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感動、汗、涙、ありがとう全国大会 竜王釜水ペガサス 藤巻稔氏
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟
「山梨県代表、竜王釜水ペガサス」というアナウンスの声が、ブラスバンドの演奏にのって流れた時、体じゅうがカーッと無くなったのを今でも覚えています。全国大会独特の華やいだ雰囲気の中、自分の教え子たちが大観衆の拍手を受け、堂々と行進しているなんて、夢を見ているようでした。
この2年前、竜王小から河口胡町の小立小に転勤になった時には、まさかこの子たちに全国大会に連れてきてもらえるとは思ってもいませんでした。私が、車で体育館に向かっている間、自分たちで練習に取り組んだ努力とチームワークにより代表権をつかんだことは、本当に価値のあることだと思います。素晴らしい経験をさせてもらい、心から感謝しています。
グループ戦では、山口県の室積とあたりました。それまでは、特別緊張もしなかったのですが、ベンチに座ったとたん足が震えました。こんなことは、後にも先にもこの時だけでした。‘出場選手中最も身長の高いエースのいるチームでしたが、子供たちの頑張りで決勝トーナメントに進むことが出来ました。
決勝トーナメントでも、東京の大島中央エンジェルスを破り、ベスト16に進出することが出来ました。しかし、ベスト8をかけた長崎県の安中との試合では、上位進出を意識したのか、力を出し切れず、信じられない逆転負けをきっしてしまいました。全国の恐さを痛感した一戦でした。
ここでは実力はもちろんですが、実力伯仲の中、勝ち進んでいくためには、運も味方にしなければならないと知りました。
全国大会に出るためには、多くの時間も労力もお金もかかります。しかし、それだけの価値はあります。この大会を通し、子供たちは多くの事を学び、たくさんの友達を作ることが出来ました。これからの人生の大きな財産となることと思いました。
今、この子たちは、中学校で、もう一度全国大会に挑戦しようと頑張っています。私は、もう2度と一緒に戦うことは出来ませんが、その夢が実現する日が来ることを心から願い、楽しみにしています。
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山梨県小学生バレーボール連盟と私
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結成12年に思う 田富バレーボールスポーツ少年団 村上保雄氏
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟
我が田富バレーボールスポーツ少年団は、1988年4月に男女同時に結成された、若いチームです。結成当時男子4名、女子7名と少人数であった。そのころは、とてもチームと呼べるものではなく、手探り状態の練習であった。たとえば、パスが何回続くか? サーブが何本続けて、コートに入るか? などバレーボールをプレーしているような、感じではなかった。特に男子にとっては、無理もない事である。何しろ、初めてバレーボールに触れる者さえいたほどである。やがて、5ケ月が過ぎ、団員も8名と増えた8月、中巨摩郡内の他チームの御好意により、中巨摩郡
スポーツ少年団大会に、出場させていただいた初試合という事もあり、多くを望まなかったのではあるが、フォーメーションは、バラバラ、一回サーブを打った者が、又サーブを打つというようなアウトポジションのミスの連統であり、とても試合にはならなかったが、いろんな事を勉強させていただいた。真剣にプレーしてくれた相手チームには、非常に感謝している。
そのような、チームから、本年やっと念願のライオンカップ全国大会に、初出場する事になった時、嬉しさがこみ上げてくるものがあった。試合は残念な結果に終ったが、全国大会出場後、子供達が一廻りも二廻りも、大人になってきたなアーと感じているこの頃です。子供達にとって貴重な体験をさせていただき、一生の想い出となるのではないでしょうか。
その時、お世話になった諸先生方には、非常に感謝しております。これからも、山梨県小学生バレーボール連盟の発展を願いつつ、ペンを置くことにします。
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結成12年に思う 韮崎バレーボールスポーツ少年団 コーチ功刀芳美さん
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟
私は第6回目の全国大会に、引率者として出場した。私の妹が選手として出場していたこともあって、他人ごとのようには思えず、すべてが自分ごとのように感じていた。私自身、全国大会という舞台に選手として立ったのは、高校生になってからであったので、その当時は、全国大会独特なあの雰囲気には、小学生でありながらも、圧倒されてしまった。しかし、なによりも、監督が、団員よりも興奮して喜び「これが全国大会かぁー」と年甲斐もなく騒いだ開会式が忘れられない。
