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14 3485 東歌,相聞,枕詞,恋 [題詞] 都流伎多知 身尓素布伊母乎 等里見我祢 哭乎曽奈伎都流 手兒尓安良奈久尓 [つるぎたち] みにそふいもを とりみがね ねをぞなきつる てごにあらなくに
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* [つるぎたち] [枕]身に添え、また磨(と)ぐところから、「身に添ふ」「磨(と)ぐ」にかかる。また、を神聖視するところから、「斎(いは)ふ」にかかる。「共寝」の意を含むこともある。意中の女を 自分の傍に置くことができなかった それでだ 声を上げて泣いてしまったぞ 幼子でもないのに ・・・・・・・・・・・ 剣の刃を「な」というところから「名」「汝(な)」にかかる。 * 「取り見」は、とり−・みる 【取り見る・執り見る】の連体形。 他動詞マ行上一段活用{み/み/みる/みる/みれ/みよ} 手に取って見る。世話をする。看病する。 * 「がね」接続助詞。動詞の連体形に付く。 〔理由〕…であるから。…だろうから。 〔目的〕…ために。…ように。 「がね」は文末に置かれるので、「終助詞」という説もある。倒置と考えれば接続助詞とする。上代語。 * 「ね」鳴き声。声を出してなく。強めの助詞「も」「ぞ」「のみ」などを伴った例が多い。 「ね」と「おと」の違い、「ね」が人の心に響く音であるのに対して、「おと」は雑音的なものを含め、風や鐘の音など比較的大きい音をいう。 * 「手児にあらなくに」幼子でもないのに。 * 「手児」は手に抱く幼子、いとし子。かわいい女。東国語。 * 「名」は愛称の接尾語。 * 「に」格助詞 * 「あらなくに」[連語]《動詞「あり」の未然形+打消しの助動詞「ず」のク語法+格助詞「に」》 ないことだなあ。ないことよ。 ないことなのに。いないのに。 ///// <chi**kokkk> https://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/28163335.html?type=folderlist ♪剣大刀 身に添ふ妹を 取り見がね 音(ね)をぞ泣きつる 手児にあらなくに(万葉集・巻14・3485 (剣大刀、そいつをいつも身に添えるように 連れ添ってきた子、その子を抱いてかわいがることもできなくなって、声をあげて泣いてしまった。小娘でもあるまいに) /// 雑徭、防人などで、旅にでた男の歌。 「手児」は、かわいい女。少女をいう東国語。 |
◎【万葉集再掲載】
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3427 東歌,相聞,東北,筑紫,遊行女婦,浮気,恋,防人 [題詞] 筑紫奈留 尓抱布兒由恵尓 美知能久乃 可刀利乎登女乃 由比思比毛等久 つくしなる にほふこゆゑに みちのくの かとりをとめの ゆひしひもとく ・・・・・・・・・・
* 「可刀利娘子」中島裕子著から抜粋転載。筑紫のちょっといい女に目がくらみ 陸奥の可刀利娘子が固く結び合わせた あの衣の紐を解いてしまうとはねえ ・・・・・・・・・・ http://kitagawa.la.coocan.jp/man/3427.html <東歌で陸奥国歌として載せられているからには、陸奥で詠まれたものとしてこだわってみたいと思う。この佐原市は位置的にいって陸奥とはかなり離れている。ではなぜ陸奥のカトリなのか? と考えると、当時の人々の交流や交易にたどりつくような気がする。つまり、織が下総で普及し、それが陸奥まで広がり、そのうちに織物だけでなく織る術も伝わった。すると、可刀利娘子とは「織の技術を身につけた娘」と解釈でき、「陸奥のカトリ」が地名である必要はなくなるのである。>(中略) /////
* <chi**kokkk>著。 http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/28116716.html?type=folderlist ♪筑紫なる にほふ子ゆえに 奥陸(みちのく)の かとり娘子(をとめ)の 結ひし紐とく (万葉集・巻14・3427) 歴史公園の説明版にーー石に陶版(たぶん有田焼)が埋め込んであるーーおしゃれです。 「作者は辺境の防備のために九州に遣わされた防人である。 天智2年百済の白村江の戦で唐と新羅の連合軍に大敗した日本は、4年から6年交代で東国の若者を 防人として外敵に備えさせた。 中には土地の娘と結婚して住みつく者もいたと言う。 筑紫の美しい娘ゆえに、故郷の愛しい女が結んでくれた紐を解いてしまったという意。」とある。 この歌は、『童蒙抄』以来、陸奥から筑紫に着任した防人の作とされている。 