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<題しらず 続後撰集・雑中> 【歌意】 ・・・・・・・・・・
ある時には人をいとおしく思い またある時には人を恨めしく思う 意にそわずつまらないと世の中を思うゆえに あれこれと思い悩むわたしであることよ ・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 人もをし 人もうらめし; ある時は人もいとおしい。またある時は人も恨めしい。 「人」を特別な忠臣・逆臣ととる考えもあるが、それに限らず、いとおしくなる人もあるし、恨めしくなる人もあるという、愛憎の心の変わるものとして、かかわりのある人々と考えておく。
「も」は並列を表わす係助詞。
初句切・二句切。「をし」は、いとしい・かわいい。 「をし・うらめし」ともに形容詞終止形で、 * あぢきなく 世を思ふゆゑに;
「あぢきなく」は形容詞「あぢきなし」の連用形、意にそわず、つまらない、おもしろくないの意で、「思う」を修飾。
* 物思ふ身は; 「を」は動作の対象を示す格助詞。 「に」は原因・理由を示す格助詞。
「物思ふ」は四段活用動詞「物思ふ」の連体形、心にかかることがあって思い悩む意。
この一首は、倒置法として考えると歌意が理解しやすい。「身」はこの身、私自身。 「は」は係助詞。 * とうち‐ほう〔タウチハフ〕【倒置法】 「とうちほう」を大辞林でも検索 文などにおいてその成分をなす語や文節を、普通の順序とは逆にする表現法。語勢を強めたり、語調をととのえたりするために用いられる。 「どこに行くのか、君は」「起きろよ、早く」など。 【作者や背景】 世の人への愛憎の交錯ゆえに思い悩みつつ乱世に生きる帝王の嘆き。 鎌倉幕府との抗争が、ようやく激しくなった後鳥羽院の晩年の心境を嘆かれた一首である。 院政をしいていた院には、幕府の横暴に対して、単に憂き世とばかり言っておられない世情が、身にしみて感じとられていたにちがいない。 「あぢきなく世を思ふゆゑに」と、院みずからの口から洩らさざるをえない嘆きの内容は、院としての公的な面と個人的な面との二つが絡み合ってのことであろうから、容易にうかがい知ることはできないとしても、少なくとも歌として「あぢきなく」と表現されたとき、人間的な苦悩としてうけとることができる。 「人もをし 人もうらめし」と、わが心さえとらえかね、ことごとに思うにまかせない悲しみは、帝王の心の中にもある人間の悲しみとしてひびいてくる。 【逸話】 交野八郎という強盗がいました。今津にいると聞いては武士たちが捕らえようと出立していくのですが、院もこれをご覧になりたい、と船を仕立ててしまわれるのですよ。 それだけでも驚天動地の出来事ですが、さらにとんでもないことが待っています。 八郎は何しろ豪胆にして技量も素晴らしいものですから中々武士たちに捕まえることは出来ません。船を飛び交っては逃れているうちに院はなんと、ご自身で櫂を取ってははっしとご命令になりました。それで八郎はたちまち捕らえられた、と言うことです。 その後、捕らえた八郎に院はお訊ねになります。 お前ほど名の聞こえた者がなぜああも易々と捕まったのか、と。八郎の答えがまたふるっています。 「武士の捕り手など何ほどの事もございません。が、行幸なされまして御自ら櫂を取ってのご命令。それだけでも畏れ多いことでございますのに、船の櫂などというあのように重たい物をまるで扇でもお持ちになるかに軽々と片手に取られましては、とてもとても。これで我が運尽きたり、とへなへな力も抜けましてございまする」 こう聞けば院も中々ご機嫌悪しくはならなかったようで、八郎を許し以後、召し使ったと言うことです。(水野琥珀著一節) 【配流されても】 われこそは新島守よ隠岐の海のあらき波かぜ心してふけ なびかずは又やは神に手向くべき思へば悲し和歌の浦浪 【後鳥羽院 ごとばのいん】 治承四〜延応一(1180〜1239) 諱:尊成(たかひら) 治承四年七月十四日(一説に十五日)、源平争乱のさなか、高倉天皇の第四皇子として生まれる。 母は藤原信隆女、七条院殖子。 子に昇子内親王・為仁親王(土御門天皇)・道助法親王・守成親王(順徳天皇)・覚仁親王・雅成親王・礼子内親王・道覚法親王・尊快法親王。 寿永二年(1183)、平氏は安徳天皇を奉じて西国へ下り、玉座が空白となると、祖父後白河院の院宣により践祚。 翌元暦元年(1184)七月二十八日、五歳にして即位(第八十二代後鳥羽天皇)。 翌文治元年三月、安徳天皇は西海に入水し、平氏は滅亡。 文治二年(1186)、九条兼実を摂政太政大臣とする。 建久元年(1190)、元服。兼実の息女任子が入内し、中宮となる(のち宜秋門院を号す)。 同三年三月、後白河院は崩御。 七月、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。 建久九年(十九歳)一月、為仁親王に譲位し、以後は院政を布く。 同年八月、最初の熊野御幸。 翌正治元年(1199)、源頼朝が死去すると、鎌倉の実権は北条氏に移り、幕府との関係は次第に軋轢を増してゆく。またこの頃から和歌に執心し、たびたび歌会や歌合を催す。 正治二年(1200)七月、初度百首和歌を召す(作者は院のほか式子内親王・良経・俊成・慈円・寂蓮・定家・家隆ら)。 同年八月以降には第二度百首和歌を召す(作者は院のほか雅経・具親・家長・長明・宮内卿ら)。 建仁元年(1201)七月、院御所に和歌所を再興。またこれ以前に「千五百番歌合」の百首歌を召し、詠進が始まる。 同年十一月、藤原定家・同有家・源通具・藤原家隆・同雅経・寂蓮を選者とし、『新古今和歌集』撰進を命ずる。 同歌集の編纂には自ら深く関与し、 四年後の元久二年(1205)に一応の完成をみたのちも、「切継」と呼ばれる改訂作業を続けた。 同二年十二月、良経を摂政とする。 元久二年(1205)、白河に最勝四天王院を造営する。 承久元年(1219)、三代将軍源実朝が暗殺され、幕府との対立は荘園をめぐる紛争などを契機として尖鋭化し、承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、七月に出家して隠岐に配流された。以後、崩御までの十九年間を配所に過ごす。この間、隠岐本新古今集を選定し、「詠五百首和歌」「遠島御百首」「時代不同歌合」などを残した。 また嘉禄二年(1226)には自歌合を編み、家隆に判を請う。 嘉禎二年(1236)、遠島御歌合を催し、在京の歌人の歌を召して自ら判詞を書く。 延応元年(1239)二月二十二日、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて崩御。六十歳。刈田山中で火葬に付された。御骨は藤原能茂が京都に持ち帰り、大原西林院に安置した。 同年五月顕徳院の号が奉られたが、仁治三年(1242)七月、後鳥羽院に改められた。 歌論書に「後鳥羽院御口伝」がある。新古今集初出。(千人万首) 歌人としては、和歌所を再興、『新古今和歌集』撰進の勅を下し、また自らも実質的に関与した。 西行は……生得の歌人とおぼゆ。これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり。--『後鳥羽院御口伝』 寂蓮は、なほざりならず歌詠みしものなり。 --『後鳥羽院御口伝』 定家はさうなきものなり。--『後鳥羽院御口伝』 俊頼が後には、釈阿・西行なり。--『後鳥羽院御口伝』 俊頼は源俊頼、釈阿は藤原俊成。 釈阿・西行などが最上の秀歌は、詞も優にやさしきうへ、心ことにふかくいはれもある故に、人の口にある歌勝計(しょうけい)すべからず。--『後鳥羽院御口伝』 * 承久の乱 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。承久の変、承久合戦ともいう。 武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。 治承・寿永の乱の過程で鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していた。