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<入道摂政まかりたるけるに、門(かど)を遅くあけければ 立ちわずらいひぬといひ入れて侍りければ 右大将道綱の母 拾遺集・巻十四・恋四> 拾遺集・巻十四・恋四(912)に「入道摂政まかりたるけるに、門(かど)を遅くあけければ、立ちわずらいひぬといひ入れて侍りければ、右大将道綱の母」とあるのが出典。 夫が訪れてきたときに、妻である作者がなかなか戸を開けなかったので 「長い間、立っていて疲れた」と皮肉を言った夫に対して答えた歌。 行き場のない夫への怒りと悲しみを強い口調でなじるしかない想いの歌。 【歌意】 今夜もいらっしゃらなかった・・・
ため息をつくひとり寝の床の夜の長さ 夜明けまでの長さを あなたご存知・・・? ごぞんじないでしょうね あぁ〜にくらしい 【語句・文法】 * 嘆きつつ;
「なげき」は四段活用動詞「なげく」の連用形。
* ひとり寝る夜の 明くる間は;「つつ」は継続を示す接続助詞。
「ぬる」は下二段活用動詞「ぬ」の連体形で、「いぬ」と同意。
更に 門を『開ける』間さえ待ち切れないという貴方には,お分かりにならないでしょうという嫌味も含まれている。「の」は修飾句内の主語を示す格助詞。 「あくる」は下二段活用動詞「あく 明く」の連体形。 『あくる』=『夜が明ける』は「門を開ける」の掛詞。
「あくるまは」は、夜が明けるまでの間はの意。
「遅く+する(動詞)」は、「そのときになっても・・・しなかった」、の意。時間の長さで比べれば物の数ではない。「ま」は名詞、間・経過時間の意。 「は」は係助詞。 * いかに久しき ものとかは知る;
「いかに」は形容動詞「いかなり」の連用形。
この反語は「・・・と知っているか」、「知らない」、が原意。「久しき」は形容詞「久し」の連体形。 「もの」ことである。 「と」は引用の格助詞。 「かは」は反語の係助詞、結びは動詞連体形「しる」。 恨みを述べつつも機知を効かせた当意即妙の歌となる。 【作者や背景】 承平七年(937)頃〜長徳元年(995)陸奥守藤原倫寧(ともやす)のむすめで、天暦八年(954)藤原兼家と結婚し、翌年道綱を生んだ。本朝三美人のひとりとされるほどの美人であったと伝えられる。家集に『道綱母集』日記に有名な『蜻蛉日記』が残されている。 藤原兼家との結婚が成立したのは天暦八年(954)秋、作者は十八、九歳、夫は二十六歳であった。新婚間もない九月末、兼家が二夜続けて来ないことがあり、手紙ばかりが送られて来たのに対し、返事とした歌である。晩秋の朝方から降り始めた時雨に言寄せて、泣き濡れた我が身の心細さを訴えている。兼家はすぐに返して「思ひやる心の空になりぬればけさはしぐると見ゆるなるらむ」、あなたを思いやる余り心は上の空なので、私の涙が時雨と降ってそちらにまで見えたのだろう、と弁解しつつ心遣いを見せている。 この歌は彼女の若かった時代の歌で、結婚後すぐの頃頼りにする父は遠い陸奥の任地にあり、彼女は道綱を生んだばかりの心細いときだった。さすがに兼家はやさしい心づかいみせて、よく彼女の面倒を見てくれた。 『蜻蛉日記』は女性の好む本である。世には「いやなもの見たさ」ということがある。『蜻蛉日記』が千年の歳月、読みつがれてきたのは、この「いやなもの見たさ」の精神であろう。人はそこに「いやらしさ」の真実をかいま見て感動する。『蜻蛉日記』の作者「右大将道綱の母」は、冒頭にこんなことを書いている。 「年月ははかなく過ぎてしまった平凡な私、役にもたたぬ人間だけれど、つれづれに世間にはやっている小説を見ると、つまらぬ作り話が多い。それよりありのままの私の身の上を書いてみようかしら。」 高い身分の男と結婚して玉の輿といわれるけどその実態はどんなものか、知ってほしいわ。・・・・作者はそう思ってわが夫婦生活を書くのである。 彼女の結婚した相手は歴史に残るような政界の大物、藤原兼家である。 当時の貴族の習わしで、すでに時姫という妻がいて長男も生まれいる。 「蜻蛉」はむろん、そういう社会習慣をよくわきまえている。しかも兼家は当時の最高の家柄で、彼女の実家とは格段に身分がちがう。実家の権威をあてにすることもできない。それやこれやの物思いが彼女のプライドを刺激する。彼女はひたすら夫の訪れを待つ不安な妻の地位に耐えられない。 「三十日三十夜はわがもとに」と念ずるような独占欲の強い女だった。 ほかの妻に嫉妬し、愛人を呪ってはばからない。あるいは尼になろうとしてみたり(兼家はいそいで彼女を取り戻し家へ連れ帰っている)夫の手紙に拗ねたり、せっかく夫が訪れてもプンとふくれて背中を向けたままだったり。 しかも都合の悪いことに、彼女は、実は夫を愛していたのだ。