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<恋の歌とてよめる 千載集・恋二>
【歌意】・・・・・・・・・・・・・・・
妻問いの主は今夜も訪れず そんな夜がつづいて眠れない 板戸からもれる朝の光までもが なんと意地悪く遅いことか ・・・・・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 その女性の身になり、かつ擬人法を使って客観的描写、 * 夜もすがら; 副詞で一晩中の意。対語は「ひねもす」・一日中。 * 物思ふころは 明けやらで;
「物思ふころ」は思い悩むこのごろの意。
* 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり; 「は」は係助詞。 「明けやら」は四段活用動詞「明けやる」の未然形。 「で」は打消の接続助詞。明けやら「ぬ」となると説明的である。 「で」は「ずて」がつづまって「で」になったといわれ、打ち消して下の語句に接続する助詞である。
「閨」は寝室。
擬人法採用。「ひま」はすき間、板戸のすき間をいう。 「さへ」は添加、・・・までもの副助詞。 「つれなかりけり」は形容詞「つれなし」の連用形カリ活用。
「けり」は詠嘆の助動詞終止形。八つ当たりの心情であろうか。
時間/空間 双方への広がりを表現した「ねやのひま」である。【作者や背景】 現代でこの歌をよむと、誰も恋の部に入れないのではないか。 輾転反側するほどの物思いは、現代ではさまざまな要素があろう。 無論恋にまつわることも多いが金策に悩む人、いじめに弱っている人、病苦、人間関係に思いわずらう人、ストレスの種類も多種多様になっている。 第一、古典の定石通りに女は男を待つものと決まらなくなってきいる。 「公任卿は式部の歌の 『津の国の こやとも人を 言うべきに ひまこそなけれ 芦の八重ぶき』 を凡夫の思いよるべきことにあらずと激賞され当時の人の誉めた 『暗きより 暗き道にぞ いりぬべき はるかに照らせ 山の端の月』 を、たいしたことはないとけなしておられる。 しかし、いまの世の私たちが見ても「暗きより」のほうが詞も姿もたけたかく、優美な秀歌だと思われますが、いかがですか」 長明は答えた。・・・歌人としてのテクニックの実力を問うなら「こやとも人を」を採るべきで、公任卿はそれをいわれたのだろう。 しかし真の秀歌は「はるかに照らせ」のほうだ。歌の評価は世々に変わるが、技術はいくら上達しても、技術にすぎない。 しかし歌にこもる心ばせ(真実)は宝だ。宝こそ変わらぬものだ、永久に。 時代を超えて人の心を歌いあげた歌はのこる。その点俊恵のこの作はプロ歌人の技巧の歌であろう。 俊恵 しゅんえ 永久一(1113)〜没年未詳 称:大夫公。 兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。 子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。 平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。 十七歳のときに父と死別してから、約二十年もの間、作歌活動から遠ざかっていた。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりであるが、その多くは四十歳以降に詠まれたものである。白川の自坊を「歌林苑」と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与えた。鴨長明の師で、その歌論は『無名抄』などにもみえる。 風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした藤原俊成とは事なる幽玄を確立したといえる。 「詞花和歌集」以下の勅撰集に入集。「歌苑抄」「歌林抄」などの選集を編集し、家集には「林葉和歌集」がある。 なお、無名抄の俊成自讃歌事によると、自らの自讃歌は、 み吉野の 山かき曇り 雪ふれば ふもとの里は うちしぐれつつ(新古今和歌集 冬) で「もし世の末におぼつかなく云ふ人もあらば、かくこそいひしかと語り給へ」とある。 【主な派生歌】 あけやらぬ 閨のひまのみ 待たれつつ 老いぬる身には 朝寐(あさい)せられず (藤原知家) 思ひしほれ 寝るとしもなき 時のまに 閨のひまさへ 白みはてぬる (延政門院新大納言[玉葉]) あけそめし 閨のひまさへ 埋もれて 猶夜ぶかしと ふれるしら雪 (宗良親王) 時鳥 待つ夜はいく夜 ただにあけて つれなからぬは 閨のひまかな (木下長嘯子) しののめは まだあけやらで ふる雪の 光にしらむ 閨のひまかな (〃) むらしぐれ いく度きかば 冬の夜の つれなき閨の ひま白むべき (小沢蘆庵) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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