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書庫山梨県小学生バレーボール連盟と私

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心和むこの頃 境川バレーボールスポーツ少年団 成島栄治氏
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟 

結成して9年目を終わろうとしているが、今年は4年生の入部が皆無で、来年以降が心配になっている。子供たちが楽しくしかも困難に耐えて、身も心も逞しく、人間的に成長することを願ってやって来たのであるが、4年目ぐらいから母集団である保護者会の活動が活発化し、私ども指導者の考え方をよく理解し、共同歩調の中で団活動を支えて来てくれたことに心から感謝している。
 子供たちがみんなバレーボールを好きになり中学へ行っても殆どの子がバレー部へ入っている姿を見て心和むこの頃である。

スポ小の子供達と歩んだ12年 八幡バレーボール少年団 市川吟子さん(故人)
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟 

 子供達にバレーを知ってもらいたいと願って3年目、その機会が訪れました。昭和54年8月オリンピックに出られた矢野ひろみ様が北中学校関係の小学校の子供達を対象にバレー教室を開き指導して下さいました。この機会を逃してはと、9月に入ってからハ幡小学校にお願いに上がり、子供にバレーの指導をする事を了解していただきました。当時市役所の社会体育を指導していました田中さんの熱心な応援も有っての実現でした。大農家の私一人ではと思い加々美様をお願いした所決く引受けて下さいました。保護者会が出来るまで、クリスマス会、新年会、6年生を送
る会など二人で色々出し合っては子供を楽しませて上げる様に心がけました。 55年保護者会がスタート、共に9人制最後の試合に参加致しました。成績は今一歩だったと思っております。56年より6人制となり経験のない私達二人は良く勉強に歩きました。ある時は高校の先生、中学の先生、指導者同志での研究など夜がほとんどでした。一生懸命でした。保護者会が出来てからは色々な面でらくになりました。ほしかったユニホームも初めての6人制の試合に出る記念に買い子供達も大喜びでした。週2回の練習に子供達も熱心に通って来ました。教室がスタートして6年目5年生ベスト8に入り7年目会長杯の折にベスト4に入りました。私は最高に幸せでした。赤飯をたいて子供達と共に祝い良い子供達に恵まれた事を心より感謝し、又頑張らなくてはと我身をはげまし私の出来るすべてを子供に与え子供達が大きく、大きく成長して行ってくれる事を心から願ってやみません。週2回の練習でも、団員の中から中銀のハーフセンター、中学選抜に選ばれ現在高校へ行って活躍しています。私が情熱を燃やしたバレーがこれからもますます盛んになってもらいたいです。

結成12年に思う石和バレーボールスポーツ少年団 滝沢克朗氏
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟 

 昭和44年、栃木県に於いて、スポーツ指導員講習会が開催され、私もバレーボールの部に参加し、スポーツ指導員の資格を得ると同時に、昭和46年、一般男子、女子、家庭婦人の部を設立し、町体育協会の仲間入りを致しました。翌年、底辺拡大と青少年の健全育成を目的とした、スポーツ少年団の設立、当時町内の体育施設(体育館)も1館しかない状況でして、グランドで笑顔の絶えない子供達と汗とホコリにまみれた練習風景が懐かしく甦ってきます。団員数も初代の20名から始まり、平均30〜40名程度でしたが、昭和54、55年度のピーク時には80名からの団員数に指導者一人ということで大変苦労した想い出もございます。又昭和56、57、58年度には、男子の希望者もあり、58年度には男子、全国大会出場という記念すべき想い出もございます。指導者の件におきましても、4年程前より待望の立派な理解ある指導者の協力が得られ、実によろこばしい限りです。返り見まして一言で申し上げますと、バレーボールを目指す同志が期待すべく、私は常に「落ちこぼれのない、家庭的なバレーボール]をモットーに、地域バレーボールの普及宣言をして、早いもので20年間経過しようとしていますが、これまでの家族の理解と協力に対し感謝申し上げると、同時に、すべての指導者に対し、心より誠に御苦労様です、と申し上げたいと思います。

結成12年に思う 貢川スポーツ少年団バレー部 長田久子さん
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟 

