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最近の小学生スポーツは大切なことをわすれている。 |
峡北小学生バレーボール協議会
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上原先生 京城師範学校バレー部の思い出
『白球懐古』京城師範バレー部のお思いで集 座談会より抜粋
平成六年二月五日 東京にて
【京城師範学校】同校は1921年、日本統治の韓国・京城(現ソウル)に教職員養成校として開校。
昭和十四年の入学で、終戦時は本科二年在学中でした。入学したときの五年生が坂井さん、青木さん、一年上に大貫さん、吉江さんがおられました。
わたしの朝鮮での実家は、忠清南進(忠清南道(ちゅうせいなんどう、チュンチョンナムド)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の大韓民国の忠清南道及び大田広域市を合わせた地域にあたる。道庁所在地は大田)の天安(天安は忠清南道の東北部に位置し、東は忠清北道の清原郡、 鎮川郡、西は牙山市、南は公州市、燕岐郡に接し、北は京畿道平沢市、安城市と境界をなす。ソウルから83.6キロの地点にある)でして、先輩に西田光男さんがおられました。
山梨に引き揚げましたけど、京城師範の卒業生もいなくて、ただ校長だった渡辺信治先生、岩下雄三先生は山梨県の出身ですけど、すっかり孤独感に陥ってしまって、いろんな会合にも殆ど顔を出しませんでした。
サボンの会もこれが初めてでして、実は明日山梨で日本リーグがあって今夜は役員の接待があるのですが、こちらが大事なので欠席した次第です。
山梨に引き揚げて山梨師範の本科二年に編入学しましたら、体育の先生からバレーがうまいけれど何処の学校かと聞かれて、京城師範ですと答えると、神宮大会に出た時の選手かと皆の前でいわれて感激しちゃって、バレーとの縁が復活した次第です。
昭和二十二年に卒業して地元の学校に就職しましたがバレーはやっていませんでした。
その後六・三割になってバレーを始めたのですが、途中で内地留学の試験に失敗、学閥社会に反発して、よし、それなら勝負の世界で頑張ろうと決心しまして、子供達のバレー強化に打ち込みました。その後、山梨国体でバレー選手強化委員長を引き受けると同時に、九人制バレーの監督に就任しまして、一般男子で優勝しました。
そのとき、バレー協会での記者会見の析、京城師範の出身であること、酒井先輩が県内におられること、戦前全国大会で優勝したこと等話しましたら、わたしが全国大会で優勝したように新聞に出てしまって閉口しました。(普通科四年神宮大会三位)
話が後先になりましたが、昭和四十年頃でしょうか、ママさんバレーをしている人から、バレー部の大先輩の酒井さんが県内にいらっしゃると聞いて、何というか嬉しくて、嬉しくて感激したことを思い出します。
現在はもう学校は退職しましたが、県協会で祭り上げられて会長を仰せ付かったり、関東小学生バレーボール連盟副会長など引き受けております。
【京城師範学校】
韓国・ソウルに終戦時まであった京城師範学校の同窓会「醇和(じゆんな)会」は、会員の高齢化で解散することになり、校旗埋納式が12日、太宰府天満宮境内にある同校ゆかりの石碑「大愛の塔」前であった。
同会は植民地時代の複雑な歴史を背景に交流を続けてきた。
式には全国各地や韓国から会員約90人が集まり、塔の裏に埋められた校旗に 万感の思いを託していた。
『双江』「掲載記事」 ドラマチックな転身より
(『双江』「きずな」平成11年京城師範学校同 |