しかし西国への支配は充分ではなかったため依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にあった。 後鳥羽上皇は多芸多才で『新古今和歌集』を自ら撰するなど学芸に優れるだけでなく、武芸にも通じ狩猟を好む異色の天皇であり、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し軍事力の強化を行っていた。後鳥羽上皇の財源は長講堂領、八条女院領などの諸国に置かれた膨大な荘園群にあった。ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり、荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と紛争を起こすようになった。 承久元年(1219年)1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。 『承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。これに対して、近年では後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の位を進め優遇していたとの見方が強い。実朝の急死により、鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として北条氏の外戚に当たる伊賀光季と、源通親の猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。 幕府は新しい鎌倉殿として雅成親王を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。 これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、倉橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残る結果となった。 ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝の生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)をしかるべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である。 この説の弱点として実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことが説明付かなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名をして将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図る更なる保障(河内はこれを幕府機構及び北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。 逆にこの時に皇族将軍のみならず、摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。 河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかった、と説く。 また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、更に後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。 だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫・名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。 同年7月、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。また頼茂が内裏の仁寿殿に籠って西面武士を迎え撃ったために仁寿殿だけでなく、宜陽殿・校書殿など多くの内裏の施設が焼失している。 朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。 承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱、近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要されやむなく京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。 後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的だった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。 京方は院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「(実朝の後継の)日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。 上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで、動揺は鎮まった。 『承久記』には、政子が館の庭先にまで溢れるばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで彼らの心が動かされ、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功した記述がある。 一方『吾妻鏡』では、御家人の前に進み出た政子の傍らで安達景盛が政子の声明文を代読したと記されている。- Wikipedia 【出典・引用・転載元】 <三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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こんばんわ。
ちょっとだけお邪魔します。
「人もをし」の「をし」の語源を思いつきました。
「おし」は「良いしるし」で、
「虹」のことかなと。
すぐ消えてしまうので、
「惜しい」となった。
どっとはれ。(宮沢賢治語で失礼しましたの意味です)
2015/9/6(日) 午後 10:05 [ やまとねこ ]
この国の首相は、「意に沿わない」「思うにまかせない」という感覚はお持ちでしょうが、おそらく「つまらない世の中」「憂き世」との感覚もなく、「悲しい」とも思われていない印象を受けます。感じられるのは「苛立ち」と「焦り」のようなものばかり。
そもそも、後鳥羽院は揺れ動こ自分自身の心の有り様を見つめることで、自己嫌悪を抱いていると思いますが、首相の言動からは自戒や自省という印象が受けられません。国民の方が「あぢきなく世を思う」ようになっているのではないでしょうか。
2015/9/7(月) 午前 10:20 [ Say! ]
> やまとねこさん
例の如く「納得」です。
>ちょっとだけお邪魔します。
などと仰らず、ずーっと長居して欲しいと存じます。
2015/9/7(月) 午前 11:30 [ ニキタマの万葉集 ]
> Say!さん
こんにちは。
先ずはSay!さんのご解釈にびっくりし、次に深い感銘を受けました。
私は何の為に和歌などに夢中になっているのか?。
忘れていました。
時空を超越した日本人の心の深淵を知ることを。
見ればこれは、
現状を憂い嘆くそのものの歌ではありませんか!。
後鳥羽院の気骨が好きです。
日本民族は、まだまだこの世を「あぢきなく」とは思いますまい、思ってはいけないと存じます。
日本人ならばです。
ありがとうございました。
2015/9/7(月) 午後 0:06 [ ニキタマの万葉集 ]