ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

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<Process1>[転載元教本]
《親魄(にきたま)に逢う蔵書の<万葉集全索引>第一巻〜第二十巻》に記載。
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/30740216.html
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5 892;作者:山上憶良

[題詞]貧窮問答歌一首[并短歌]


貧窮問答歌

風雜 雨布流欲乃
雨雜 雪布流欲波
為部母奈久
寒之安礼婆

堅塩乎 取都豆之呂比
糟湯酒 宇知須々呂比
弖之匝夫可比
鼻批之批之比

志可登阿良農 比宜 可伎撫而
安礼乎於伎弖 人者 安良自等
富己呂倍騰
寒之安礼婆

麻被 引可賀布利
布可多衣 安里能許等其等
伎曽倍騰毛 寒夜須良乎
和礼欲利母 貧人乃
父母波 飢寒良牟
妻子等波 乞々泣良牟
此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流

・・・・(答歌)・・・・

天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流
日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴

人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓
比等々波 安流乎
比等奈美尓 安礼母 作乎
綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等
和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸

布勢伊保能
麻宜伊保乃

内尓 直土尓 藁解敷而
父母波 枕乃可多尓
妻子等母波 足乃方尓
圍居而 憂吟

可麻度柔播 火氣布伎多弖受
許之伎尓波 久毛能須可伎弖

飯炊
事毛和須礼提 奴延鳥乃能
杼与比居尓
伊等乃伎提 短物乎端伎流等
云之如

楚取
五十戸良我許恵波 寝屋度麻弖
来立呼比奴
可久婆可里 須部奈伎物能可
世間乃道



<Process2>自分解釈
<Process3>分解。(掛・縁・伏・語句・万葉仮名等解釈歴、ほか。)

↓原文)
・・・・(問歌)・・・・

風雜ー風交りーかぜまじりー風に交じって
雨布流欲乃ー雨降る夜のーあめふるよのー雨が降る夜の
雨雜ー雨交りーあめまじりー雨に交じって
雪布流欲波ー雪降る夜はーゆきふるよはー雪が降る夜は
為部母奈久ーすべもなくーどうしようもなく 
寒之安礼婆ー寒くしあればーさむくしあればー寒いので
堅塩乎ー堅塩をーかたしほをー岩塩を
取都豆之呂比ーとりつづしろひー取り少しづつ齧り 
糟湯酒ー糟湯酒ーかすゆざけー糟湯酒
宇知須々呂比弖ーうちすすろひてーすすり
之叵夫可比ーしはぶかひー咳をし
鼻毘之毘之之尓ー鼻びしびしにーはなびしびしにー鼻をすすり 
志可登阿良農ーしかとあらぬーちょぼな
比宜可伎撫而ーひげ掻き撫でてーひげかきなでてー鬚を撫でて 
安礼乎於伎弖ー我れをおきてーあれをおきてー我をおいて
人者安良自等ー人はあらじとーひとはあらじとー人物はないと
富己呂倍騰ー誇ろへどーほころへどー誇っているが
寒之安礼婆ー寒くしあればーさむくしあればー寒いので
麻被ー麻衾ーあさぶすまー麻布団
引可賀布利ー引き被りーひきかがふりー引っかぶり 
布可多衣ー布肩衣ーぬのかたきぬー布の肩衣
安里能許等其等ーありのことごとーありったけ
伎曽倍騰毛ー着襲へどもーきそへどもー着込んでも 
寒夜須良乎ー寒き夜すらをーさむきよすらをー寒い夜を
和礼欲利母ー我れよりもーわれよりもー私よりも
貧人乃ー貧しき人のーまづしきひとのー貧しい人の
父母波ー父母はーちちはははー父母は
飢寒良牟ー飢ゑ凍ゆらむーうゑこゆらむー飢えて凍えているだろう
妻子等波ー妻子どもはーめこどもはー妻子は
乞々泣良牟ー乞ふ乞ふ泣くらむーこふこふなくらむー物を欲しがって泣いているだろう
此時者ーこの時はーこのときはーこういう時
伊可尓之都々可ーいかにしつつかーどうやって
汝代者和多流ー汝が世は渡るーながよはわたるー世渡りしているのだ