夫の愛を独占するということに絶望しながらも、夫の一語一句に一喜一憂する。それは地獄のような歳月であった。現代の私たちが『蜻蛉日記』を読めば、兼家なりに彼女を愛していたというのがわかるのだが、彼女はそこまで省察できなかったらしい。 あまりにも自分本位である。しかしそれなりに掘り下げていって真実に到達した。皮肉にも兼家の性格はじつにあざやかにいきいきと描かれている。兼家という男は中々まめな男で、上は内親王から下は「町の小路の女」まで、幅広くつきあっている好色家であった。 「蜻蛉日記」によると、天暦九年(955)冬のある日、兼家は作者のもとを訪れるが、やがてそそくさと出て行ってしまう。夫が出て行ってからほかの女に当てた彼の恋文を発見する。またあら手ができたのだわと思い、彼女が後をつけさせると「町の小路の女」という愛人のもとに泊まったのであった。彼女は嫉妬と憤怒に煮えくりかえる。 「二、三日ばかりありて、暁がたに、門をたたくときあり、さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、何の家とおぼしきところものにしたり。つとめて、なほあらじと思ひて・・・・・」とあり、いくら気の強い彼女といえども、「なほもあらじ」、このままにしてもおかれまい、というので、この歌を 「うつろいたる菊」につけて贈るのである。 ここで兼家は返した。 げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり ・・・いやほんとうにいわれる通りです冬の夜の長さもつらいが、木の戸でもあくのが遅いのはもっとつらいものです・・・。 盛りを過ぎた菊は、むしろ当時はほめ味わうべきものであったがここではもちろん皮肉である。 彼女は夫がしれしれとそ知らぬ風にあしらうといって怒っている。 とにかくまあ、何をしても怒る女なのである。 作者は、おそらく晩年に自己の生涯を振りかえって、失われた人生を、日記にすることによって、創造的によみがえらせようとしたのであろう。 歌人小町(9の作者)から伊勢(19の作者)をへて、悲しい女の愛は、このようにしっかりと日記文学によって書きとどめられるようになったのである。 平明な表現の背後に、切実な感情がある。ただし、「蜻蛉日記」から独立させて、一首の歌として味わうと、一夫多妻の婚姻形態の中で、不実な男の愛を嘆く女の気持ちの表白であろう。 閨怨(女性がひとり寝のわびしさを嘆くこと)の姿が浮かび上がってくる物語的な歌であり、定家の好きなところでもあった。 つごもりがたに、しきりて二夜ばかり見えぬほど、文ばかりある返りごとに きえかへり露もまだひぬ袖のうへに今朝はしぐるる空もわりなし(蜻蛉日記) ・・・・・・・・・・・・ 消え入るような思いで夜を過ごし、涙もまだ乾かない袖の上に、今朝は時雨を降らせるとは、空も遣る瀬ない。 ・・・・・・・・・・・・ http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tunahaha.html しかし詞書を持たない百人一首の歌として見れば、「あくる」は「夜が明ける」以外の意味を帯びず、ひたすら独り寝の嘆きを訴える哀韻が深い。永夜の孤閨は3柿本人麿の「あしびきの山鳥の尾の…」、85俊恵法師の「夜もすがら物思ふ頃は…」とも共通するところで、王朝恋歌を貫流するメイン・テーマであった。 この歌は『深窓秘抄』『前十五番歌合』など藤原公任撰の秀歌選に採られており、早くから名歌の誉れが高かった。 王朝貴族社会を生きた女性の哀しみを切々と歌い上げて『蜻蛉日記』の主題を集約するような歌であり、また怨みがましくも優艷さは失わない日記の文体を髣髴とさせる歌でもあり、作者の代表歌と言えば本作以外あり得ないだろう。
【主な派生歌】
岩の上の たねにまかせて まつ程は いかに久しき 物とかはしる(和泉式部) まどろまで あかすとおもへば みじか夜も いかにくるしき 物とかはしる (〃) うらみつつ ひとりぬる夜の 秋風に 身にしむものと いかでしらせむ (藤原秀能) 秋の田の 庵もるよはの あくるまは いかに露けき 月とかはしる (弁内侍) ね覚して 松のとぼその あくるまは 花にひさしき をはつせの山 (木下長嘯子) 高砂の 尾上ならでも 時鳥 まつは久しき 物とかはしる (後水尾院) 暮るるまの いかに久しき 影ならん 独ぬるよに あらぬ春日も (武者小路実陰) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)> 等から。 |
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