 まわりの山々も色づきはじめ、すっかり秋も深まって参りました。今日この頃とつぜん県小学生バレーボール連盟より原稿の依頼をうけ少々とまどってしまいました。
 思いおこせば、私もママサンバレーボールをはじめて3〜4年目頃だったかと思います。貢川スポーツ少年団のバレー部の子供さん達をママサンバレー部の部員が皆で協力して練習のお手伝いをはじめたのがきっかけでした。最初はボールになれない子供達だったので、パスをしてもあまり遠くにとぶことなく、又サーブを打ってもネットをこさないと言う感じだったように記憶しています。それから数年後、社会人のバレーボール大会、ソ連対日本、中国対日本と言う国際試合が行われるようになり、その見学に行く事がしばしば有るようになったことや、テレビでこの様な試合を見、自らまねをする事が多くなって来ました。試合に行く時は皆揃って自転車で移動です。ながい列になって行くのも今になれば楽しかった思い出になります。そして、昭和51年当時は皆様ごぞんじのように9人制で6年生の部と5年生の部に分かれて試合が行われ、この年の夏の大会で見ごと初優勝する事が出来ました。なかなか上位に入る事なく無我夢中で、子供達と練習した成果がやっと実ったのだと思います。この時の子供達の喜びは、一生の思い出となり心に残っている事でしょう。それも皆、諸先輩の皆様はじめ地域の休協の役員、父母の応援が有ったからと感謝して居ります。私もこの優勝が一番の思い出となりなつかしく思い出されます。最後にこれから益々小学生バレーが盛んになりますよう心よりお祈り申し上げます。

第5回全日本バレーボール小学生大会参加に学ぶ反省と選手に感謝
琢美バレーボールスポーツ少年団 監督岩永盛明氏
『小連昭和誌』平成3年編集 山梨県小学生バレーボール連盟 

 灼熱の太陽の下で練習会場の体育館をしめきり、館内は43度を超える猛暑の中で全国大会の会場となる、夢にみた東京体育館の独特の暑さとの戦いと工夫が課題であった。夏休みに入り、毎日午後1時からの暑さの厳しい時間内に練習を開始し、1日目、4人、2日目、3人、3日目、2人、4日目、1人倒れたが、1週間で7名の選手は高温の体育館の猛練習に耐え、立派に乗り切ることが出来、この練習で培った精神力、努力、根性をもって、全国大会にのぞめば、この子供たちは全国でも上位をねらえるのでは、という自信がふくれあがった。私ですら、へとへとにつかれ、ねむれぬ夜があったが、7名の選手は本当によくふんばった。
 全国で低迷を続ける本県の小学生バレーに新しいページをぬりかえるべく、県予選の時から、「全国のベストテンを狙う」と、言い続けた。私なりに分析して、これで全国に通じないはずがないと自分に言い聞かせ、目標を高いところに置いた。選手たちも私のこうした気持ちを察したのか、全国大会の桧舞台でも気おくれすることなく、日本一を狙ってきた茨城県代表、古河一小をストレートで簡単に打ち破った。「監督、勝てた」、「よくやったね」の二言の会話で感激は全て表現していた。又、山梨から応援に来て下さった皆様とコートから場外に出た時、一緒に喜んでくれたことは、生涯私の中で忘れることがないと思う。一戦目にしては、冷静に戦えたということで選手自身にも自信が出たのか、夜のミーティングでは、皆、真剣で、明日も勝って、応援団と感激にひたろうと約束した。二戦目の福島県代表、菊田チームもストレートで破った。
 残念ながらベスト8に入ることは出来ませんでしたが、山梨のチームでも全国レベルの試合に対応できることを感じました。他チームが県代表になった時は、少しでも私の、この経験が手助けになればと思います。今年は選手はじめ後援会、OG、父母、全てに恵まれ、私は本当に幸せでした。特に、7名の選手には感謝します。
 私がいつも選手に言っていることの中に、「試合に勝つ、負けるより大切なことは、平素の努力をおしまないことである。後悔のない練習で、試合では堂々と戦い、最大限の力を発揮することだ。」と言っている。又、心の明るさだけは失わない練習をしているつもりです。
 全国7,455チーム中、9〜16位の中に入ることができ、私は素晴しい子供たちに会えて幸せな監督でした。この大会に当り、大変なお骨折を戴いた方々、関係各位に厚く御礼申し上げます。全国の友と友情の輪が育ち、本当に意義深い大会でした。

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