ところで、週2回の練習が中心で、よくここまでやれたと思う。私達の時代と、あまり変化のない練習内容。私自身が通った過程であっただけに、辛さや苦しみはよく分かる。練習に入ると、普段はゴリラ(本人ともに皆も認める、監督のニックネーム)が鬼と化し普段は可愛い女の子が勇ましい戦士と化す、そして練習が終わると、何事もなかったかのように普段にもどる。このような、単純でごく当たり前のサイクルの中で、全国行きの切符を手に入れた主要因があったのだと思う。それは「絶対に勝つ。何か何だか分からないけど勝つ」という、小学生には相応しい、基本的観念だと思う。
きっと、当時の彼女達にとって、全国大会の意義なんて知らなかったし、また、知らなくてもよかった。ただ、月日を重ね、年をとってゆくにつれて、自分なりに全国大会の意義を見つけ、多くの人々の力によって支えられていた栄光の数々に、心から感謝して欲しいと思う。そして、彼女達の心に、永遠に輝く思い出となったならば、それは最高に素晴らしいことではないだろうか。
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結成12年に思う 韮崎バレーボールスポーツ少年団 コーチ高橋知子さん
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟
私は、韮崎スポーツ少年団を卒団し、山本義人監督の下でマネージャーかつ団員の先輩として中学・高校と少年団活動を続けてきました。「コーチ」と呼ばれるようになったのは、高校を卒業してからです。
チームは、来年で15周年を迎えようとしていますが私は、今年でまだ2年目です。人に教えるよりも自分でプレイしている方がどんなにか楽だろう…といつも思いますが、それでも少年団に足が向かってしまいます。去年・今年とチームを見てきて、そのギャップはとても大きいものがあります。でも、強弱に関係なく、コートの中で動いている団員達が監督から受ける指導の厳しさは全く変わっていません。もっと長い目で言うと、私が小学生の時と殆ど変わってはいないでしょう。これは、悪い意味ではありません。私が、今まで少年団活動を続けてきたのは、山本監督の指導(技術面から生活面まですべて含む)の中に「信念」があり、それにひかれていたからだと思います。
私は、名目上「コーチ」という立場にいますが、まだまだ「先輩」です。どこの指導者も同じだと思いますが、小学生の子供相手にコートの中では1対1で真剣に戦っています。
山本監督のマネージャー(団員の世話よりも大変−かな!?)かつ団員の先輩(相談やアドバイス役)としてこれからも少年団活動を、できる限り続けていきたいと思います。
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「チームの生い立ち」朝日バレーボールスポーツ少年団 溝田孝夫氏著
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟
昭和59年のある日、朝日少年野球クラブ「日の出」チームの会合のおり雑談の中で、バレーのチームを作ろうかとの話が出ました。
まず、体協に申請するのには、たまたま野球の監督の矢崎征男さんが、役員ということで、口添えがしてもらえるということで、指導者は私と飯沼雅子さんということで体協の承認をいただき、晴れて昭和59年6月26日付で部員の募集を学校に出しました。内容は小学3年生以上5年生までの男女50名程度とすごいいきおいでした。
部員は本当に発足と同時に50名となり、びっくりしました。
最初ほとりあえず、ネットとポールは学校のあるものを借用し、ボールは個人で購入して、練習日には毎日持参するという形をとり、これがひじょうにバレーボールを大切にするということと、私はバレーをやっているといった誇りが持てるという効果がありました。
初年度は上級生が5年生ということで、精神面では今一つ充実感に欠けていましたが、多くの人達は卒業するまでバレーボールというスポーツを愛して1年半を通して楽しんで卒業して行きました。この学年で目立つ事は多くの選手がスポーツ万能であるという事と、取り組みが真剣であった事が特長であった。
甲府の学校は生徒数が減少という状況で、各学年が4クラスから3〜2といった具合で、さらにバレーの他に、野球・サッカー・ミニバス・剣道と5団があり、現在では2クラスぐらいになっており、殆どクラブに入っているのだが各部共部員不足が悩みの種である。
卒業生から、現在の部員(3年生)まで、延100名の部員を数え現在も女子11名、男子8名の小人数ながら、月・水・土と週3日の練習日を元気よく楽しくバレーボールを行っております。
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