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<詞花集・巻七・恋上> この一首は、「古今六帖」には「読人しらず」とあり、作者については疑問視されている。 【歌意】 ・・・・・・・・・・
宮中の御門を守る衛士たちが 警備のかがり火を夜な夜な焚く あのかがり火のように 夜は燃えさかり 昼は消える あの人への恋に焦がれる私の思いよ ・・・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * みかきもり 衛士のたく火の; 序詞。「思いの火」に通わせ、喪心と煩悩の恋の情念を象徴。
「夜はもえ 昼は消えつつ 」の比喩の序詞。
* 夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思え;「みかきもり」は宮中の諸門を警護する人。衛士と同じ。 「の」はたとえの格助詞(表現上)、文法上は主格表示。
「もえ」は下二段活用動詞「もゆ」の連用形。情熱が激しく起こり、悶え苦しむ意。
第三句と第四句は対句表現。「は」は係助詞。 「消え」下二段活用動詞「消ゆ」の連用形、心が消えるように悲しむ、喪心も意。 「つつ」は反復を示す接続助詞。
「を」は動作の対象を示す格助詞。
ものを思う。「こそ」は強意の係助詞で、結びは動詞「思う」の已然形「思へ」。 【作者や背景】 大中臣能宣朝臣(921〜991)神祇大輔頼基の子として父を継ぐ、和歌所寄人として『後撰集』を撰上。 勅撰集入集歌六十六首、三十六歌仙の一人。 平安時代中期の歌人。子に大中臣輔親、孫に伊勢大輔がいる。 大中臣氏は神祇官の家柄で、正四位下神祇大副(じんぎたいふ)に至り、祭主となった。 天暦5年(951年)梨壺の五人の一人に選ばれて和歌所寄人となり、『万葉集』の訓読と、『後撰和歌集』の撰集にあたった。 冷泉天皇・円融天皇の大嘗会和歌を詠進したほか、円融天皇・花山天皇に家集を召されている。 この歌; みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思え 王朝の宮中の夜は、暗くなるに連れ、そこかしこで焚かれる篝火からはじまる。楽しいことも心憂きことも、秘めやかな嬉しさも、妖しい呪いも、憎しみ怨みも、ともにこめて王朝の夜はくりひろげられる。 そして夜っぴいて、警護のために焚かれる「衛士」の火は、人々の胸の思いを象徴するかのように、ぱちぱちと燃えて夜空を焦がすのである。 宮中に長く馴染んでいる人にも、はじめて宮中に入った人にも、「衛士の焚く火」は印象的だったにちがいない。 文学にもいろいろ扱われ、清少納言も、はじめて宮仕えした日の夜、それをみたのであろう。 「衛士の焚く火」の、夜警の詰め所のようなところを「火炬屋」(ひたきや)という。清少納言ははじめての夜の、あくる日も中宮に召しだされ、期待と不安、嬉しさに夢見心地で後宮の廊下をいそぐ、それは雪の日であった。 雪が「火炬屋の上に降り積みたるも、めずらしゅうをかし」と彼女は『枕草子』に書いている。 中宮定子は、明朗でユーモア好きの聡明な方だったので、清少納言の飾り気のない活発な精神を一目で見抜かれいっぺんに好きになられた。 こうして二人はめでたい友情を互いに抱きあったのである。 この「衛士」は、みかきもり(御垣守)というように皇宮を警護するガードマンであるが、応募するわけではない。 全国の軍団の兵士から優秀な者が選抜され、京へあつめられ、衛門府の左右の衛士府に配属されるのである。 『官職要解』によると、三年間宿衛をを命じられたとある。 三年交替で、公事の雑役、宮殿の清掃などという仕事もあったが、いちばん重要な任務は、もちろん皇宮警護である。 衛士は職務上、内裏の庭にも出入りするので、あるいはふしぎなものを見聞きし、また自身もその主人公になったかもしれない。 『更級日記』には衛士にまつわる有名な伝説「竹芝寺」の物語がのせられている。古い代の伝承である。 あるとき東国武蔵の国から召された衛士が御殿の庭を掃きつつ、ぶつくさくりごとををいっていた。 「あ〜あ、なんでこんなつらい仕事を、来る日も来る日もしなきゃあならねんだ、郷里が懐かしいなあ」 「おれたちの国では、ずら〜りと酒壷を並べ、瓢箪のひしゃくをその上にひっかけてある。 