|
<個別再掲載> サ1467夏雑歌,作者:弓削皇子 [題詞]弓削皇子御歌一首 霍公鳥 無流國尓毛 去而師香 其鳴音手 間者辛苦母 ほととぎす なかるくににも ゆきてしか そのなくこゑを きけばくるしも ・・・・・・・・・・・
* 「しか」は、過去の助動詞「し」と終助詞「か」の結び付いたもの。完了の助動詞「つ」の連用形「て」に付き、「てしか」の形で多く用いられる。「〜したい」という願望を表す。ほととぎすのいない国にいきたい その鳴く声を聞くとつらいことだ ・・・・・・・・・・・ * 「も」は、終助詞、詠嘆を表す。 * 「通はく」はク語法、体言止めに似て儀礼的ながら詠嘆がこもり感動を表わす。 古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く 弓削皇子 古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし わが念へる如 額田王 <と、やさしく霍公鳥は古を恋う鳥だと理解を示しつつ> み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君が御言を 持ちて通はく 額田王 <贈られた松が枝については、ただ「愛しきかも」とそっけない。> この時の歌は額田王の「長寿」を、弓削皇子が苔生した「玉松が枝」に添えて慰め贈ったものとされる。が、言わずもがなで、「玉松が枝」のみを贈って、上の二首とは無関係とも見られるが、どうだろう、判らないことである。 額田王は最愛の中臣朝臣大嶋を亡くしたばかりであった。 ホトトギスは古に、冥界へすら行き来する鳥とされる。 弓削皇子は額田王の夫だった天武天皇を意識して作歌し額田王に贈ったといわれるが、この時の天皇は持統天皇である。やはり夫は天武天皇であった。 苔生した「玉松が枝」は額田王の「長寿」を願うものと受け取られただろうか。そのように見えるが、この歌が持統天皇の知るものと察知すれば、苔生した「敗残の松が枝よあなた」と見抜いたであろう。 この歌は、老いたりといえども、毅然と凛たる額田王を前に、弓削皇子後悔の一首ではなかったろうか。 例えば蜀国亡国の杜宇の故事に「鳴く声を 聞けば苦しも」と詠っている風景は感じられない。
ほととぎす の別名のうち、「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の伝説にもとづく。古代の蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、さまよううちにその魂が変化してホトトギスになった。そのため、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。 |
◎【万葉集再掲載】
[ リスト | 詳細 ]
|
<個別再々掲載> サ 416;挽歌,作者:大津皇子、辞世 [題詞]大津皇子被死之時磐余池<陂>流涕御作歌一首 [左注]右藤原宮朱鳥元年冬十月 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ[ももづたふ] いはれのいけに なくかもを けふのみみてや, もがくりなむ ・・・・・・・・・・・・・
* 「ももづたふ」は「磐余(いはれ)」の枕詞。いわれのある池に鳴くかもを 今日限りの見収めとして きっと亡くなられたのだろう ・・・・・・・・・・・・・ * 「磐余」は、皇位に関わる隠語ともみられている。 * 「鴨(かも)」を「〜かも知れない」とも。 * 「磐余(いはれ)の池」不詳。香具山の麓にあったかとも言う。 「謂れ」の掛詞。「謂れなき罪」を言わんとするか。 * 「のみ」副助詞、限定・強調する意。「の身」が語源。 * 「や」は、係助詞。疑い・問いなどを表す。 * 「今日のみ見てや」は、皇位継承の夢は今日のみとみてか。 * 「雲隠る」は死ぬことの婉曲表現。「雲隠る」は「死ぬ」の敬避語であり、自分に敬語を使うのはおかしく、他者の作歌の可能性が濃厚である。 * 「なむ」は完了の助動詞「ヌ」の未然形「ナ」と推量の助動詞「ム」の複合したもので、「きっと…しただろう」ほどの意。 * 題詞の「流涕して作歌」した本人自作の歌には見えない。 大津皇子 おおつのみこ 天智称制二〜天武十五(663-686) 天武天皇の第三皇子。母は大田皇女(天智天皇の長女)。 同母姉に大伯皇女(大来皇女)、異母兄に高市皇子・草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。 山辺皇女(天智天皇の皇女)を娶り、粟津王をもうける。 斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。 『懐風藻』によれば身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。 天智崩後、西暦672年に壬申の乱が勃発した時は兄高市と共に近江にいたが、父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。 父帝即位後の天武八年五月、六皇子の盟約に参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。 翌年兄草壁が立太子するが、度量広大、時人に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武十二年、二十一歳になると初めて朝政を委ねられた。 天武十四年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。 しかし天武十五年(686)九月九日、父帝が崩じると、翌月二日、謀反が発覚したとして一味三十余名と共に捕えられ、訳語田の家にて賜死(二十四歳)。 妃の山辺皇女が殉死した。