でも、陸奥から防人を出した形跡はない。 筑紫に赴いた陸奥男の詠んだ歌というのが、通説になっている中で、『代匠記』だけが、残された女の「恨テヨメル」歌と見ている。 この歌は、巻20の防人の歌でなく、巻14の東歌の中にあった。 歌の意は、(筑紫なんぞの色よい女に暗まされて、陸奥の可刀利娘子、そう、この縑娘子さまが、固く結び合わせてあげた紐、その紐を解くんだとさ。何とまあ。) 可刀利娘子は、「泊瀬娘子」や「菟原娘子」のように、可刀利(かとり)は、地名と思われる。 「可刀利」に「縑」が、懸けてある。 縑は、「固織り」の約で、目を細く固く織った薄い絹。 「縑」を産する地だから、そこを「可刀利」と称した。陸奥のどこかは、不明。 この歌は、もともと、可刀利娘子たちが、縑を織る作業の中で唱われた労働歌らしい。 東の最果ての国「陸奥」に対して、西の最果ての国「筑紫」を意識している。 東は、後でひらかれた土地で、西は、先にひらかれた土地だった。 『私注』に、「陸奥と筑紫の文化の違いから、筑紫処女のほうが、いくらか美しく眼に映るのであったかも知れぬ」とある。 ・・蘇我蝦夷は、東国の異国情緒たっぷりの美女を妻にしてるけどなあ・・・ /// 縑の技術も、中国か韓国から、筑紫へと、まず渡来しただろうし、可刀利にも、筑紫から、伎人が指導者として、きていたかも。 その伎人が筑紫には、美女が多かったよ〜と吹聴したのかも。 事もあろうに、このカトリサマの結んだ下紐を解いて、遠くも遠く、西の最果ての国の女と出来たとはと、男の貪欲、素早さを皮肉って、歌い笑った。 労働歌で、娘たちは、自虐の笑い、そして、不届きな男をからかい戒め歌い、作業能率をあげたらしい。(了) |
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13 3295 奈良,田原本,問答,親子,歌垣,民謡 [題詞] ・・・・・・・・・・
打久津ー[うちひさつ]ー日が射しこむ 三宅乃原従ー三宅の原ゆーみやけのはらゆー三宅の原から 常土ー直土にーひたつちにーいつも土まで 足迹貫ー足踏み貫きーあしふみぬきー足で踏み分けて 夏草乎ー夏草をーなつくさをー夏草に 腰尓魚積ー腰になづみーこしになづみー腰まで没して難儀し婚(よば)いをしているそうだが 如何有哉ーいかなるやーさてどのような 人子故曽ー人の子ゆゑぞーひとのこゆゑぞー人の子のために 通簀<文>吾子ー通はすも吾子ーかよはすもあこー通っておいでなのかね わが子よ 諾々名ーうべなうべなーいかにもごもっとも 母者不知ー母は知らじーはははしらじー母上はご存じありますまい 諾々名ーうべなうべなーそうですとも 父者不知ー父は知らじーちちはしらじー父上はご存じありますまい 蜷腸ー蜷の腸ー[みなのわた]ー蜷貝の中身のようにつややかで 香黒髪丹ーか黒き髪にーかぐろきかみにー黒々とした髪に 真木綿持ー真木綿もちーまゆふもちー神聖な木綿で 阿邪左結垂ーあざさ結ひ垂れーあざさゆひたれー花蓴菜を結わえ垂らし 日本之ー大和のーやまとのー大和の 黄<楊>乃小櫛乎ー黄楊の小櫛をーつげのをぐしをー黄楊の小櫛を 抑刺ー押へ刺すーおさへさすー押さえに刺している <卜>細子ーうらぐはし子ーうらぐはしこー<「うら」は心、「くはし」は美しい意。>心優しい姿の可愛い子 彼曽吾○ーそれぞ吾が妻ーそれぞわがつまーそれが私の相手です ・・・・・・・・・・ [題詞]反歌 父母尓 不令知子故 三宅道乃 夏野草乎 菜積来鴨 ちちははに しらせぬこゆゑ みやけぢの なつののくさを なづみけるかも ・・・・・・・・・・
父にも母にも知らせないいとしい子だから 三宅への道の 夏野の草いきれややぶ蚊に苦しみながら 踏み分けて 身を隠して通うことですよ ・・・・・・・・・・ <旅人>http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/28066694.html?type=folderlist 親の問いかけに、息子が打ち明ける、 ♪うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆえぞ 通はすも我子 うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷(みな)の 腸(わた) か黒き髪に 真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊の小櫛を 押へ刺す うらぐはし子 それぞ我が妻 (万葉集・巻13・3295) (うちひさつ 三宅の原を 地べたに 裸足なんかを踏みこんで 夏草に 腰をからませて まあ いったいどこのどんな娘御ゆえに 通っておいでなのだね お前。 ごもっともごもっとも 母さんはご存知ありますまい ごもっともごもっとも 父さんはご存知ありますまい 蜷の腸そっくりの 黒々とした髪に 木綿の緒で あざさを結わえて垂らし 大和の黄楊の小櫛を 押えにさしている 妙とも妙ともいうべき子 それが私の相手なのです)
