ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

万葉集(下書き)

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サ20 4433;天平勝宝7年3月3日,年紀,作者:安倍沙美麻呂,宴席,望郷,防人検校,大阪

[題詞]三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首
(天平勝宝7年(西暦755年)3月3日に、防人を検閲した勅使(ちょくし)と兵部(ひょうぶ)の役人たちが集まって宴会をしたときに詠んだ三首)
[左注]右一首勅使紫微大弼安倍沙<美>麻呂朝臣
(右の一首は勅使、紫微大弼、安倍沙彌麿(さみまろ) )

阿佐奈佐奈  安我流比婆理尓  奈里弖之可  美也古尓由伎弖  波夜加弊里許牟

朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて 早帰り来む 

あさなさな あがるひばりに なりてしか みやこにゆきて はやかへりこむ

毎朝毎朝舞い上がる雲雀になりたい

都へ行ってそして直ぐに帰ってくるのだ



サ20 4434;天平勝宝7年3月3日,作者:大伴家持,叙景,宴席,防人検校,大阪

[題詞](三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首)

比婆里安我流  波流弊等佐夜尓  奈理奴礼波  美夜古母美要受  可須美多奈妣久

ひばり上がる 春へとさやに なりぬれば 都も見えず 霞たなびく 

ひばりあがる はるへとさやに なりぬれば みやこもみえず かすみたなびく

雲雀が上がり 

確かな春になって 

都も見えぬほどの

霞がたなびいている



サ20 4435;天平勝宝7年3月3日,作者:大伴家持,望郷,防人検校,宴席,大阪

[題詞](三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首)
[左注]右二首兵部使少輔大伴宿祢家持
(右の二首は兵部使の少輔、大伴家持)

布敷賣里之  波奈乃波自米尓  許之和礼夜  知里奈牟能知尓  美夜古敝由可無

ふふめりし 花の初めに 来し吾れや 散りなむ後に 都へ行かむ 

ふふめりし はなのはじめに こしわれや ちりなむのちに みやこへゆかむ
つぼみだった花の初めにここに来た

花が散った後に都に帰ろう
以下<出典・記事転載(たのしい万葉集)より。>
大伴家持;
生年・没年 養老2年(718)? 〜 延暦4年(785)
家族 父 : 大伴旅人(おおとものたびと)
母 : 不明
子 : 永主(ながぬし)
奥さんは、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)。
天平18年(746)、7月7日 国守として越中(富山県)に赴任。
勝宝3年(751)、少納言に任じられ、都(みやこ)に戻る。
宝字2年(758)、6月16日 因幡守(いなばのかみ)に左遷される。
宝字3年(759)、元旦 因幡国庁で万葉集の最後の歌を詠む。
宝字6年(762)、信部大輔(しんぶのだいふ)に任じられ、都に戻る。
宝字8年(764)、1月12日薩摩守に任じられる。
神護1年(765)、都に戻る。
景雲1年(767)、大宰少弐に任じられ、太宰府に赴任する。
宝亀1年(770)、民部少輔に任じられ、都に戻る。
延暦2年(783)、7月19日 中納言に任じられる。
延暦3年(784)、持節征東将軍に任じられる。
延暦4年(785)、亡くなる。
 持節征東将軍は蝦夷征討の将軍のこと。坂上田村麻呂がなったことで有名。
「持節」は、天皇から刀を与えられて、天皇の権限を代行することをいう。
・・・・・・・・・・・・・

以下<出典・転載記事>
『火山の独り言 』より。
http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/55875922.html

含(ふふ)めりし 花の初めに 来しわれや 散りなむのちに 都へ行かむ(大伴家持)

大伴家持が東国から徴発した<防人>を閲兵するために、天平勝宝7年(755年)3月、難波に出張した時に詠んだもの。不思議なことに「万葉集」では<紫微大弼>の安倍沙弥麻呂と並んで、ともに3月3日に詠まれた歌として掲載されている。何が不思議かというと<紫微大弼>は<紫微中台>の次官。
藤原仲麻呂の腹心なのだ。位は従四位上。家持よりずっと上。
しかも防人の閲兵は兵部の所管。<紫微中台>は光明皇太后の秘書室。
室長の<紫微中台令>は仲麻呂。本来、閲兵に立ち会う必要はない。