これ以前に大津は密かに伊勢に下り、姉の斎宮大伯皇女に会ったことが万葉集に見える(大来皇女の御作歌2-105・106)。また大来皇女の哀傷御作歌(2-165・166)の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。 死に臨んでは磐余池で詠んだ歌(3-416)が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。 『日本書紀』に「詩賦の興ること、大津より始まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など四篇の詩を残す。万葉集には計四首の歌を載せる。 (千人万首より) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大津皇子の出生は西暦663年、これに対して草壁皇子の出生は662年。年齢で言えば、草壁皇子が1歳年上であるが、皇子としての序列では逆だったと思われる。つまり、彼らが出生した頃、大海皇子の正妃は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)ではなく、姉の大田皇女(おおたのひめみこ)だったはずである。何事にも姉の風下に置かれるのが、勝ち気な性格の鵜野讃良皇女は耐えられなかったに違いない。 ところが、姉の大田皇女が突然死亡して、鵜野讃良皇女は思いがけず正妃の座を得た。彼女は夫の大海皇子に全人生を捧げることを決心し、ついで凡庸な我が子を皇位につけることを生涯の目標に決めたと思われる。天智10年(671)10月、大海皇子が兄の天智天皇の皇位継承要請を断って吉野に逃れるとき、多くの妃の中で彼女だけが、幼い草壁皇子を連れ、夫と共にみぞれ混じりの芋峠を越えた。大海皇子が壬申の乱で勝利し、飛鳥浄御原の宮で皇親政治を始めると、その傍らには常に彼女がいた。 皇后となった鵜野讃良皇女にとって、頭痛の種は我が子の草壁皇子だった。だが、母親の立場からすれば、できの悪い子ほど可愛い。姉の子の大津皇子は天智天皇に可愛がられ、若者に成長するにつれて朝野の人望を一身に集めていく。そのことで、大津皇子の存在そのものが、我が子の行く末に巨大な障壁として意識されるようになったとしても、なんら不思議ではない。この頃から、皇后の頭の中に、どす黒い陰謀のシナリオが徐々に形を取り始めた。 (中略)<出典転載> 「当麻寺から二上山の雌岳・雄岳を巡る」より「大津皇子」 http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/otu-no-miko.htm |
コメント(0)
|
<個別再掲載> サ13;作者:中大兄,三山歌,兵庫,妻争い,伝説 [題詞]中大兄[近江宮御宇天皇]<三山歌> 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉 かぐやまは うねびををしと みみなしと あひあらそひき かむよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき ・・・・・・・・・・
* 「大和三山」(高山/香具山・雲根火/畝傍山・耳梨/耳成山)畝傍山を雄々しく思って 香具山と耳成山は争ったという 神代からこうであるらしい 昔もこんな具合だったからこそ うつせみの人も 愛しい人をめぐり争うのだよ ・・・・・・・・・・ * 「雄男志等」雄々しく思って・愛しいと思い・善(え)しと。 香具山 奈良県橿原市南浦町にある小さな丘。 畝傍山 橿原市にある死火山。標高199メートル。山麓に橿原神宮がある。 耳成山 橿原市木原町にある山。標高140メートル。別名青菅(あおすが)山・梔子(くちなし)山。 * 「き」は体験した過去のことについていう助動詞。 * 神代より 耳成と香具が(畝傍の嬬になろうとして)相争ってきたらしい。 * 「香具山・耳成山」が同性で「畝傍山」めぐって相争った。 * 「競」は、「きそう」「争う」の意。 * 「相争ひ」は、一語として解釈。 * 「古昔母」ーいにしへもー古も、「然尓有許曽」ーしかにあれこそー昔もこんな具合だったから(こそ) * 「こそ」は、順接の係助詞で結びは、連体形の「らしき」。 取り立てて強調。 「こそ」と已然形との係り結びで、逆接の条件句を作ることがある。 * 「虚蝉毛」ーうつせみもー今の世も。 * 「嬬乎」ーつまをー妻をー 褄 性を問わず、結婚相手を言う。 * 「相<挌>良思吉」ーあらそふらしきー争ふ(らしき)。愛しい人をめぐり争う。 |
