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<月前恋と「いへる心をよめる 千載集・恋五> 【歌意】 ・・・・・・・・・・
恋人の冷たさが恨めしいか もっと嘆け悲しめと あの月がいうわけではないのだが 月にかこつけがましく流れ出る おろかなわが涙であることよ 月はただ無心に照っているのに ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * なげけとて; 悲しめと言って。
「なげけ」は四段活用動詞「なげく」の命令形、主語は作者。
* 月やは物を 思はする;「とて」は「と言って」の意の格助詞。 月はわたしに物思い(悩む)をさせるのだろうか、いや月がさせるのではない。
「やは」は反語の係助詞、結びは使役の助動詞「す」の連体形「する」。
三句切。古来「月の顔見るは忌むこと」といわれる。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
擬人法。「思は」は動詞未然形。 * かこち顔なる わが涙かな;
「かこち顔なる」は形容動詞「かこち顔なり」の連体形、かこつけがましい意。月に罪を着せる様子。
【作者や背景】「かこち顔なる」は「涙」を修飾する。 「わが」は自称代名詞「わ」と、連体修飾語を作る格助詞「が」。 「かな」は詠嘆の終助詞。 西行法師;西行 さいぎょう 元永一〜建久一(1118〜1190) 元永元年(1118)、生まれる。俗名は佐藤義清(のりきよ)。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。弟に仲清がいる(『尊卑分脈』では兄とある)。 保延元年(1135)、18歳で兵衛尉に任ぜられ、二年後、鳥羽院北面として安楽寿院御幸に随う。 崇徳天皇の保延六年(1140)二十三歳で出家。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。 富裕な家の、ほまれある武門の生まれの青年が、なぜ、青春のまっただなかで世を捨てたのか、なぞである。 友人の死に無常を感じたとも、さる高貴な女人にむくわれぬ愛を捧げた結果とも、また政争にあけくれる現世に厭離の念をおこしたとも言われているが、おそらくさまざまな原因が重なって、この多情多感な青年に世を捨てさせたのであろう。 そのとき青年には妻と二人の子がいた。そのうちの一人は、四つばかりの女の子で、彼が日頃、心から可愛がっていた娘であった。その子が慕い寄ってまつわりつくのを、心を鬼にして縁から蹴落とし、家を出ていったと伝えられている。あちこちに草庵を結び、旅をすみかとして放浪した。 世は保元・平治の兵乱で騒がしく、西行が心を寄せた人々も、次々に死んでいった。西行は徳大寺家と親しかったから、その一門の待賢門院、お子の崇徳院の悲運に心をいためたのであった。崇徳院が配流の地の讃岐で亡くなられた後、西行は四国に渡って院の霊を慰め 「よしや君 昔の玉の ゆかとても かからむ後は 何にかはせむ」 という歌を捧げている。 西行は月と花を、こよなく愛した人だった。彼の半生はちょうど平氏が勃興し、栄華を誇り、やがて没落していった時代にあたっている。 また鳥羽・崇徳院両帝の宿命的な肉親憎悪の地獄をも、目のあたり見た人である。地獄を見た人の目に、慕わしくも美しいのは、ただ月と花であった。 私に嘆けと言って、月は物思いをさせるのだろうか。いや、そんなことのあるはずはないのに、まるで月のせいにしているかのように流れ落ちる私の涙であるよ。 恋心とはいいつつ、それ以上に、人間西行の「人間」への人恋しさを、「物思わせる」という観念的な「月」に託して詠いあげている、そうした心に思いがはせる一句だろうか。年老いてから遠い昔のことを歌にした、ということではある。 「円位」というのは、西行の昔の法名であり「西行」というのは、歌号である。この歌も、西行の歌としてはおよそ魅力ない歌で、古来からいぶかしがられている。 天成の詩人である彼の歌は、歳月を越えて人々を酔わせる。自然を愛し、旅を愛した彼は、世捨て人といいながら、生きることの滋味を詠わずにはいられない人であった。 現在の淀川と神崎川の交わる所にあった江口と(東淀川区内)いう港で舟遊女と歌合せをしている。 西行は天王寺詣での途中、この遊里で一夜の宿をと望んだが、女主人にすげなく断られるやりとりの様子を詠った問答歌である。(新古今和歌集) 世の中を 厭ふまでこそ 難からめ かりのやどりを 惜しむ君かな (西行法師) 世を厭ふ 人とし聞けば かりの宿に 心とむなと 思ふばかりぞ (江口の君/遊女妙) また、この歌が後に伝説化して創作された『江口』と題する謡曲がある。 江口の遊里の跡地を訪れた旅僧の前に遊女・江口の君が亡霊となって現れ、かつての西行とのやりとりの話に及び、女の宿に出家の方を泊めるわけにいかなかったことを説明したのち、夜舟での歌舞する様子を再現、そして仮の世での汚れた身であったことを嘆くが、最後には、仏の救いの手が差しのべられて、普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消え去るという。
天養元年(1144)頃、陸奥・出羽旅行。各地の歌枕を訪れ、歌を詠む。
【芭蕉が引用した西行作品】久安五年(1145)頃、高野山に入る。 仁安三年(1168)、中国・四国を旅行。讃岐で崇徳院を慰霊する。善通寺に庵居。 治承元年(1177)、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住。二見浦の山中に庵居。 文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝と会見。 翌年、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞は藤原俊成。伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、藤原定家に判詞を依頼する。同歌合は文治五年に完成し、外宮に奉納される。この頃、河内の弘川寺に草庵を結び、翌建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。 とふ人も 思ひ絶えたる 山里の さびしさなくば 住み憂からまし (嵯峨日記) 山里に こはまた誰を 呼子鳥 ひとり住まむと 思ひしものを (嵯峨日記) 年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山 (野ざらし紀行) 象潟の 桜は波に 埋れて 花の上漕ぐ 海士の釣り舟 (奥の細道) 【西行の歌】 願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ ゆくへなく 月に心の すみすみて 果はいかにか ならんとすらん 心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな 古畑の 岨(そば)のたつ木に ゐる鳩の 友呼ぶこゑのす ごき夕暮 み熊野の 浜木綿おふる うらさびて 人なみなみに 年ぞ重なる 津の国の 難波の春は 夢なれや 蘆の枯葉に 風わたるなり 吉野山 去年のしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ 庵にもる 月の影こそ さびしけれ 山田は引板の 音ばかりして 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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