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1-9 雑歌,作者:額田王,紀州,和歌山,難訓,厳橿,斎橿,植物 [題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌 [原文]莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 [仮名],*****,*******,わがせこが,いたたせりけむ,いつかしがもと [左注]
(上二句難読)
…わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと …愛しいあなたが お立ちになっていたであろう 神聖な橿の木の下 ・・・・・・ 鎮まりし雷神よ起きるな わが君のお立ちになった 神聖な樫の木の下に (土橋利彦説から訳した場合) ・・・・・・ 鎮まっていた浦の浪がいま騒いでいる わが君がお立ちになった神聖な樫の木の下で (澤潟久孝説から訳した場合) ・・・・・・ <古事記下巻、雄略天皇の歌に 「みもろの いつかしが本 樫が下 ゆゆしきかも かしはら童女」がある。神聖な樫の下という歌言葉はすでにあった> 鎮まりなさい周りの者よ とつ国の高官が拝謁する わが君がお立ちになられています 神聖な樫の木の下に (松本清張説から訳した場合) ・・・・・・ まとまりの 星つめ行けど 我が背子が 射立たせかねて 五つ星かも (鈴木健次説の場合)まとまりの星は北斗七星。五つ星はカシオペア。 行幸の進み具合が遅すぎて、弓型の五つ星が射掛けられないほど北斗七星は山陰に隠れてしまう。 <兄中大兄と弟大海人の運命を暗示か> ・・・・・・ この歌の「吾が背子」とは斉明紀4年11月条にみえる紀国藤白坂で絞首された有馬皇子を指し、「厳橿が本」とは皇子にその木の下に穴を掘らせ、そこで絞首した後下に落として埋葬した穴のある「厳橿の根本」であったと考えられます。 伊藤博筑波大学名誉教授が「省却」と題する随想の中で[1-9]歌の「我が背子」は通説の大海人皇子ではなく有馬皇子と断定しておられる。 ・・・・・・ 万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。 万葉集「奈弖之故(なでしこ)」で説明したように、万葉集の最初期に位置する歌は、その編者である丹比真人国人の手によって補足されてます。すると、私の推測では、原型を留める歌と伝承歌からの丹比国人の手による修正歌との二種類に分かれることになります。 では、どのような歌が原型を留める歌でしょうか。一つには、借名字表記の難訓歌があると思います。丹比国人は、万葉集「奈弖之故」の編纂で短歌形式の整ったものについては、そのまま修正せずに載せたと思ってます。それで、統一された万葉仮名に慣れた私達にとって難訓なのでしょう。事例を挙げると次の歌々です。 集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 試読 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子の偉(い)建(た)てせけむ厳橿(いつかし)が本(もと) 意訳 神武天皇を苦しめた丹敷戸畔(にしきとべ)も討伐されましたし、牟漏(むろ)の荒坂の浦に立っていた荒波も収まり穏やかになってきたようです。私の愛しい背の君が御造りになった橿原宮の本になった行宮よ ・・・・・・ そしてもう一人、額田女王が「わが背子」と呼ぶ方がいる。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku245.htm 心のなごむことであった
白雉4年(653年)中大兄皇子は孝徳天皇の反対を押し切って、できたばかりの難波宮を捨てて大和へ遷ってしまった。このとき、孝徳天皇の皇后である間人皇女も孝徳天皇を置き去りにして中大兄皇子に従った。。 何回も愛をかわすのが終わり わが君は 触れてはならない女性(間人皇女)のところに 帰っていったよ
これほど間人皇女と中大兄皇子は親密だったので、当時は、間人皇女と中大兄皇子の仲は知らないものはいなかったのであろう。タブーとされた同母妹と関係を持った中大兄皇子は、23年もの長い間即位しなかった。皇太子のまま政務を執っていた彼が、即位して天智天皇となったのは、間人皇后が亡くなってから3年後のことである。<抜粋転載>
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