|
<個別再掲載> サ624;相聞,作者:聖武天皇,酒人女王 [題詞]天皇思酒人女王御製歌一首 [女王者穂積皇子之孫女也] 聖武天皇が酒人女王(さかひとのおほきみ・穂積皇子之孫女)を思ほす御製歌一首 道相而 咲之柄尓 零雪乃 消者消香二 戀云君妹 みちにあひて ゑまししからに ふるゆきの けなばけぬがに こふといふわぎも
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
* 「ましし」は、動作を受ける相手への敬意・謙譲を表す「ます」の連用形。道で出会い 私が笑顔を見せたら 降る雪が今にも消えてしまいそうなくらい 同時に恋焦がれてしまいましたと言う 可愛いいそなたよ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * 「からに」 理由・原因などの接続助詞。 活用語の連体形につき、「〜だけで」「〜と共に」「〜と同時に」「〜ばかりに」「〜やいなや」の意を表す。 * 「から」は、形式名詞で、格助詞「に」が付いた複合語。 |
|
<個別再掲載> サ1807 挽歌,作者:高橋虫麻呂歌集,葛飾,伝説,自殺,惜別,枕詞 [題詞]詠勝鹿真間娘子歌一首[并短歌] ・・・・・・・・
↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー 鶏鳴ー鶏が鳴くー[とりがなく]ー 吾妻乃國尓ー東の国にーあづまのくににー坂東の國に 古昔尓ー古へにーいにしへにー昔 有家留事登ーありけることとーあったことだと 至今ー今までにーいままでにー今まで 不絶言来ー絶えず言ひけるーたえずいひけるー絶えず語り継がれてきた 勝<壮>鹿乃ー勝鹿のーかつしかのー葛飾の 真間乃手兒奈我ー真間の手児名がーままのてごながー真間の手児奈は 麻衣尓ー麻衣にーあさぎぬにー麻の衣に 青衿著ー青衿着けーあをくびつけー粗末な青襟をつけ 直佐麻乎ーひたさ麻をーひたさををーただの麻を 裳者織服而ー裳には織り着てーもにはおりきてー裳に織って着て 髪谷母ー髪だにもーかみだにもー髪も 掻者不梳ー掻きは梳らずーかきはけづらずー櫛を入れず 履乎谷ー沓をだにーくつをだにー沓すらも 不著雖行ーはかず行けどもーはかずゆけどもー履かずに行くのに 錦綾之ー錦綾のーにしきあやのー綾錦に 中丹*有ー中に包めるーなかにつつめるー包まれ 齊兒毛ー斎ひ子もーいはひこもー大事に育てられた姫も 妹尓将及哉ー妹にしかめやーいもにしかめやーこの娘にとうてい及ばない 望月之ー望月のーもちづきのー望月のような 満有面輪二ー足れる面わにーたれるおもわにー満ち足りた顔立ち 如花ー花のごとーはなのごとー花のように 咲而立有者ー笑みて立てればーゑみてたてればー笑みを浮かべて立てば 夏蟲乃ー夏虫のーなつむしのー夏虫が 入火之如ー火に入るがごとーひにいるがごとー火に飛び込むように 水門入尓ー港入りにーみなといりにー港に入ろうと 船己具如久ー舟漕ぐごとくーふねこぐごとくー舟が漕ぎ入るように 歸香具礼ー行きかぐれー[ゆきかぐれ]ー寄り集まりー「かぐれ(香具礼)」は語義未詳、「寄り集まる」意とされている。 人乃言時ー人の言ふ時ーひとのいふときー男たちは言い寄った 幾時毛ーいくばくもーどうせ長くは 不生物<呼>ー生けらじものをーいけらじものをー生きられはしないのに 何為跡歟ー何すとかーなにすとかー何としたことか 身乎田名知而ー身をたな知りてーみをたなしりてー自分の身上を悟り 浪音乃ー波の音のーなみのおとのー波音の 驟湊之ー騒く港のーさわくみなとのー波騒ぐ湊の 奥津城尓ー奥城にーおくつきにー墓に 妹之臥勢流ー妹が臥やせるーいもがこやせるー娘子は臥せっておいでになる 遠代尓ー遠き代にーとほきよにー遠い昔に 有家類事乎ーありけることをーありけることをーあったことなのに 昨日霜ー昨日しもーきのふしもー昨日に 将見我其登毛ー見けむがごともーみけむがごともー見たように 所念可聞ー思ほゆるかもーおもほゆるかもー思われることよ ・・・・・・・・ [題詞](詠勝鹿真間娘子歌一首[并短歌])反歌 勝<壮>鹿之 真間之井見者 立平之 水は家<武> 手兒名之所念 かつしかの ままのゐみれば たちならし みづくましけむ てごなしおもほゆ
・・・・・・・・
手児名の、「名」は愛称、「手児」が東國語の「娘」のこと。葛飾の真間の井を見れば 幾度も通って水を汲まれたであろうと 手児名のことが偲ばれることであるよ ・・・・・・・・ 古代では、特に祟りや死霊を恐れた。 それを封じ込め、消滅させる鎮魂の行事を必要とした。 後世、土偶などを生贄代わりに使い、必ず体の一部を破壊して死霊再生の阻止を図った。完全な土偶が出土した例はまだないという。 神代の祭礼では手児名のような処女が殺されていたと思われる。 この手児名は水死させられているように思われる。 この手児名は水死に。すべてがそうとは言えないが、目障りな弱者は、「生贄・身代り」の名で、おおっぴらに殺されていたのではないだろうか。それへの鎮魂のためにもまた、作られた「物語り」が必要だったと思われてならない。 |


