わたのはら 漕ぎ出でてみれば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波タイトル
法性寺入道前関白太上大臣(藤原忠通)
<新院 位におはしましし時 海上遠望といふ事をよませ給ひけるに詠める 詞花・集・雑下> (新院は崇徳院)今鏡・五
(上皇がまだ皇位にあられたときのこと、海上の眺望という題で詠歌を命じられて歌を詠んだ。忠道は三十八歳、関白の位にあり、宗徳院はまだまだ十七歳のうら若き帝であった。二十年のちに二人が敵味方の立場に立とうとはお互いに思いもせぬことであったろう。)
【歌意】
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大海原に舟を漕ぎ出して海と空を見渡すと
はるか水平線に雲と見紛うばかりの
あれは沖の白波か
なんとまあ 茫洋と晴れやかな眺めであることよ
大海原に舟を漕ぎ出し、海と空をひろびろと眺めれば、水平線はひとつになって沖に立つ白波は雲かとまがうばかり、なんとまあ、茫洋とはるけくも晴朗なながめであることよ
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【語句・文法】
* わたのはら 漕ぎ出でてみれば;
「わたの原」大海の、連体修飾語、大海原。
「わた」は海を指す古語。
万葉集には「わたつみ」「わたの底」などの語が見える。
「こぎいで」は下二段活用動詞「こぎいづ」の連用形。
「て」は順接の接続助詞。
「みれ」は上一段活用動詞「みる」の已然形で、順接の接続助詞「ば」を接して確定条件。
・第二句字余り。
* 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波;
「久方の」は「雲ゐ」の枕詞。「雲ゐ」は 雲のあるところ、空。単に雲の意味にも転用された。この歌では空とみる説と雲とみる説が古来対立。
「に」は比較の対象を示す格助詞。
「まがふ」は四段活用動詞「まがふ」の連体形で、区別がつかなくなる意。
「沖つ白波」は一単語、沖の白波。
・ 体言止で成分上独立語。
【作者や背景】
「海上遠望をよめり。心は明か也。これは我舟にのりていへる心也。歌のさまはたけありて余情かぎりなし。眺望の歌などにかくれたる心はあるまじき也。ただ風情をおもふべきにこそ」(応永抄)。
<調べは万葉の古調>
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思う
(古今集・読人知らず)柿本人麻呂作といわれる
あまのはら ふりさけみれば 大君の みいのちは長く 天足らしたり
倭姫皇后
田子の浦 うち出でてみれば 真白にぞ 不二の高嶺に 雪は降りける
山部赤人
などに近い
思ひかね そなたの空を ながむれば ただ山の端に かかる白雲
冬の日を 春よりながく なすものは 恋ひつつくらす 心なりけり
御狩すと 鳥立の原を あさりつつ 交野の野辺に 今日もくらしつ
さざなみや 志賀の唐崎 風冴えて 比良の高嶺に 霰ふるなり
(どの歌もおおらかな気風が出ていて、平明で、温かみがあり、
伸び伸びとした、清新な気分で、いかにも権門の長者の風格がうかがえる)
【主な派生歌】
わたの原 しほ路遥かに 見渡せば 雲と浪とは ひとつなりけり
(藤原頼輔[千載])
わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲ゐも波の うちにぞありける
(藤原家隆)
わたの原 波と空とは ひとつにて 入日をうくる 山の端もなし
(藤原定家[風雅])
和田の原 うち出でて見れば 山梨の 花とやいはん 沖つしらなみ
(正徹)
【作者や背景】
藤原忠通 ふじわらのただみち
承徳元〜長寛二(1097-1164) 号:法性寺関白
関白というのは、天子を補佐し百官を統べ政治を行う職で、中国の史書に「諸事、関わり曰うし、然るのちに天使に奉御す」とあることから出た。
藤原氏の職となって長く子孫がうけつぐようになった。
道長の直系。関白太政大臣忠実の息子。
母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長・高陽院泰子の兄。
基実・基房・兼実・兼房・慈円・覚忠・崇徳院后聖子(皇嘉門院)・二条天皇后育子・近衛天皇后呈子(九条院)らの父。忠良・良経らの祖父。
堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に叙され、昇殿・禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少将・右中将を経て、
天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。
永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、内大臣。
保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白となり、氏長者となる。同三年、左大臣・従一位。
崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。近衛天皇代にも摂政・関白をつとめたが、
大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復帰した父と対立を深め、
久安六年(1150)には義絶されて氏長者職を弟の頼長に奪われた。
以後美福門院に接近し、
久寿二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実・頼長が失脚した結果、氏長者に返り咲いた。
保元三年(1158)、関白を長子基実に譲り、
応保二年(1162)、出家。法名は円観。
永久から保安(1113-1124)にかけて自邸に歌会・歌合を開催し、自らを中心とする歌壇を形成した。詩にもすぐれ、漢詩集「法性寺関白集」がある。
また当代一の能書家で、法性寺流の祖。日記『法性寺関白記』、家集『田多民治(ただみち)集』がある。
金葉集初出。勅撰入集は59首(金葉集は二度本で数えた場合)。
この忠道の生きた十二世紀はじめは動乱時代の幕あけであった。
皇室では鳥羽上皇と崇徳院が御親子の仲でありながら仲がお悪かった。
崇徳院は父君にうとまれ、異母弟の近衛帝のために皇位を譲らねばならなかった。
近衛帝が崩じられると、後白河帝が立たれた。
心ならずも皇位を下ろされた崇徳院の恨みは深まるばかりである。
関白家では忠道が父と弟に対立していた。
父の忠実は次子の頼長を愛して、嫡男の忠道を排斥しょうとする。
武士たちは源氏も平家も、それぞれの思惑から、立場を異にして同族の間で角逐を演ずる。
頼長と忠道の争いに武士たちが絡み、鳥羽院崩御をきっかけに持ち上がったのが保元の乱であった。(1156)
崇徳院側について賭けたのが頼長、後白河天皇側に与したのが忠道であった。
崇徳院側はあえなく敗れ、頼長は戦死し宗徳院は、讃岐に流される。
憤怒にもえる崇徳院は、生きながら鬼のようになって都の君臣を呪いつつ、生涯をそに地で終えられた。
忠道は勝者の立場に立った。弟は敗死し、父は隠遁した。もとのように関白に復し、氏の長者として一族を統べる身になった。
そもそも総ては、鳥羽・崇徳両院の宿命的な反目と憎悪から出ているのであろう。
鳥羽院は、崇徳院を自分の子ではない。と排斥しているのだから。
【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・
<ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・
<千人万首>・<Wikipedia>・
<小倉百人一首 注釈>・
<フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。
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