼって強化選手に指定した。さらに高校進学の年を迎えたとき男子は日川、韮崎工の選抜チーム、女子は増穂商の単独チームという案が県高詠連専門部で採択され、最終的に県協会理事会でも承認された
 こうして全種別の方針が決まり、このときから理事長兼務だった強化委員長のポストに専任者をおき、より緻密な強化計画を立てて悲願とする天皇杯、皇后杯獲得のための対策を推進していくこととした。
(『山梨県バレーボール協会史』)

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