あのひしく、南風ふけば北へなびき、北風ふけば南へなびき、西風吹けば東へ、東風吹けば西へ、ゆうらりゆらりとなびいて、酒壷はたっぷたっぷとこぼれんばかり、そいつをきゅうと飲んで、青空をみてねむってしまうんだ、 あ〜あ国へ帰りていや、こんな仕事いやになっちまったわい」 それを帝の皇女の、たいそう大事に育てられた姫君が、ひとり御簾の奥で聞いておられた。 男の話が面白くて、男をそばに召されて「それが見たいわ、私を連れていって見せて」とおっしゃった。 衛士は仰天して、もったいない、恐れ多いことを、といったんは無論、ことわったが、重ねて仰せがあったので、これも前世の因縁かもしれんと思い、姫君を背負って出奔したのである。 天皇も皇后も動転されてあちこち捜されたが、このとき耳寄りな情報が入った。この原典の文句がいい。 「武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしきものを首にひきかけて、飛ぶやうに逃げける」 姫君のたきしめていられた香が、あとへ残っただけで、さだかにその「物」は見えなかった。 逃げる二人のスピードが思われる。 「七日七夜といふに、武蔵の国に行き着けにけり」とある。 さて 二人を武蔵の国へ追っていった人々に皇女は、 「これは私が命じたことです、私はこの男とこの国に住みたい。ここは住みよさそうな所に思えるの」と言われ男をかばった。 都では、天皇はこれを聞かれて「しょうがない、今更、都へ連れ帰ることもできまい」と仰せられ、その男に武蔵の国をあずけられた。 立派な邸を造って、二人は幸福に暮らしたという、ロマンチックな物語である。その邸のあとを寺にしたのが竹芝寺だという。 朝廷ではこのことに懲りて後宮にちかい火炬屋には女を詰めさせるようにしたという。 さて、作者の大中臣能宣は、有名な「奈良の都の八重桜」の歌、百人一首六十一番の 「いにしえの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな」の作者、伊勢大輔の祖父である。 能宣の父・頼基も、子・輔親も歌人として有名。 代々神職の家で、伊勢大神宮の祭主であり神祇大副を兼ねていた。 天暦五年(951)村上天皇の勅命を受け宮中に一御殿である「梨壷」に置かれた和歌所の中心人物として『万葉集』の訓点や『後撰集』の撰者となった「梨壷の五人」の一人である。 【主な派生歌】 くまもなき ゑじのたく火の 影見えて 月になれたる 秋の宮人 (藤原定家) 暮るる夜は 衛士のたく火を それと見よ 室の八島も 都ならねば (〃「新勅撰」) あしのやに 蛍やまがふ 海人やたく 思ひも恋も よるはもえつつ (〃「続後撰」) みかきもり 衛士のたく火は よそなれど とへかし人の もゆる思ひを (後鳥羽院) 夜もすがら 雲ゐの庭を てらすなる 衛士のたく火は 有明のころ (〃) 夜はもえ 昼はをりはへ なきくらし 蛍も蝉も 身をばはなれず (源家長「続後撰」) 我が恋は あまのいさり火 よるはもえ 昼はくるしき 浦の網なは (藤原家良「続古今」) 夜はもえ 昼は消えゆく 蛍かな 衛士のたく火に いつならひけん (宗尊親王「続拾遺」) みかきもり 衛士のたく火の 数そひて 玉しく庭に 飛ぶほたるかな (宗尊親王) しれかしな 衛士のたく火の なにならで よる昼わかず もゆる思ひを (冷泉為村) ひるはきえ 夜は寒(さ)えつつ ふる雪に 衛士のたくひを 頼むころかな (松永貞徳) みかきもる 花はいくとせ 咲きちりて よしのの春に もの思ふらん (加納諸平) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・ <小倉百人一首 注釈>等から。 |
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2015年07月19日
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<詞花集巻七(恋上)「冷泉院春宮と申しける時、百首歌たてまつりけるによめる 源重之」> 【歌意】 ・・・・・・・・
