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<落花をよみ侍りける 新勅撰集・雑一> 【歌意】 ・・・・・・・・・
桜の花を誘っては散らす 嵐の庭の花吹雪 ふりゆくものは 本当に旧(ふ)りゆくものは 私自身であることだよ ・・・・・・・・・ 【語句・文法】 * 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで;
「花」は桜の花。
* ふりゆくものは;「さそふ」は動詞連体形で、誘い散らす意。「嵐」を擬人化した語。 「嵐の庭」は嵐の吹く庭を言いつづめたもの。 「庭の雪」は庭に散る花吹雪を雪に見立てて表現したもの。 「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形。 「で」は打消しの接続助詞。
「ふりゆく」は、「雪」の「降りゆく」と、「身」の「旧りゆく」を掛ける掛詞で、四段活用動詞「ふりゆく」の連体形。
* わが身なりけり;「は」は強意の係助詞。
「わが身」は私自身。
【作者や背景】「なり」は断定の助動詞「なり」の連用形。 「けり」は詠嘆の助動詞終止形。 入道前太政大臣(1171〜1244)本名、藤原公経。内大臣藤原実宗の子。 鎌倉幕府と結んでいた為権勢を誇った。将軍・源頼経は孫にあたる。 勅撰集入集歌百十二首 『新勅撰集』は、定家が若き後堀川帝の仰せで撰進した家集である。 天福二年(1234)の成立。 この歌はその巻十六の雑に出ている。 入道前太政大臣とは、藤原公経(きんつね)のことである。 公経は鎌倉期の動乱時代に生きながら、最後の王朝栄華を一身に具現して、思うことならざるはなく、七十四歳の長寿を保ったという幸運児である。 この時代、京都の貴族が時めくというのは、もちろん鎌倉幕府の庇護と支援があるからである。 公経は鎌倉側と閨閥関係から親しかった。彼の妻は、源頼朝の妹婿、一条能保(よしやす)の女である。 反鎌倉派の後鳥羽院には疎まれたが、承久の乱では鎌倉方に通じたので、乱の後には大いに権勢を振るうことになった。 西園寺を北山に造営し、自身その寝殿に住んだ。(西園寺家というのは彼から始まる)善美をつくした寺で、その宏壮華美なさまは『増鏡』の内野の雪の条にくわしく載っている。
公経は歌を詠む
山ざくら 峯にも尾にも 植ゑおかん みぬ世の春を 人や忍ぶと・・・山桜を峯にもふもとにも植えておこう、後世の人が昔の春をなつかしくしのぶだろうとおもうから・・・ 紅葉葉を さこそ嵐の 払ふらめ この山本も 雨と降るなり ちなみに定家は妻が公経の姉であったから義兄に当たる。 太政大臣に昇り、娘の婿の道家は関白、孫娘は後堀河帝の中宮、鎌倉の将軍に据えられていた頼経も彼の孫であった。 公経は婿の九条道家と並んで、政界の大立者となった。承久の乱ののちの京都政界は、公経によって再編成、統一されたということができる。 ただしそれは、昔の道長のように、全天下の富と権力を一身にあつめた、文字通り、望月の欠けたることなき、というものではなかった。 公経の勢威は、背後の、鎌倉幕府あってこそのものだった。 この時代を境に、京の天皇と貴族は、シンボルとしての存在になってゆく。 軍事力なき、権威の象徴である。 だからこそ、その後も、何百年も生き残れた。 日本の皇室のユニークなあり方は、日本が国際的緊張の中で生き残ってゆく際の、ひとつの示唆である。 さて、この西園寺だが、いま京都の上京区高徳寺町にあるのは、公経の建てたそれではない。公経の創立した寺は、衣笠山のふもとであったという。 今の金閣の地である。この寺は、のち西園寺家の衰微とともにおとろえ、市中へ移転した。 その跡地を、足利義満が譲り受け、鹿苑寺を立てたのであって、金閣の地は由緒ある地なのである。定家は、妻が公経の姉だったため、大いに西園寺家の庇護を受けた。 後鳥羽院の勘気にふれて逼塞窮乏していた定家が、承久の乱以後、めきめきと家運を盛り返して、羽振りがよくなるのも、西園寺家や九条家という彼のパトロンが、威勢よくなったためである。その縁で鎌倉方とも交渉があり、将軍実朝の歌の先生ともなったのである。 【本歌】よみ人しらず「古今集」 世の中にふりぬる物は津の国のながらの橋と我となりけり 【主な派生歌】 吹きさそふ嵐の庭の花よりもわが身世にふる春ぞつもれる (正徹) 一とせの残る日数は雪ならでつもりもあへず年ぞくれける (後柏原天皇) <三木幸信・中川浩文共著書本>・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に] >・ <千人万首>・<Wikipedia>・ <小倉百人一首 注釈>・ <フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)>等から。 |
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