梅原は「これは仲麻呂がクーデターを警戒した証拠」と考えている。
だから安倍沙弥麻呂は家持に同行、一緒に難波に泊り込んだ。
なぜ警戒したか。
<防人>を東国から徴発することが異例だったのだ。<防人>は大陸からの侵攻に備え、辺境に配備する軍隊だが、天平9年(737年)以降、東国からの徴発をやめ、筑紫人に壱岐や対馬を警備させることになっていた。
したがってこの東国からの徴発は<天平の詔>に違反している。
 なぜ東国から徴発したか。もちろん東国の兵が強いから。壬申の乱に天武側が勝利を得たのも東国の強兵の力を借りたからだ。
 この異例の徴発に左大臣の橘諸兄、兵部卿(陸軍大臣)の橘奈良麻呂の秘策が秘められていたのではないか。これが<梅原の推理>だ。
 しかも当時の陸奥鎮守将軍は大伴古麻呂、副将軍は佐伯全政。この二人は後に<奈良麻呂の変>に連座、命を落としている。
つまり<奈良麻呂派>と見て仲麻呂は警戒していた。
ここまで深読みできる史料が「万葉集」に秘められているとなると凄い話だが事実だろう。もっと凄いのが<防人の歌>。
 家持が集めた<防人の歌>はこの年、相模、駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵9カ国の防人のものだけ。
それ以外は皆無なのだ。梅原はこれに注目。
「防人に関心を持ちすぎている。越中守に赴任しても一向に庶民たちの生活に関心を持てなかった家持である。ここで急に庶民の生活感情に関心を持ち始めたはずがない。私は家持が防人たちから歌を徴集したのも文化事業の名を借りた軍事的掌握が目的ではなかったと思う」(梅原猛「天平の明暗」小学館「人物日本の歴史」・275頁)。
 兵部少輔家持が左大臣橘諸兄、兵部卿橘奈良麻呂から何を命ぜられていたかは不明だが、防人の閲兵には虚々実々の駆引きがあったのではないか。閲兵には奈良麻呂側に何らかの陰謀があった。だが仲麻呂側の警戒で未発に終ったのではないか。
 これが梅原の推理だ。
仲麻呂も軍事力を持っていた。彼は<中衛大将>。天皇家の親衛隊を配下に治めていた。
 梅原の推理はこれでは終らない。「万葉集」を読めば読むほど、この疑惑は深まるという。この後、家持は<仲麻呂派>の人物と急に親しくなるという。
 一人は<大原真人今城>―――。<大原真人>は天武天皇の皇子<長>の孫・高安王に天平2年(730年)に授けられた<氏姓>。
<今城>は高安王の子か甥。この今城は後に仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こした時、仲麻呂に味方したため、位官を没収されている。
 家持が当時それを予想できるはずはないが、今城が仲麻呂に近いことは知っていただろう。
 3月3日に閲兵のあった天平勝宝7年の5月9日。「兵部少輔大伴宿禰家持の宅に集飲(うたげ)する歌4首」と詞書があり、交互に今城と家持の歌が2首ずつ記載がある。

わが背子が 屋戸の石竹花(なでしこ) 日並べて 雨は降れども 色は変らず(今城)
ひさかたの 雨は降りしく 石竹花が いや初花に 恋しきわが背(家持)―――以下略。

 もう一人は<治部卿船王>―――。
この船王は舎人親王の子。後の淳仁天皇の兄というから大物だ。この船王は奈良麻呂のクーデターが発覚した際、いち早く仲麻呂側につき、奈良麻呂の同志たちを糾問した。仲麻呂の反乱では首謀者の一人となって終始行動をともにし、敗残後は親王の位を剥奪され、隠岐の国に配流される。この船王にも急接近。
 5月18日。「左大臣の、兵部卿橘奈良麿朝臣の宅に宴する歌3首」と詞書。

石竹花が 花取り持ちて うつらうつら 見まくの欲しき 君にもあるかも(船王)

この後に家持の歌が2首記載されているが、不思議なことに「追ひて作れり」と詞書。

宴会には出ていたのに、その場では作らない。
つまり奈良麻呂と親しくしていると船王に思われたくなかったのだろう。

家持には不思議な行動が、次第に多くなっていく。


サ20 4425;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,女歌,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注](右八首昔<年>防人歌矣 主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫 贈兵部少輔大伴宿祢家持)
<右の八首は昔年(さきつとし)の防人の歌なり。
主典刑部少録、磐余(いはれ)伊美吉(いみき)諸君(もろきみ)
抄寫(ぬきうつ)して大伴家持に贈れり。>

佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受

防人 に行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず 

さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず
防人に行くのはどなたのだんな様なのと

何の悲しみもなく聞く人を見るとうらやましい



サ20 4426;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,女歌,恋情,磐余諸君

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

阿米都之乃  可未尓奴佐於伎  伊波比都々  伊麻世和我世奈  阿礼乎之毛波婆

天地の 神に幣置き 斎ひつつ いませ吾が背な 吾れをし思はば 

あめつしの かみにぬさおき いはひつつ いませわがせな あれをしもはば

天地の神々に幣を奉じ斎ひつつ

おいで下さい

わが夫よ わたしを思うのなら



サ20 4427;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,恋情,望郷

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

伊波乃伊毛呂  和乎之乃布良之  麻由須比尓  由須比之比毛乃  登久良久毛倍婆

家の妹ろ 吾を偲ふらし 真結ひに 結ひし紐の 解くらく思へば 

いはのいもろ わをしのふらし まゆすひに ゆすひしひもの とくらくもへば

妻は想っているのだな 

真結びに結んでくれたまじないの

紐が解けたことをおもえば




サ20 4428;天平勝宝7年2月,年紀,防人歌,古歌,伝誦,女歌,地名,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟

吾が背なを 筑紫は遣りて 愛しみ えひは解かなな あやにかも寝む 

わがせなを つくしにやりて うつくしみ えひはとかなな あやにかもねむ
夫を筑紫へ遣ってそのいとしさに 

帯も解けぬまま

言いようもなく独り寝るの




サ20 4429;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,悲別,恋情,磐余諸君

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛

馬屋なる 縄立つ駒の 後るがへ 妹が言ひしを 置きて悲しも 

 [うまやなる なはたつこまの おくるがへ] いもがいひしを おきてかなしも

厩の駒が綱を切って飛出すように

行かないでと泣いた妻を

置いて残したこのせつなさよ




サ20 4430;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,序詞,出発,羈旅

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

阿良之乎乃  伊乎佐太波佐美  牟可比多知  可奈流麻之都美  伊O弖登阿我久流

荒し男の いをさ手挟み 向ひ立ち かなるましづみ 出でてと我が来る 

[あらしをの いをさたはさみ] むかひたち] かなるましづみ いでてとあがくる

荒ぶる男が矢を手に挟み向かい立つ

その間を鎮めつつ私は出てきたのだ




サ20 4431;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,望郷,恋情,磐余諸君

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

佐左賀波乃  佐也久志毛用尓  奈々弁加流  去呂毛尓麻世流  古侶賀波太波毛

笹が葉の さやぐ霜夜に 七重着る 衣に増せる 子ろが肌はも 

ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも

小笹の葉の鳴る霜の夜

七重にも衣を重ね着する

それにもまさる愛する人の温もりが

思い出されることだ




サ20 4432;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,悲別,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

佐弁奈弁奴  美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我  多麻久良波奈礼  阿夜尓可奈之毛

障へなへぬ 命にあれば 愛し妹が 手枕離れ あやに悲しも 

さへなへぬ みことにあれば かなしいもが たまくらはなれ あやにかなしも

拒めぬ御言葉に

愛しい妻の手枕を離れた 

無性に悲しいことだ
* 無性は無情の命令を暗示したもの。
 貴族層はごく一部にすぎず、民衆は天皇崇拝とは無縁で、平城京の人口は約10万人、貴族は百数十人、下級役人は数千人と推定されている。

サ20 4418;天平勝宝7年2月29日,作者:物部廣足,防人歌,恋情,埼玉,安曇三國

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首荏原郡上丁物部廣足
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