あまりに風が激しいので 岩を打つ波が砕け散ります 私もひとりで心を千々に砕いて 物思いをする今日この頃です 岩のようなあなた ・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 風をいたみ 岩うつ波の; この二句は「くだけ」を導く」有心・比ゆ的内容の序詞。
「風をいたみ」は「を・・み」で風が激しいのでの意。
* おのれのみ くだけて物を 思ふころかな;「を」は強調を表す間投助詞。 「いたみ」は形容詞「いたし」の語幹に、理由をあらわす接尾語の「み」を接して副詞となった。 「岩」は巨大な岩石。 「うつ」は動詞うつ」の連用形。 「の」はたとえの格助詞。本来は「くだけ」に対する主語「波」を示す格助詞。
「おのれ」は自称の人代名詞。
◇風をいたみ 風が甚だしいので。「のみ」は限定の副助詞。 「くだけ」は下二段活用動詞「くだく」の連用形で、思い乱れる意。 「て」は順接の」接続助詞。 「物を思ふ」は恋の物思いに悩む意。 「を」は動作の対象を示す格助詞。 「かな」は詠嘆の格助詞。 ◇岩うつ波の この句までが「おのれのみくだけて」を言い起こす序。心を閉ざす恋人を「岩」に、それでも恋人に思いを寄せる我が身を「波」になぞらえる。 ◇くだけて物を思ふ 心を千々にして思い悩む。 【参考歌】
「万葉集」巻十一
風をいたみ いたぶる波の 間なく 我が思ふ妹は 相思ふらむか 紀貫之「新古今集」 あしひきの 山下たぎつ 岩浪の 心くだけて 人ぞ恋しき 【作者や背景】 源 重之 みなもとのしげゆき 生没年未詳 清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。 康保四年(967)十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に「百首歌」を献上している。 これは後世盛んに行なわれる百首和歌の最初期の試みとして和歌史上大きな意義を有する。 その後相模・肥後・筑前などの国司を歴任したが、五十歳頃、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。 やがて陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年(1000)頃、六十余歳かという。 勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がおり、また家集「重之の子の集」を残した男子がいる。 貞元二年(977)八月の三条左大臣(頼忠)家の前栽歌合、寛和元年(985)円融院子日行幸和歌に出詠。平兼盛・源信明など歌人との交友が知られる。 三十六歌仙の一人。家集に『重之集』がある。拾遺集初出。勅撰入集六十八首。 百人秀歌では46番にあり、45番の清原元輔「契りきな」と合される。 【他の代表歌】 吉野山みねのしら雪いつきえて今朝は霞のたちかはるらん(拾遺集) 夏刈の玉江のあしをふみしだきむれゐる鳥のたつ空ぞなき(後拾遺集) つくば山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり(新古今集) 【主な派生歌】 藤ばかまあらしたちぬる色よりもくだけて物は我ぞ悲しき (藤原俊成「続拾遺」) おのれのみくだけておつる岩浪も秋吹く風にこゑかはるなり(藤原定家) おのれのみ岩にくだくる波の音に我もありとや磯の松風(九条良経) 泊瀬がは井手こす波の岩の上におのれくだけて人ぞつれなき(〃「玉葉」) 夕さればくだけて物や思ふらん岩こす浪に千鳥なく也(京極院内侍 〃) みせばやなくだけて思ふ涙ともよもしら玉のかかる袂を(伏見院「新後撰」) 逢ふ事は波よる礒のうつせ貝つひにくだけて物思へとや(平通時「続千載」) 山伏の腰につけたる法螺貝の ちやうと落ち ていと破れ くだけて物を思ふころかな(梁塵秘抄) 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・ <小倉百人一首 注釈>等から。 |
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