・・・・(答歌)・・・・

天地者ー天地はーあめつちはー天地は
比呂之等伊倍杼ー広しといへどーひろしといへどー広いと言われるが 
安我多米波ー我がためはーあがためはー私には
狭也奈里奴流ー狭くやなりぬるーさくやなりぬるー狭くなったのであろうか、狭いものだ。
日月波ー日月はーひつきはー日月は
安可之等伊倍騰ー明しといへどーあかしといへどー明るいと言うが 
安我多米波ー我がためはーあがためはー私のためには
照哉多麻波奴ー照りやたまはぬーてりやたまはぬー照り給わぬ
人皆可ー人皆かーひとみなかー他の人は皆こうなのか 
吾耳也之可流ー我のみやしかるーあのみやしかるー私だけこうなのか
和久良婆尓ー[わくらばに]たまたま、まれに。偶然に。偶然の縁で。
比等々波安流乎ー人とはあるをーひととはあるをー人として生れ 
比等奈美尓ー人並にーひとなみにー人並みに
安礼母作乎ー我れも作るをーあれもつくるをー私もはたらき耕作もしているのに
綿毛奈伎ー綿もなきーわたもなきー綿も入っていない
布可多衣乃ー布肩衣のーぬのかたぎぬのー布肩衣の
美留乃其等ー海松のごとーみるのごとー海草のように
和々氣佐我礼流ーわわけさがれるー裂けて下がる
可々布能尾ーかかふのみーボロばかりを
肩尓打懸ー肩にうち掛けーかたにうちかけー肩に掛け
布勢伊保能ー伏廬のーふせいほのー粗末な庵の
麻宜伊保乃内尓ー曲廬の内にーまげいほのうちにー傾いた小屋の内に
直土尓ー直土にーひたつちにー土間に
藁解敷而ー藁解き敷きてーわらときしきてー藁束を解き敷き
父母波ー父母はーちちはははー父母は
枕乃可多尓ー枕の方にーまくらのかたにー枕の方に
妻子等母波ー妻子どもはーめこどもはー妻子は
足乃方尓ー足の方にーあとのかたにー足の方に
圍居而ー囲み居てーかくみゐてー囲うようにして
憂吟ー憂へさまよひーうれへさまよひー憂いのため息をつく
可麻度柔播ーかまどにはー竃には
火氣布伎多弖受ー火気吹き立てずーほけふきたてずー火の気がなく 
許之伎尓波ー甑にはーこしきにはー甑には
久毛能須可伎弖ー蜘蛛の巣かきてーくものすかきてー蜘蛛の巣がかかり
飯炊ー飯炊くーいひかしくー飯を炊く 
事毛和須礼提ーことも忘れてーこともわすれてーことも忘れ
奴延鳥乃ーぬえ鳥のーぬえどりのーぬえ鳥のような
能杼与比居尓ーのどよひ居るにーのどよひをるにー呻き声をたてている 
伊等乃伎提ーいとのきてーそれなのに特別に
短物乎ー短き物をーみじかきものをー短い物の 
端伎流等ー端切るとーはしきるとーその端を切る 
云之如ーいへるがごとくーという諺のように
楚取ーしもと取るーしもととるー鞭を持った
五十戸良我許恵波ー里長が声はーさとをさがこゑはー里長(さとおさ)の声が
寝屋度麻弖ー寝屋処までーねやどまでー寝所まで
来立呼比奴ー来立ち呼ばひぬーきたちよばひぬー来ては呼び立てる
可久<婆>可里ーかくばかりーこんなにも
須部奈伎物能可ーすべなきものかーどうしようもないものなのか
世間乃道ー世間の道ーよのなかのみちー世の中は

[左注](山上憶良頓首謹上)
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<Process4>関連解説集。

[転載元《8811》万葉カメラ散歩]