和我可度乃  可多夜麻都婆伎  麻己等奈礼  和我弖布礼奈々  都知尓於知母加毛

吾が門の 片山椿 まこと汝れ 吾が手触れなな 土に落ちもかも 

わがかどの かたやまつばき まことなれ わがてふれなな つちにおちもかも
家の門の思いを寄せた椿よ 

本当に私が触れぬうちに

お前は土に落ちてしまうのかなあ



 物部広足(生没年不詳;もののべのひろたり)は、武蔵国荏原郡すなわち現在の東京都品川区荏原出身の農民であり、天平勝寶七年(755年)二月、遠く九州は筑紫国に派遣された防人と万葉集にはある。
663年、百済に援軍を送った日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐−新羅の連合軍に大敗し、朝鮮半島から撤退を余儀なくされた。
以来、90余年を経た当時も朝鮮半島、大陸からの侵略に備えるため東国の農民を派遣し続けたのであった。
 この歌は東国の防人の望郷の歌であり、故郷に残した恋人に対する情愛を表わしたものである。
 当時の都は近畿地方大和盆地にあり、かって進んだ大陸文化の受け入れ口として栄えた九州はもはや辺境の地となっていた。
 広足の故郷の東国は都を挟んで九州とは反対方向にあり、やはり辺境の地と考えられていた。つまり東国の防人は辺境から辺境への移動を命じられたのであった。
 故郷に残した恋人を片山ツバキに例えることで、美人であることを暗示し、自分が留守の間に他の男に寝取られないか案じた切ない歌である。
 片山ツバキは ”かた”山つばきであろうが、”かた”の意味はわからない。



サ20 4419;天平勝宝7年2月29日,作者:物部真根,防人歌,埼玉,安曇三國,望郷,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首橘樹郡上丁物部真根
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

伊波呂尓波  安之布多氣騰母  須美与氣乎  都久之尓伊多里弖  古布志氣毛波母

家ろには 葦火焚けども 住みよけを 筑紫に至りて 恋しけ思はも 

いはろには あしふたけども すみよけを つくしにいたりて こふしけもはも
家では葦火を焚いても住み良いものを

筑紫に辿り着いてからは

家を恋しく思うだろうなあ
* 葦火を焚く炎を懐かしく思うだろう
* 葦火 葦などの草を燃料として焼く火。
  山国でない武蔵国の庶民にとっては、炭は高価な燃料であった。
* 恋しけ思はも 「恋しく思はむ」の東国訛り。
これに応えた妻 椋椅部弟女(くらはしべのおとめ)の歌も収録されている。
草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 吾が手とつけろ これの針(はる)持(も)し 

物部真根 もののべのまね 生没年未詳
武蔵国橘樹(たちばな)郡の人。上丁(かみつよほろ)。
天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣される。



サ4420;天平勝宝7年2月29日,作者:椋椅部弟女,防人歌,埼玉,安曇三國,枕詞,女歌,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首椋<椅>部弟女
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志

草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 吾が手と付けろ これの針持し 

[くさまくら] たびのまるねの ひもたえば あがてとつけろ これのはるもし
草を枕の旅のごろ寝に

袴の紐がとれてしまったら 

わたしの手と思って

この針で縫いつけて下さいね



サ20 4421;天平勝宝7年2月29日,作者:服部於由,防人歌,埼玉,安曇三國,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首都筑(つつき)郡上丁服部於<由>(はとりべのおゆ)
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢

吾が行きの 息づくしかば 足柄の 峰延ほ雲を 見とと偲はね 

わがゆきの いきづくしかば あしがらの みねはほくもを みととしのはね
私が去って 

ため息をつくときは

足柄の峰に延びる雲を

見て偲んでください




サ20 4422;天平勝宝7年2月29日,作者:妻服部呰女,防人歌,女歌,恋情,埼玉,安曇三國

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首妻服部呰女
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

和我世奈乎  都久之倍夜里弖  宇都久之美  於妣<波>等可奈々  阿也尓加母祢毛

吾が背なを 筑紫へ遣りて 愛しみ 帯は解かなな あやにかも寝も 

わがせなを つくしへやりて うつくしみ おびはとかなな あやにかもねも


夫を筑紫に送り出して 

淋しさに帯を解けず 

ああ どうして寝られようか



サ20 4423;天平勝宝7年2月29日,作者:藤原部等母麻呂,防人歌,埼玉,安曇三國,望郷,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首埼玉郡上丁藤原部等母麻呂(ともまろ)
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

