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<かれがれなるをとこのおぼつかなくなどいひたりけるによめる 後拾遺集・恋二> 途絶えがちになった男が、「お気持ちが分からず不安で」などと(手紙で)言っていたので詠んだ歌。 (おぼつかなくー 恋人の変心を疑うときの決まり文句) 【歌意】 ・・・・・・・・・・・・
有馬山から猪名の笹原に風が吹くと 笹はそよそよとなびかずにはいられない さあ おなじことですよ 音信があれば心は靡くもの わたしがあなたを忘れるなどありましょうか ・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * ありま山 ゐなの笹原 風吹けば; 笹の鳴る擬声語の「縁」から「そよ」の序詞。 序詞は、直接には主題(作者の言いたいこと)に関係ないように見えるが、しかし歌全体の姿から見れば、様々な効果があるだろう。 まず旋律が極めて美しく歌の調べが美しくなるということである。 序詞から連想されるそよそよという音が、なだらかに「いでそよ」に連なる効果は抜群なものであろう。 次に有馬山から吹き降ろす風で、寂しい猪名の笹原がなびいて音をたてている光景が浮かんでくる、読む人をわびしい心境に引き込む効果がある。 なお最近では、大弐三位(だいにのさんみ)詠歌傾向を分析し贈答歌の場合、相手の歌の表現を用いることが多く、「有馬山」の読み込まれた男の歌への返歌であろうとする説もある。 具象的に展開された序詞の風景、そこから浮かぶ気分、美しい旋律、それらが「そよ」に集約されて主題へと連なる。「そよ」は後拾遺集の詞書(ことばがき)の「おぼつかなく」を受けており、自分が離れ離れになっているのを棚に上げて、女を疑う男に対する反発である。 あなたこそどうなの?という余韻は、厳しくも鋭いが、序詞の旋律の美しさによって、全体の調子は穏やかである。こういう歌こそ、王朝生活の雅の場では、最も気のきいた秀歌とされたのであろう。 余剰豊かな、物語的な歌となっている。 「ありま山」は兵庫県神戸市にある山、または同県有馬地方の山の総称。 摂津国の歌枕。古くは有間山とも書く。現実的には有馬温泉として有名。 「ゐな」は兵庫県川辺郡から大阪府豊能郡にまたがる古名で、有馬山とはやや離れているが、古来よく結びつけられる。
万葉集の
しなが鳥 猪名野を来れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿りはなくて以来、有馬山とセットで旅の歌によく出て来る。 荒涼とした原野のイメージで詠まれることが多い。 「笹原」は笹の生えた野原。 「吹け」は四段活用動詞「吹く」の已然形で、順接の接続助詞「ば」を接して確定条件。 「風」は男からの音信を暗示している。 * いでそよ人を 忘れやはする;
「いで」は、いやどうもの意の感動詞。
* 「イナ国(マ)」は、大阪府の昔の豊島郡(現在の大阪市北部と豊中市、箕面(みのお)市、池田市、茨木市、兵庫県伊丹(いたみ)市の一部を含む地域)の、すぐ北に隣接している「古代・稲国(イナマ)」すなわち大阪府の箕面市から兵庫県の猪名川町を中心とする一帯と考えられる。「そよ」はそれですよの意。 「そ」は指示代名詞で、詞書の「おぼつかなく」などいう男の言葉を指す。 「よ」は詠嘆の終助詞。 「人」は相手の男。 「を」は対象を示す格助詞。 「やは」は反語の係助詞で、結びはサ行変格活用動詞「す」の連体形「する」。 「わする」は恋歌の用語としては「恋人を捨てる」「気にかけなくなる」意に用いることが多い。 同時に蘇我稲目と孝徳天皇の二つの名乗りにも共通する。 「原」はハイ=ハリ・巴利で都。朝廷。 「ゐな」は日本列島の先住民イナと(委奴・犬・因・印・稲・猪名・伊那=殷・インド)から倭人(ウワイト)、女系王朝。 (歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ・ウバイド・ウワイト・遷都 ) 「大阪北部を支配していた倭国王・蘇我稲目」より抜粋転載。 ** いでそよ人を 忘れやはする; 愛していないですって? なんで、あたしがあなたを拒んだことがある? いなのささ原だわ、 ありませんのよ有馬山、ってところね。 あなたご存じ?有馬山 そのふもとの猪名の笹原に風がわたると、 さやさや、そよそよとかすかな葉ずれ、 そうよ、そうよと ささやくのを。 そうなのよあなた、あたしがあなたを忘れると思って? わすれるはずがないじゃないの。 技巧の極致のような歌で、しかも実感があるから技巧が浮かび上がらず、詠唱してしらべがいかにも美しい。 訳よりも、何度も口ずさんで、そのフィーリングを楽しんでいただく方がいい。 この歌の結びの 「人を忘れやはする」 という、それだけが核であって、その上に美しい修辞がいくつも重なって、きらびやかなにふくれあがった歌なのである。 