『憶良の家柄は低く、苦学を重ねた。四十歳を過ぎるまで無位、筑前国守になったときは、既に七十歳近かった。それだけに、貧乏の苦しさは彼自身よく知っていた。また国守として、つぶさに見た農民等の悲惨な生活も、目に焼き付いていた。
五年間の国守務めを終えて都に帰って見ると、此処も貧しい生活があった。 貧窮問答歌は、一体誰に「謹上」したのか。
当時、勢力を奮っていた藤原房前にでは、と云う説がある。
 平城遷都(710)から約二十年、隋や唐に真似た律令体制の行き詰まりは深刻化していた。皇族や貴族を中心とした官僚国家造りの歪みなのか、多くの庶民は重税に喘いでた。その上鞭を振り回して「短いものの端を更に切って取る」ような悪どい役人も多かったらしい。
 「世の中は、こんなにも辛く、恥ずかしくて身も痩せる程に苦しいところとは思うけれど、かと云って空へ飛び立つことも出来ない。鳥ではないので・・・」
 幾ら苦しくともじっと現実を見つめながら、懸命になって生きて行く、勉強もした当時の新知識を、貪るように吸収し、第七次遣唐使の一行に加わって唐へも渡った。仏教、儒教、道教、老荘思想、何でも手当たり次第に学んた。例えば貧窮振りの表現には、『後漢書』や陶淵明の詩など大陸文学の影響が広く見え、問答形式も、その影響もあると云えよう。
 輸入文化に敏感であったインテリの悩みと混乱、憶良は虐げられた民衆の姿に、自分の内面的な苦しみの似姿を見たのかも知れない。共に「時代の歪み」が生んだもので、執拗なまでに目を反らさず、貧困、病気、老衰、死などを詠う、寒々とした台所の蜘蛛の巣も鋭く見逃さなかった。
 憶良の歌からは、柿本人麿とは異なった意味で作者の肉声が聞こえるような気がし、低音で何かブツブツ言っているようだ。遂に詠嘆に留まったとしても、飽くまで目に見た姿を描写する声 − それが返って、今日にも通じる社会の矛盾や政治悪を、一層鮮やかに抉り出す結果になっている。
 ところが憶良の歌は、いわゆる「美の世界」からは遠いとして、平安以後殆ど問題にされなくなり、彼の歌の中に息衝いている赤裸々な人間の願いや悲しみ苦しみが再評価され出したのは、近代になってからである。』
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[転載元《竹取翁と万葉集のお勉強》]

『対句の美 山上憶良を楽しむ』
http://manyo.hix05.com/okura/okura.hinkyu.html

『貪窮問答の謌

「貧窮」と「貪窮」では「貧」と「貪」の用字が違います。
仏法では「貪」の「貪窮」ですし、社会学派的な立場では「貧」の「貧窮」です。現在は、多数決で「貪」は「貧」の誤字として「貧窮問答」の「ヒンキュウモンドウ」や「ビングモンドウ」と読むようです。仏法では「貪」の貪窮ですと「貪窮問答」は「ドングウモンドウ」と読むようになります。
「貧窮問答」の「ビングモンドウ」の世界観は「貧乏」や「困窮」の世界が中心になります。一方、「貪窮問答」の「ドングウモンドウ」の世界観は四苦八苦の一つである物欲である「貪り窮める」姿の「求不得苦(ぐふとくく)」の苦悩を示すことになります。
 中国仏教では困窮の状態の貧窮を「ビングウ」と読みますから、もし、山上憶良が両方の意味で「貪窮」の漢字を使ったのですと、仏教に対する非常な皮肉になります。「貧窮(ビングウ)」に喘ぐ人が、その困窮からの脱出を切に願うことは仏法の八大辛苦の一つである「貪窮(ドングウ)」と云う煩悩に落ちている状態を示すことになります。つまり、仏教には「人のさとり」の道はあっても「民への救い」がないことになります。歌の世界の解釈は非常に難解です。
 参考に、この貪窮問答謌は漢詩のような表記方法を取ると、華麗な対句形式が採られていることで有名な長歌です。その華麗な対句形式の表記方法を含めて、歌の持つ意味を鑑賞していただければ面白いと思います。
  対句の美 山上憶良を楽しむ』
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<Process5>派生歌・類似歌・反歌、[并短歌]その他

5 893;作者:山上憶良

[題詞]

世間乎  宇之等夜佐之等  於母倍杼母  飛立可祢都  鳥尓之安良祢婆

世間を 憂しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば 

よのなかを うしとやさしと おもへども とびたちかねつ とりにしあらねば

この世の中
生きていくのはつらいはずかしい
そうは思うが
飛び立って逃げることもできない
鳥ではないから
* 「憂し」つらい、憂鬱だ。
* 「恥(やさ)し」痩せるの形容詞化。身がやせ細るようだ。恥ずかしい。耐え難い。
* 「かね」
接尾下二「かぬ」の連用形。(他の動詞の連用形に付いて)〜ができない。
* 「つ」動詞の連用形に付く。作為的・人為的な意味の動詞に用いられて動作が確かに成り立った(完了した)との判断をあらわす。
* 「鳥・に・し・あらね・ば(原因・理由)」鳥ではないから。
* 「に」は、接続助詞。ないのに。ないものを。
* 「し」は、副助詞。種々の語を承け、それを強く指示して強調する。
* 「ねば」 打消の助動詞「ず」の已然形「ね」に、接続助詞「ば」が付いたもの。仮想・将来の条件節をつくる「ずは」に対し、確定した事実を述べる条件節をつくる。「〜ないので」。
上代においては順接・逆接両方に用いられたが、平安時代以後は順接のみとなる。(1)順接「〜しないので」。(2)逆接「〜しないのに」。
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<Process6>諸背景