反歌
♪父母に 知らせぬ子ゆえ 三宅道の 夏野の草を なづみ来るかも (万葉集・巻13・3296)(父や母にも 打ち明けていない子ゆえ 草深い三宅道の 夏野 その野の草に足を取られながら 私は辿って行く。そういうことだったのです) 父母にも打ち明けられなかった相手だったけど、幸いに事情を尋ねてくれたので、夏草に足を取られて通う苦しみも、今は過去のものとなった。 長歌では、父より母が先に出て来る。 男女の仲については、当時母親が監督権を握っていた。 両親は、裸足なんかで草踏み分けて通うとは、相手はとんでもない子ではあるまいなと、詰問している。 息子は、即座に相手は、「うらぐはし子」だから、心配ご無用と応じた。 そして、これでほっとした、という反歌をうたう。 草深い里にいる野趣豊かな女性、だから妙味ある女性なんだから、安心してほしいという。 「あざさ」は、現在あさざと呼ばれるリンドウ科の多年生水草。
夏秋の頃、黄色い花をつける。 髪飾りにその花をつけたらしい。 「大和の」は、異国ではないこの国のといって、相手を身近に感じさせる表現。(了) |
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13 3278 歌劇,女歌 [題詞] ・・・・・・・・・・・
赤駒ー赤駒をーあかごまをー赤駒を 厩立ー馬屋に立てーうまやにたてー厩を建てて飼い 黒駒ー黒駒をーくろこまをー黒駒を 厩立而ー馬屋に立ててーうまやにたててー厩を建てて飼い 彼乎飼ーそを飼ひーそをかひー大事に育てて 吾徃如ー吾が行くがごとーわがゆくがごとー私が乗って行くように 思妻ー思ひ妻ーおもひづまー可愛い妻が 心乗而ー心に乗りてーこころにのりてー私の心に乗ってくる 高山ー高山のーたかやまのー高い山の 峯之手折丹ー嶺のたをりにーみねのたをりにー峯の窪みに作った 射目立ー射目立ててーいめたててー射目に身を伏せて 十六待如ー鹿猪待つがごとーししまつがごとー鹿猪を待つように 床敷而ー床敷きてーとこしきてー床を敷いて 吾待君ー吾が待つ君をーわがまつきみをー待っている人を 犬莫吠行<年>ー犬な吠えそねーいぬなほえそねー犬よ吠えてはいけない ・・・・・・・・・・・ [題詞]反歌 蘆垣之 末掻別而 君越跡 人丹勿告 事者棚知 あしかきの すゑかきわけて きみこゆと ひとになつげそ ことはたなしれ ・・・・・・・・・・・
* あしがき‐の【×葦垣の】葦垣の上をかきわけて いい人が越えて通ってくるのに 人に告げるように吠えないでおくれ 夫がいることが知られてしまうでしょう あのお方には吠え掛かってはいけません ・・・・・・・・・・・ 古くは「あしかき」、葦で作った垣根。 * 「な〜そ」 (禁止の意) * 「末」 物のはし。先端。 //本(もと)。 [枕]の場合。 1 葦垣は古びて見え、乱れやすく、また、その結び目は間が近いところから、「古 (ふ) る」「乱る」「間近(し)」などにかかる。 2 垣は内外の隔てとするところから「ほか」にかかる。 3 葦を「よし」ともいうところから「吉野」にもかかる。 * 「たな」は大和(やまと)ことばで、「たな」の「た」は手の古形、「な」は連体助詞であり、「たなびく」とか「たな雲」と同根の、水平の状態を表す。「事はたな知れ」わきまえを知れ。 <旅人>http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/27639231.html?type=folderlist
狩り場での収穫の宴の歌。 ♪赤駒を 馬屋に立て 黒駒を 馬屋に立てて そを飼ひ 我が行くごとく 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峰のたをりに 射目立てて 鹿猪待つごとく 床敷きて 我が待つ君を 犬な吠えそね (万葉集。巻13・3278) <男>赤駒を 馬屋に立たせ 黒駒を 馬屋に立たせ そいつを大事に世話して 私が乗って行くように かわいい妻が 心に乗りかかって来てさ・・・ <女> そうそう 高い山の峰のくぼみに 射目を設けて 鹿猪を待ち伏せるように 着物を敷いて 私がお越しを待っているあの方なのだから 犬よ やたらに吠えないでおくれ ///
反歌
