ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

119;雑歌,作者:井戸王,枕詞

[題詞]((額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌)反歌)
* 井戸王は神託を述べる役割の人物か。

綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢

綜麻形の 林のさきの さ野榛の 衣に付くなす 目につく吾が背 

へそかたの はやしのさきの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ

[左注]右一首歌今案不似和歌 但舊本載于此次 故以猶載焉

・・・・・・・・・
へそかた(三輪山)の 
《蛇姿の大物神が、へそ(糸巻き)を残した神話の山》
林の先端の野榛が衣によく付くように
よく目につく私の愛しい人よ
・・・・・・・・・

* 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略を恐れた。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築いた。
* 「へそかたの」三輪神話上の糸巻き「綜麻、へそ(糸巻き)」。
* 「吾が背」私の愛しい人(天智天皇=大物神)
・・・・・・・・

【名歌鑑賞15:三輪山惜別歌】森 明著
<万葉集巻一・雑歌:17・18・19歌>
http://f-kowbow.com/ron/meika15/meika15.htm
3 337 雑歌,作者:山上憶良,罷宴,太宰府,福岡

[題詞]山上憶良臣罷宴歌一首

憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽

憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 

おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむぞ

・・・・・・・・・
憶良めは今失礼します 
子供が泣いているのです 
その母も私を待っているのです
・・・・・・・・・

<以下[暗号 山上億良]より転載。>
この歌では、【其彼母毛】の読み方が、難解とされる。これまでに行われている読み方には、ほかに、「その子の母も」「それその母も」「そもその母も」「そよその母も」「そを負ふ母も」などもある。
むろん、素直に読めぱ、【其彼母毛】は【そのかの母も】となる。だが、学者間には、「かの」は例から見て平安時代の言葉であるという共通の認識がある。それゆえ、学者は、【憶良】という実名入りのこの著名な歌に「かの」が使われていると考えたくないのである。だが、学者を悩ます【其彼母毛】は、平安時代になって『古事記』および『万葉集』に手を加えた証として作為した一句である。なぜなら、『古事記』で「モ」の発音を区別するために使っている二字「母・毛」と平安語「彼(かの)」が、「憶良」という実名入りの歌で同時に使われているのは偶然ではあり得ないからである。
『古事記』の撰者であることを「モ」の使い分けで示しているためか、憶良の歌の中には「も」の使用が目立つものがある。たとえば、巻五にある「子らを思へる歌」の反歌では、次のように「も(母)」が四回も使われている。

銀も 金も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及かめやも(巻五、八〇三)
銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

ここで「銀母金母玉母」と三回使われている「母」と、【其彼母毛】の「毛」は、同じ種類の助詞である。そして、『古事記』の用例によれば、この「毛」は「母」の方が正しい。しかし、「母も」の「も」に「母」を使えば「母母」となり、区別のない文字を区別して読まなければならない。このようなことになるのは、『万葉集』では歌を表記する際、一方では漢字の意昧を無視して音を表す仮名として用いながら、他方では漢字を意味にもとづいて和語として訓読みするという不自然なことをしているからである。



<転載> ブログ《neige9》一日一首] 「ゆきのはてみし」
http://blogs.yahoo.co.jp/sirius0426jp/9232500.html?vitality
3 336;雑歌,作者:沙弥満誓,笠麻呂,太宰府

[題詞]沙弥満誓詠綿歌一首 
沙彌満誓(まんぜい)、綿を詠む歌一首
[造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也]

白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者<伎>袮杼 暖所見

しらぬひ 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ

[しらぬひ] つくしのわたは みにつけて いまだはきねど あたたけくみゆ

・・・・・・・・・
この[しらぬひの]筑紫の綿は
身に付けてまだ着たことはないが
暖かそうに見えることだ
・・・・・・・・・

* 「筑紫の綿」に、筑紫の女を寓意したと見る説がある。
* 「しらぬひ」は「白日」が国名で、筑紫の別名という説がある。
  「自奴日」・・「不知火」当て字は固定するまでに長い時代を遍歴する。
* 枕詞 「しらぬひ」は一説に「領(し)らぬ霊(ひ)」。
筑紫(九州)はかつて大和朝廷の支配が及ばぬ土地だったからか。(千人万首)
・・・・・・・・・・・・・

沙弥満誓 さみのまんぜい 生没年未詳
笠氏の出身。父母等は未詳。俗名は麻呂。

大宝四年(704)正月、正六位下より従五位下に越階昇叙される。
慶雲三年(706)七月、美濃守に任ぜられると有能な国司として活躍し、
和銅二年(709)には業績を賞され、同四年に正五位上、同六年に従四位下と急速に昇進。同七年閏二月には木曽路を開通させた功により封戸・功田を賜わる。
霊亀二年(716)六月、美濃守に尾張守を兼任する。
養老元年(717)十二月、元正天皇が美濃国に行幸した際には従四位上に昇叙された。

養老三年(719)七月、尾張・参河・信濃の三国を管する按察使を兼ねる。同四年十月、右大弁として中央に復帰するが、翌年五月、元明太上天皇の病を理由に出家入道を請い、勅許された。
以後、満誓と号す。
養老七年(723)二月、造筑紫観世音寺別当となり、大宰府に下向。翌年大伴旅人が大宰帥として府に赴任すると、いわゆる筑紫歌壇の一員となり、万葉集に七首の短歌を残した。

全1ページ

[1]


.
ニキタマの万葉集
ニキタマの万葉集
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事