有馬山と猪名の笹原は旧い歌枕。 「有」と「否」男と女のラブコールも響かせた対句でもある。 笹原のそよぎから、「そよ」という言葉が引き起こされる。 「そよ」は「それよ」を略したもの、 「いでそよ」となると、「さあ、それなんですよ」と弾んで、ここの「人」は男、あなた、 ・・・あなたのことを忘れましょうか、いいえ、忘れませんよ、と反語になる。 【作者や背景】 大弐三位(だいにのさんみ)、藤原賢子(かたこ、かたいこ、けんし)(999−?) 父は藤原宣孝。 母は紫式部。 長保3年(1001年)3歳ごろ父と死別。 長和6年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に仕えた。 二つ三つくらいで父と死別したあと、母とともに祖父の藤原為時に養われたようである。為時は有名な学者であって、母方の系統はみな文雅の人であった。母とともに彰子皇太后に仕えることとなったが、まもなく母の紫式部に死別する。紫式部は長和三年(1014)ごろ、四十一、二歳で死んだのではないかと推定されている。 そのころ賢子は十四、五、六ぐらいの年頃であろうか、加えて翌々年、杖とも柱とも頼む祖父為時も出家してしまう。 賢子は若くして一人ぼっちになった。 宮廷女房として、自分の才と若さだけを頼みに泳ぎぬかねばならない。 しかし賢子はそれをやってのけたのである。 母ゆずりの才気と勝気、父譲りの美しさと快活、バイタリティ、それにそのころ宮中に『源氏物語』がようやくさかんに読まれはじめ、母の存在が大きくなっていたことであろうと思われる。賢子は親の七光を十分効果的に使ったのかもしれない。 賢子は権門の貴公子と次々恋をする。藤原定頼から藤原の兼隆みな一流の貴族である。関白藤原道兼の次男兼隆と結婚で一女をもうけた。 長暦元年(1037年)までの間の三十六、七のころ東宮権大進高階成章と再婚、 同2年(1038年)為家を生む。 しかも子供を産んだとき、ちょうど後冷泉天皇が誕生され彼女は乳母に選ばれた。 天皇の乳母の権威は大きい。また賢子は聡明で情理知りの女性だったから後冷泉帝へのお躾もきわめて評判がよかった。 そんなことで世に重く扱われ、しだいに出世して従三位、典持とすすんだ。 天喜2年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫正三位成章も大宰大弐(大宰府の長官)に就任した。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する女房名である。 賢子は茂章と結婚したので大弐三位と呼ばれることになり、それまでは祖父が越後守だったので越後の弁と呼ばれていた。 この茂章は54番の作者儀同三司の母の一族であるが蓄財の才にはことのほか長けていたという男、賢子は若き日には貴公子らとしっかり恋をたのしみ仕事の業績もあげて立身し、中年になって大金持ちの高級官僚と結婚して身を固めたのである。 なんとめざましい生き方ではないか、現代キャリアウーマンの願望を絵に書いたような人である。 長元元年(1028年)「上東門院菊合」、永承4年(1049年)「内裏歌合」、同5年(1050年)「祐子内親王家歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。 承暦2年(1078年)には80歳近い高齢で「内裏後番歌合」に出席し、子為家の代詠をつとめている。 家集『大弐三位集』(一名『藤三位集』)がある。『後拾遺和歌集』に37首入集。また、「小倉百人一首」にこの「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ 人を忘れやはする」が採用されている。 『源氏物語』宇治十帖や『狭衣物語』の作者と掲げられることがあるが、真偽は定かではない。 【主な派生歌】 もろともに ゐなのささ原 道たえて ただふく風の 音にきけとや (定家) 行きくらす ゐなのささ原 そよさらに 霰ふりきぬ 宿はなくして (藤原為家) 風わたる ゐなのささ原 そよさらに うきふししげく 露ぞ乱るる (九条教実) うらみばや ゐなのささ原 とにかくに いでそよつらき ふしのしげさを (宗尊親王) 鹿のこゑ 虫の音もまだ 有馬山 ゐなのささ原 そよや初雪 (木下長嘯子) 荻の葉に 秋風たちし 夕べより いでそよさらに 誰か恋しき (〃) 暮るる日の ゐなのささ原 風たちぬ いでそよ夏を わするばかりに (中院通勝) 風ふけば いでそよ今も ささがにの 袖にかかりし 暮ぞわすれぬ (下河辺長流) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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