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<題知らず 詞花集・恋上> 【歌意】 ・・・・・・・・・
浅瀬の流れが速いので その流れが岩で激しく裂かれるが 下流ではかならずまた一緒になれる そのように われわれも将来には再び会おうと思うよ ・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の;
「われても」を導く比喩の序詞。情念のこもった暗喩ともなっている。
両者が複合して副詞の働きをする。「・・が・・なので」となる。「瀬をはやみ」は浅瀬の水流が速いのでの意。 「を・・み」・・、「を」は強調の間投助詞。 「み」は理由を表す接尾語。 古文に頻出する。
「岩」には二人の仲を強く邪魔する者の意を込める。
* われても末に あはむとぞ思ふ;「に」は原因を示す格助詞。 「せか」は四段活用動詞「せく」の未然形、せき止めるの意。 「るる」は受身の助動詞「る」の連体形。 「滝川」は急流の意で、はげしく愛しあう仲の二人の意をこめる。 「の」はたとえの格助詞。文法的には主格表示。
「われ」は下二段活用動詞「わる」の連用形、わかれる意。
係助詞「ぞ」の結びは動詞連体形「思う」。「ても」は「タトエ・・トシテモ」の仮定の接続助詞。 「すえ」は将来。 「に」は時間を示す格助詞。 「あわ」は動詞「あふ」の未然形、会う・結婚する。 「む」は意志の助動詞終止形。 「と」は引用を示す格助詞。 【本歌】武烈天皇「日本書紀」 大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも 末は足しても 遇はむとぞ思ふ 【参考歌】読人不知「後撰集」 【主な派生歌】 せをはやみ 岩きる浪の よとともに 玉ちるばかり くだけてぞふる (藤原定家) 春のゆく みよしの川の 瀬をはやみ せくもかひなき 花のいは波 (後鳥羽院) めぐりあはむ 雲のはつかに みか月の われても末に 影へだつなよ (三条西実隆) 瀬を早み ためらえるなく 激しかりし 岩打つときに 川しびるるぞ (佐佐木幸綱) 【作者や背景】 障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。 若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念を読み取れる。 《 くだけても、われてもはついに「保元の乱」。たんなる恋の歌とは受止められない 》 保元の乱(1156); http://www.ffortune.net/social/history/nihon-heian/hogen.htm 崇徳院 すとくのいん(すとくいん) 元永二〜長寛二(1119-1164) 諱:顕仁 崇徳天皇(1119年7月7日 - 1164年9月14日) 鳥羽天皇の第一皇子(『古事談』は実父を白河法皇と伝える)。 母は待賢門院璋子。後白河天皇は同母弟、近衛天皇は異母弟。 子に重仁親王・覚恵がいる。 保安四年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、五歳で即位。七十五代天皇。 大治五年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。 保延五年(1139)、鳥羽院の室美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、 永治元年(1141)、即位させた(近衛天皇)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。 近衛天皇は久寿二年(1155)七月に崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、結局鳥羽第四皇子の雅仁親王が即位(後白河天皇)。皇太子には後白河の皇子が立てられた。 翌年の保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。 十一日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着した。 崇徳院は讃岐に流され、松山(現坂出市)の配所に移される。 八年後の長寛二年(1164)、同地で崩御、白峰に埋葬された。 俊成の家集『長秋詠藻』には、崩御前の院が藤原俊成宛に書き遺した長短歌が収められている。 安元三年(1177)、崇徳院の諡号が贈られた。 浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に音(ね)をのみぞなく--『保元物語』 夢の世になれこし契りくちずしてさめん朝(あした)にあふこともがな 『玉葉和歌集』。死の直前、配所より藤原俊成に贈った長歌に付した反歌。 《日本国の(祟り)大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん》と。--『保元物語』 【出典・引用・転載元】
<三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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2015年08月14日
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