♪葦垣の 末かき別けて 君越ゆと 人にな告げそ 事はたな知れ (万葉集・巻13・3279)( 葦垣の上を かき別けて あの方が乗り越えていらっしゃるなどと 人に気づかせないでおくれ 事のわけはよくよくかぎ分けておくんだよ) /// 「赤駒」は、栗毛の雄馬。 「赤駒」「黒駒」で、一同勢ぞろいして、馬に乗り狩りにでかけるようすを表わす。 「たをり」は、峰続きの山の低くなった部分。動物の通路でもあった。 「射目」は、鳥獣を射るために身を隠す設備。 「床敷きて」は、共寝用の自分の着物を、あらかじめ敷くこと。 「たな」は、すっかりの意。 /// 狩りの打ち上げで、ミニオペラを楽しんだらしい。 そこらにあった棒切れを股に挟んで、走る真似をすれば、馬にまたがって狩りに出で立つ姿を演じる。 そこに、「床を敷」いて、男を待つ女役も演じる。 犬役も演じる。 カラオケで、男♪3年目の〜浮気ぐらい 多めにみろよ〜♪ 女♪〜許してあ〜げ〜ない♪ の感じかな・・・ 健康に満ちた万葉人の、狩り場での、高笑いが聞こえますね。(*^▽^*)ノ ハーイ(了) |
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1 20 雑歌,作者:額田王,滋賀,野遊び,求婚,宴席,枕詞,植物 [題詞]天皇遊猟蒲生野時額田王作歌 [原文]茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 [仮名] [あかねさす] むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる 茜色に輝く紫草が栽培されている野には
天皇の番人がいます その番人たちに見られてしまうではありませんか あなたが私に袖を振っているのを ・・・・・・・・・・ その宴会の席で大海人が武骨な舞を舞って、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、額田王がからかいかけた。 《私に恋しているという袖振りをなさると、野守が見咎めませんか、君よ。》 この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、大海人は「にほへる妹」と、しっぺい返しをしてみせた。 <私が袖を振るとすれば、大君の皇女鸕野讃良にときまっているじゃないか> * 大海人皇子の応じた歌 「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/30248030.html この二首が相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる。宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道。(千人万首) * 「あかねさす」は、赤い色がさして光り輝く意から日・光・昼・紫・君などにかかる枕詞。「紫もあかき気のにほふなればつづけたり」(賀茂真淵『冠辞考』) * 「紫野」紫草の生えている野原。貴重な染料であった紫草を栽培した野。 * 「標野」は、標(しめ)を張って、一般人の立ち入りを禁じた、皇室・貴人などが領有した野。禁野。標(しめ)とは、占有のしるし。縄を張ったり杭を打ったりした。 * 「野守」は、禁猟の野を守る人。野の番人。(ここでは暗に天智天皇を意識説あり。) * 「見ず・や」「や」は終助詞。反語。 * 「が」は連体修飾語をつくる格助詞。 * 「袖振る」の原意は「相手の霊魂をこちらへ招き寄せる呪術」であっが、 後には単に「求愛の仕草」となった。 * 天武天皇名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている * 壬申の乱直前、吉野隠棲時では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。 * 日本の皇族である額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)の出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。現在の奈良県平栗郡で「額田の郷」と呼ばれたあたりの豪族鏡王の娘で、鏡女王の妹とされているが同一人という説もある。身分が微妙で、采女ほど低くはないし、巫女でもないという説がある。 * 天智天皇、天武天皇=大海人皇子の二人と結婚(妃または采女)したが別れている。『日本書紀』には鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という、また近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。[ウィキ]。 「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」 斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説(直木孝次郎)の神功紀にある、「神託」に関わるような、額田王は特別な地位・立場をもつ女性ではなかったかとも推測する。 