安之我良乃  美佐可尓多志弖  蘇O布良波  伊波奈流伊毛波  佐夜尓美毛可母

足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも 

あしがらの みさかにたして そでふらば いはなるいもは さやにみもかも
足柄の 御坂峠に立って袖を振れば 

家の妻にはっきりと見えるだろうか
* 「立して」は「立ちて」
* 「家(いは)」は「家(いえ)」
* 「見も」は「見む」の東国訛り。
* 「袖振る」は鎮魂のためや、親愛の情を示すもの。



サ20 4424;天平勝宝7年2月29日,年紀,作者:妻物部刀自賣,防人歌,埼玉,安曇三國,女歌,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首妻物部刀自賣
/ 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之

伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無

色深く 背なが衣は 染めましを み坂給らば まさやかに見む 

いろぶかく せながころもは そめましを みさかたばらば まさやかにみむ
あなたの着ている衣をもっと色濃く染めておけばよかった

そうしておけばあなたが御坂を通していただくときに

はっきりと見えるだろうに
* 「背なが」は「夫(せな)が」もあり。
* 「た廻らば 多婆良婆(たばらば)」は「たまはらば」の意で、神への畏怖のため、峠を越えていくには「土地神の許し」が必要と信じられていたことをいう。




4413 天平勝宝7年2月29日,作者:桧前舎人石前妻:大伴部真足女,防人歌,埼玉,安曇三國,女歌,悲別

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首上丁那珂郡桧前舎人石前之妻大伴<部>真足女 ( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

麻久良多之 己志尓等里波伎 麻可奈之伎 西呂我馬伎己無 都久乃之良奈久

枕太刀 腰に取り佩き ま愛しき 背ろが罷き来む 月の知らなく 

まくらたし こしにとりはき まかなしき せろがまきこむ つくのしらなく
・・・・・・・・・・
枕大刀を腰に帯びて

愛しい夫が帰還されるのが

いつになるのか

知ることが出来ず不安です
・・・・・・・・・・
* 「枕大刀(まくらたし)」は枕元におく刀。
* 「佩(は)き」は、腰さす意の佩クの連用形。
* 「ま愛(かな)しき」は、真にを表す接頭語「ま」+「いとしい」意の、愛シの連体形。
* 「背(せ)ろ」は、夫や兄などを女性から親しみを持っていう語。「せな」の上代東国方言
* 「めき来む」の「めき」は、罷リ来ルの方言短縮形か。罷る、と謙譲語を使うのは、任務を終えて帰ることを意味するからか?
* 「月(つく)の知らなく」は、「・・を」の意の格助詞「の」
+「知る」の未然形+打消しの助動詞「ぬ」の未然形
+文末で詠嘆の意を表す接尾語「く」。



4414 天平勝宝7年2月29日,作者:大伴部小歳,防人歌,埼玉,安曇三國,悲別,羈旅

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首助丁秩父郡大伴部小歳 ( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之氣 麻古我弖波奈利 之末豆多比由久

大君の 命畏み 愛しけ 真子が手離り 島伝ひ行く 

おほきみの みことかしこみ うつくしけ まこがてはなり しまづたひゆく
・・・・・・・・・・
大君のご命令を畏れ多くも承り

かわいい妻子と別れて

船で島から島へ守りの勤めに就いている
・・・・・・・・・・
* 「まこ 真子が手離り」【真子】 1 魚類の腹にある卵。白子(しらこ)に対していう。 2 妻子を親しみ、いつくしんでいう語。遠ざかること。別れて行くこと。〔自ラ下二〕はなれる(離)。〔自ラ四〕「はなれる(離)」に同じ。
* 「愛 うつくしけ」(形容詞「うつくし」の連体形「うつくしき」にあたる上代東国方言)かわいい。




4415 天平勝宝7年2月29日,作者:物部歳徳,防人歌,埼玉,安曇三國,悲別,恋情,望郷

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首主帳荏原郡物部歳徳 ( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

志良多麻乎 弖尓刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也

白玉を 手に取り持して 見るのすも 家なる妹を また見てももや 

しらたまを てにとりもして みるのすも いへなるいもを またみてももや
・・・・・・・・・・
大切な真珠をこの手に取り持って

しげしげ見るように

家に待つ妻を

その妻をまたこ目で

見たいものだ
・・・・・・・・・・


サ4416;天平勝宝7年2月29日,作者:妻椋椅部刀自賣,防人歌,枕詞,女歌,留守,恋情,埼玉,安曇三國

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)

久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流祢世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受祢牟

