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【歌意】 ・・・・・・・・・・・・
宮中の古びた軒端のしのぶ草は生い茂り それを見るにつけても しのんでもしのびきれない なつかしきは昔の御代の栄華であることよ ・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 百敷や 「ももしきや」宮中の意。もと大宮の枕詞だが、ここは直接「宮中・皇居」をいう。 「や」詠嘆と語調を整える間投助詞。 成分上独立語で一応初句切。これによって七五調の格律となる。 この句は場所の提示。 「百磯城・ももしき」で沢山の石を以って築いた城、という意味である。 * ふるき軒ばの しのぶにも; 荒れた古い軒ばに生えているしのぶ草にかけて、昔をしのぶにつけてもの意。
「軒ば」は軒の端。
荒れた古い軒端に生えている「しのぶ草」を見るにつけても、「昔をしのぶ」意。掛詞。「しのぶ」はしのぶ草、羊歯(シダ)類の一種。 草の「しのぶ」と、「偲ぶ」とを掛ける。
「に」は動作・作用の対象を示す格助詞。
「も」は強意の係助詞。 * なほあまりある 昔なりけり; (偲ぶにつけて)それでもなお、偲んでも偲びきれない昔の聖代であるよ。
「なほ」は副詞、なおやはり。
【本歌(?)】源等「後撰集」「あまり」はその事を満たしてあまるもの。 「ある」はラ変動「あり」の連体形。 「なり」は断定の助動詞「なり」の連体形。 「けり」は詠嘆の助動詞終止形。 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 【主な派生歌】 秋をへて ふるき軒ばの しのぶ草 忍びに露の いくよ置くらん (禅信) 小泊瀬や ふるき軒端の むかしをも 忍ぶの露に 匂ふむめがか (源高門) 月うすく ふるきのきばの 梅にほひ 昔しのべと なれる夜半かな (源親子) いにしへを ふるき軒端の しのぶ夜は もらぬ袂も うちしぐれつつ (宣長) 【作者や背景】 栄えていた御代をなつかしみ、朝廷の現在の衰微を嘆く述懐。 『順徳院御集』によると、建保四年(1216)ニ十歳の作と知れる。 「ももしきや」と初句に提示して、一首の位置を、そこにしかと言い定める。 「ふるき軒ばのしのぶにも」と、宮中の衰微を即物的にとらえ、和歌的に表現された現実の象徴である。 そこによみがえる心情を、「なほあまりある昔なりけり」と、かつての栄えていた御代への限りない回顧・憧憬の心情となって表現される。 承久の変に先立つ時期の院として、限りない嘆き・憤りをひめられていたはずだが、この一首は和歌として詠嘆的に表現されるにとどまっている。 百人一首の配列の最後に後鳥羽院と順徳院とを置くのは、先頭に歌集勅撰の事業を継承した平安諸帝の祖の天智および持統天皇のニ帝を置いたのに対応する。歌道に力を尽くし、実作は言うまでもなく歌論に、後鳥羽院は『御口伝』順徳院は『八雲御抄』を述作されるなど、歌人の尊崇を受けて当然であろう。 * 順徳院は、約800年程昔前の天皇。 第84代後鳥羽天皇、第99番の歌人である後鳥羽院の第三皇子。 後鳥羽院と鎌倉幕府の争い、承久の変で25歳にして譲位され「院」となられ、佐渡ヶ島(現在の新潟県)へ流された。生涯は46歳。 和歌は、この『小倉百人一首』を選んだ藤原定家や俊成の女(むすめ)について学んだ。 正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となり、承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚。穏和な土御門とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている。 譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。即位後の内裏は閑院であった。天皇の治世に関して、『増鏡』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。 直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。家集としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『八雲御抄』が知られる。『続後撰集』以下の勅撰集には159首が入る。 父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、断食を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる。 順徳は後鳥羽院怨霊におびえる世情を知っていたようで、本来重陽の節句を言祝ぐべき九月九日に亡くなることを望み、みずからの怨霊化ないしは後鳥羽院怨霊の増大を企てていたようである(藤川功和) なお、在島中の詠歌として、貞永元年(1232年)の『順徳院御百首』が残されている。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された。 佐渡の真野陵に葬られたが、翌寛元元年(1243)、遺骨は都に持ち帰られ、後鳥羽院の 大原法華堂の側に安置された。建長元年(1249)、順徳院の諡号を贈られる(それ以前 は佐渡院と通称されていた)。 「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり」 (順徳院) 角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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