[転載元«「貧窮問答歌」の成立について»]
http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body440.html

<抜粋転載>
『まずひとつには、「貧」の人物の言葉の中に「父母」と「妻子ども」は「飢ゑ凍ゆらむ」「乞ふ乞ふ泣くらむ」と「推量」で記されていることです。これは目前の事実ではないことを示すものです。これが自分の「父母」「妻子ども」の意であるとすると、彼らとは同居していない(と云うより遠く離れている)ことが知られます。つまり、「貧」の方の人物は「家」や「家族」から離れて、「単身」でどこかにいることが推定できます。彼はなぜそのような場所にいるのでしょうか。この点についてはやはり疑問に考える向きもあるようで、この「父母」「妻子ども」を「窮」の家族のことと解釈する考え方もあるようです。しかし、ここで「窮」の家族のことに話が及ぶのは「唐突」ではないでしょうか。「貧」が「窮」に尋ねているのは「あなたはどのようにして世を渡るか」ということに尽きるのであって、「父母」と「妻子」は別の話と思われます。やはり、ここでは「貧」自らの「父母」「妻子ども」について思いを馳せていると考えるべきでしょう。
 さらにこの「貧」の人物は「『我れをおきて 人はあらじ』と誇」っていますが、彼は何を「根拠」にそのようなプライドを持っているのでしょうか。これを単なる「貧者の心意気」などという理解が主流であるようですが、彼を一介の農民とする考え方では「単なる強がり」とするしかないのはもちろんですが、彼を「下級役人」とする考え方においてもそれは五十歩百歩であり、「誇り」の根源が不明なままであると思われます。しかし、このような言葉を発するにはそれなりの根拠があったと見るのが相当ではないでしょうか。
 また、「窮」の人物の言葉の中には「里長」というものがありますが、これは原文(万葉仮名)では「五十戸良」と書かれています。

「…短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻俤 来立呼比奴…」

 つまり、「五十戸」で「サト」と読ませているわけですが、「木簡」などから「五十戸制」が「里制」に変えられたのは、遅くても「六八九年」以前のことであることが判明しています。(注一)
 しかも「里長」というのは「国家」から「認定」あるいは「任命」された職掌ですから、そこに使用されている「五十戸」という表記についても「国家」の制度の一部が反映していると考えるべきこととなります。そう考えれば、この「歌」の造られた実年代として「六八九年」以前である事が強く推察されますが、「山上憶良」は「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していたのが「天平三年」(七三一年)から「天平五年」(七三三年)頃であり、この歌もその頃詠まれたものとされています。ではなぜ「五十戸」という表記がこの歌の中に現れるのでしょうか。(地名ならば遺存すると言うこともあり得ますが、ここではいわば「役職名」として登場するのですから、不審であると言えるものです)
 さらにまた「貧」と「窮」はなぜこんな極限的な「貧」と「窮」の状態に置かれることとなったのでしょうか。
 これが「普遍的」な「律令制下」の状態であったという考え方もあるでしょうし、それはある程度事実であったかも知れませんが、特に「窮」の方の状態は「究極的」なものであり、このような状態が当時「普遍的」であったとは少々考えにくいと思われます。ここで「窮」の実情として書かれていることは、何か「政治的」(戦争などの影響)あるいは「自然災害」(日照り、台風、地震など)などの影響を受けたためと考えるのが正しいと思われますが、それに該当するものとして何が考えられるでしょうか。
 しかも、そのような状態にも関わらず「里長」が「しもと」(「笞」)を持ってやって来て、強制的に何かを取り立てているように見えますが、それについてもなにか「政治的」な政策の不毛が感じられるものであり、当時の「政権」の政治的意思の所在についても疑問を感ぜざるを得ません。
 
 これらについて考えたとき、一つの可能性が浮かびます。それはひとつにはこの歌が、「五十戸制」時代の歌であるということです。
 もし、この歌が「五十戸制」が「里制」に変えられる「六八九年以前」に詠まれたものであり、またこのような「貧」と「窮」が発生することとなった要因として考えるべきこととして「自然災害」があるとすると、それに近い年次に起きた「事件」「事故」を考えるとき考慮から外せないのは「六八四年」に発生したとされる「西日本大震災」ともいうべき「大地震」と、それに伴う「津波」被害です。(略)』
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