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<百首の歌の中に 忍恋を 新古今集・恋一> 【歌意】 ・・・・・・・・・・
わたしのいのちをつなぐ緒よ 切れるものなら切れてしまえ このまま生きながらえていれば 耐え忍ばねばならない覚悟が 弱ってしまうかもしれない ・・・・・・・・・・ <激しい口調で、自身に対して「忍ぶ恋」を詠う> 【語句・文法】 * 玉のをよ たえなばたえね;
「玉のを」は身体と魂を結ぶ緒、いのち。
第一句は成分上は独立語で、初句切れ。「よ」は呼びかけの間投助詞。
「たえなばたえね」は絶えるなら絶えよ。
二句切れ。「たえ」は下二段活用動詞「たゆ」の連用形。 「な」完了の助動詞「ぬ」の未然形で、順接の接続助詞「ば」を接して仮定条件。 「たえ」は「ね」に接して「たゆ」の連用形。 「ね」は「ぬ」の命令形で、勝手にしろの意。 * ながらへば;
「ながらへ」は下二段活用動詞「ながらふ」の未然形。
* 忍ぶることの 弱りもぞする;「ば」..活用語の未然形に付くと、接続助詞の順接の仮定条件、〜(する)なら。「ば」は、仮定条件・既定条件の接続助詞だが、文語の「ば」は仮定条件(もし〜ならば)・既定条件(すでに〜なので)の両方に用いられる。仮定条件にのみ用いる現代口語とはこの点大きく異なる。
「忍ぶる」は上二段活用動詞「忍ぶ」の連体形で、人に隠しこらえる。
「たえ・たえ・ながらへ・弱り」は「緒」の縁語。「の」は主語表示。 「弱り」は四段活用動詞「弱る」の連用形。強意の係助詞「も」に、同じく「ぞ」を接して、「もぞ」は「もこそ」と同じで、困る意。 「する」はサ変動詞「す」の連体形で、「ぞ」の結び。 【参考歌】 作者未詳「万葉集」 息の緒に 思へば苦し 玉の緒の 絶えて乱れな 知らば知るとも (『古今和歌六帖』には第四句「絶えて乱るな」として載る) 曾禰好忠『好忠集』 乱れつつ 絶えなば悲し 冬の夜を わがひとりぬる 玉の緒よわみ 【主な派生歌】 いかにせむ 絶えなば絶えね 玉の緒は 長き恨みに 結ぼほれつつ 藤原範宗 ひたすらに 絶えなば絶えね 憂き中の 忘れ形見に 残る面影 花山院師兼 いかのぼり えなば絶えね なかぞらの 父ひきしぼる 春のすさのを 山中智恵子 【作者や背景】 式子内親王 しょくしないしんのう 久安五〜建仁一(1149〜1201) 通称:萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院 式子は「しきし」とも(正しくは「のりこ」であろうという)。 御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。
後白河天皇の皇女。
生涯独身を通した。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。 亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。 高倉天皇は異母兄。 平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。 嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によればこの時二十一歳)。 治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。 元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。 建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。 同三年(1192)、父後白河院が崩御。 この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。 建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。 正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。 藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、 養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。 正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。 他撰の家集『式子内親王集』に三種の百首歌を伝える。 千載集初出。勅撰入集157首。
【定家との関係】
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)俊成の息子藤原定家は養和元年(1181年)以後、折々に内親王のもとへ伺候した。一説によれば内親王のもとで家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが詳細ははっきりしない。 定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実である。 おそらくは定家から九条家歌壇の動向や所謂新儀非拠達磨歌などの情報を得たことなどもあったであろう。 後に中世後期になって、定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説があらわれ、これが能『定家』などを生む契機となった。 一般にこの説は中世歌学特有の伝説の類として否定されているが、文献学的に言えば内親王に関する資料があまりにも少ないがために、これを積極的に肯定することも、或いは否定することもできないというのが実情である(定家が内親王より十三歳年下であるというのが否定説の唯一の根拠)。 また近年法然とのあいだに消息の往来があったことが判明し、彼が密かな思慕の対象であったとする説もあるが、これも定家説同様に決定的な根拠は何一つないといっていい。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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こんにちは。
分かります。
この感覚。
でも、ほっておいてもいずれ命の灯は
いずれ誰もが弱って消えて行きますから
人生厳しくとも楽しまなくちゃと思いましたよ。
2015/8/26(水) 午後 4:08 [ 出すぎる杭は叩かれない ]
> 出すぎる杭は叩かれないさん
まっこと私もそのように思います。
この人
頑張ったみたいに感じます。
2015/8/26(水) 午後 4:29 [ ニキタマの万葉集 ]