額田王・天智天皇は単なる男女関係ではなく、二人称「貴国」を、はっきり一人称「神国日本」とする統一国家日本建国を、神託され推進した同志関係であったとも考えられる。 しかし資料・記録・伝説伝承類は一切なく、妄想で終わるしかない。 7世紀、和歌は 現代では信じられない重要かつ神秘なものであった。 見事な歌は、ときに神の怒りを鎮め、人々の動乱を治めた。 額田王は 言魂の宿る歌を詠む力を持ち、神が宿ると信じられ、公の行事でも天皇に代わって歌を作った(御言持ち)。時の天皇は斉明天皇。その宮廷歌人としか歴史は語らない。 御言持ちとは天皇の心を歌を通じて広く群臣・民に伝える役であった。 神と交信する巫女的能力を備えていて、政治を仕切る権力者の力を増幅した。このことを後世は評価しなくなった。 額田王・天智天皇の生きた時代は白村江敗戦もあり、国家存亡の危機を孕んだ時代であった。 大和朝廷は天皇家と物部氏の「和」=連合によって成り立っていた。 天皇は、物部氏より妃を得て即位する。妃は神事を行い、神の意を受信し神意に基づいて天皇が政治を行った。 額田王も物部氏の最高位にあったと伝承されている。単なる巫女や後宮の一女性とするのは後世の貶めのようだ。 「王」の名の示すとおり皇族であり連合政権の要でもあった。 卑弥呼を思うとき、額田王・天智天皇を無視できない。 しかし、額田王につながる物部氏の勢力は、天智天皇が「大化の改新」でやりきれなかった土地改革を藤原不比等と組んでやり抜いた持統天皇によって、その膨大な土地を召し上げられる事で消滅した。 また天皇家の地位を強調する正史「日本書記」が成立し、この過程で、額田王の出自は、物部氏と天皇家との関わりが消されていくと共に抹消されていった。 近江天皇を思ひて作る歌 額田王 「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」 近江天皇とは、天智天皇。 これを単に恋歌と見ることができるだおうか。。 * 公的には斉明朝から持統朝に活躍した万葉歌人である。 額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが額田女王、額田姫王(『日本書紀』)又は額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。 * 『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長『玉勝間』)それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[ウィキ]。 * 「十市皇女」(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) - 天武天皇7年4月7日(678年5月3日))は天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。 * 「大友皇子」 天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自害する。 生存は、正妃:十市皇女(天武天皇皇女)子の 葛野王 - 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船) * 「葛野王」、母・十市皇女も早世(自殺・暗殺説)し、自身も複雑な血統の中、それなりの出世は果たしたが、結局早世してしまった。子孫も孫の三船以降は天武系から天智系への皇統移行とほぼ同時に歴史から消えた。 <個別へ>http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/31901653.html ** 【やまとねこ】さんの記事から転載。 「茜指す」は「紫」ではなく「君」にかかると思うのですがいかがでしょうか。額田王は、二人の「君」を秤にかけたのです。隠した「君」が「隠れ枕詞」です。 万葉集の額田王の和歌です。
茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が手を振る
振り袖は、未婚の女性が着るのです。既婚の女性は振り袖を着てはいけません。 「袖を振る」とは「求婚」なのです。 なので既婚の女性は、「留め袖」を着るのです。 「あかね」とは、「夕陽」の意味です。 「あかねさす」は「君」にかかる枕詞なのです。 枕詞はもう一つの「君」を隠しているのです。 「朝日さす君」、「日の下の君」です。 「あかねさす君」は九州王朝の天皇の皇子の、大海人皇子です。 隠しているのは、天智天皇ではありません。 天智天皇の息子と思われている、大友皇子です。 このあと額田王は、近江朝に味方してしまうのです。 大混乱が起こります。 壬申の乱は二十年も続きます。
[以上【やまとねこ】さんの記事から転載] |



