ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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6 1067;雑歌,作者:田辺福麻呂歌集,羈旅,土地讃美

[題詞]((過敏馬浦時作歌一首[并短歌])反歌二首)

[左注]右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也

濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱

浜清み 浦うるはしみ 神代より 千舟の泊つる 大和太の浜 

はまきよみ うらうるはしみ かむよより ちふねのはつる おほわだのはま

浜は清らかで浦は麗しく
神代の昔よりなべての船の泊る湊
ここ大輪田の浜は

田邊福麻呂(さきまろ)
740年諸兄政権のブレーンである僧玄(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を除こうとする藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で叛乱した。
この一連の西下の歌は田邊福麻呂(さきまろ)が広嗣乱の平定に参画した途次の歌のようにも思える。
福麻呂は天平20年ころから突然宮廷歌を詠んでいるので、乱の平定の功績が契機となったのかも知れない。
福麻呂は天平20年(748年)橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者として用向きは不明であるが越中(えつちゆう)の大伴家持を訪ねている。
ここに福麻呂の歌が登載されているのは、家持の編集部分とも思われるので、橘諸兄派閥者への好意的配慮とも思える。

* 難波宮跡
<以下[歴史ロマン探検隊]より記事転載>
大化改新(645)にともなう難波遷都以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都として、また副都として、日本の古代史上に大きな役割を果たした。
昭和29年(1954)以降長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。
現在内裏・朝堂院部分90.677屬、国の史跡に指定されている。
 遺構の概要
前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡されて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊崎宮がこれにあたると考えられている。
天武天皇朱鳥元年(686)に、火災で全焼するまで続いたと考えられる。
この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。

大化元年(645年)、蘇我入鹿を誅したという「乙巳の変」により新しく即位した孝徳天皇は、 同年12月に都を飛鳥から難波長柄豊碕宮へ遷都した。
大化2年(646年)1月に、公地・公民、班田収授の法、国郡制度、租・庸・調の税制度などからなる改新の詔が出されたとされている。
 額田女王が大海人皇子との愛を育み、十市皇女を生んだのはこの頃のことと考えられる。
遷都したときから都は発展して行ったのでしょう。
冠位十二階から七色十三階のちに十九階に変更しているのは官人の増加と制度の矛盾点とかが出てきたからなのだろう。
確実に進展している様子が窺える。
このころの大阪は難波津という港があり、大陸との交流の表玄関でもあった。ここに都を移すことはそれなりに意味のあることだったのでしょう。
650年、年号を白雉と改め難波長柄豊崎宮の造営を始めました。そして652年9月、難波長柄豊崎宮は完成したのでした。

ところがである。653年、お坊ちゃま育ちの孝徳天皇と強行で強引な中大兄皇子が対立してしまった。中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇をおいてさっさと奈良に戻ってしまったのでした。
中大兄皇子に付いていったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子。それになんと孝徳天皇の皇后である間人皇女も飛鳥川辺の行宮へ行ってしまったのです。
そして654年孝徳天皇は病に倒れ10月10日寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去ったのでした。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったのですが、ところが次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚したのです。
斉明天皇の時代飛鳥には多くの百済の人がやってきました。その人々をもてなす為だったのでしょうか、多くの土木工事がなされ石と水を利用した施設が大規模に造られています。
この作業に駆り出された人の苦労は大変なもので不満タラタラだったということです。
斉明天皇は661年、唐・新羅の連合軍が百済を攻めたため、その百済救済に出兵したが筑紫まで行ったところで急逝したのでした。
この後は中大兄皇子が天智天皇として即位し、滋賀県大津市に遷都したが、死亡後壬申の乱が起こり大海人皇子(天武天皇)が再び飛鳥を都とした。
都城としたのが飛鳥浄御原令を発布した飛鳥浄御原(きよみはら)だったのです。
斉明天皇の板蓋宮と浄御原はほぼ同じ場所です。
時は流れて奈良時代。天皇は聖武天皇に代わっていました。
740年、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都する事にしたのです。
そして翌741年には恭仁京造営に力が注がれるのです。さらに国分二寺の造営の詔も発せられています。
ところが、744(天平16)年閏1月、聖武天皇は恭仁京から難波京に都を移してしまうのです。
そして1年でまた滋賀県紫香楽に遷都しているのです。それなのに半年で再び平城京に遷都しているのです。
この遷都の意味は不明ながら再び難波が一時的とはいえ都となったのです。



巻6 終わり。

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