草枕 旅行く背なが 丸寝せば 家なる我れは 紐解かず寝む 

[くさまくら] たびゆくせなが まるねせば いはなるわれは ひもとかずねむ

[左注]右一首妻椋椅部刀自賣
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

旅ゆく夫が着物も脱げず寝るなら

わたしも紐を解かず寝ます



サ20 4417;天平勝宝7年2月29日,作者:椋椅部荒虫妻:宇遅部黒女,防人歌,女歌,埼玉,安曇三國,恋情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
[左注]右一首豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女(くろめ)
( / 二月廿<九>日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之)

阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻<能>余許夜麻 加志由加也良牟

赤駒を 山野にはがし 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ 

あかごまを やまのにはかし とりかにて たまのよこやま かしゆかやらむ


乗っていた赤毛の馬を山野に放ち

捕らえかねて 

多摩の横山を歩いて行かせるのか 夫よ

* 馬が捕えられず、夫を徒歩で防人に発たせねばならないことを悔やむ。
* 東国訛り
「はがし」は「はなち」
「捕りかにて」は「とりかねて」
「かし」は「かち」


宇遅部黒女 うじべのくろめ 生没年未詳
武蔵国豊島郡の人。
上丁椋椅部(くらはしべの)荒虫(あらむし)の妻。
天平勝宝七歳(755)二月、夫は防人として筑紫に派遣された。

◇多摩の横山 今「多摩丘陵」と呼ばれる、東京都多摩市・府中市の丘陵地帯。武蔵国から相模国へ向かう途中にある。

<出典・転載」千人万首等より>


サ20 4408;天平勝宝7年2月23日,作者:大伴家持,防人歌,悲別,同情,望郷

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)陳防人悲別之情歌一首[并短歌]

[左注](二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持)
大王乃ー大君のー 
麻氣乃麻尓々々ー任けのまにまにー御任命により 
嶋守尓ー島守にー防人となり  
和我多知久礼婆ー吾が立ち来ればー私は旅立って来た  
波々蘇婆能ー[ははそ葉の]
波々能美許等波ー母の命はー母上は  
美母乃須蘇ーみ裳の裾ー衣の裾を 
都美安氣可伎奈Oー摘み上げ掻き撫でーつまみ優しく撫で  
知々能未乃ー[ちちの実の]  
知々能美許等波ー父の命はー父上は  
多久頭<努>能ー[栲づのの] 
之良比氣乃宇倍由ー白髭の上ゆー白い鬚の上に  
奈美太多利ー涙垂りー涙をこぼし 
奈氣伎乃多婆久ー嘆きのたばくー嘆きおっしゃった
可胡自母乃ー[鹿子じもの] 
多太比等里之○ーただ独りしてーただ独り 
安佐刀O乃ー朝戸出のー朝の戸を開け行ってしまう 
可奈之伎吾子ー愛しき吾が子ー愛しい吾が子よ  
安良多麻乃ー[あらたまの] 
等之能乎奈我久ー年の緒長くー長い年月を 
安比美受波ー相見ずはー相見ねば  
古非之久安流倍之ー恋しくあるべしーさぞ恋しいことだろう
今日太<尓>母ー今日だにもーせめて今日だけでも 
許等騰比勢武等ー言問ひせむとー話していたいと  
乎之美都々ー惜しみつつー時を惜しみ  
可奈之備麻勢婆ー悲しびませばー悲しまれた  
若草之ー[若草の] 
都麻母古騰母毛ー妻も子どももー妻も子供たちも  
乎知己知尓ーをちこちにー遠く近く あちこちに  
左波尓可久美為ーさはに囲み居ー皆私を囲み  
春鳥乃ー[春鳥の]  
己恵乃佐麻欲比ー声のさまよひー声は哀しくさまよう 
之路多倍乃ー[白栲の]
蘇O奈伎奴良之ー袖泣き濡らしー袖は泣き濡れ 
多豆佐波里ーたづさはりー手を取り合い  
和可礼加弖尓等ー別れかてにとー離れ難いときを  
比伎等騰米ー引き留めー引き止めようとする
之多比之毛能乎ー慕ひしものをー慕い続ける中を
天皇乃ー大君の
美許等可之古美ー命畏みー命を畏れ
多麻保己乃ー[玉桙の]
美知尓出立ー道に出で立ちー道に出で立ち
乎可<乃>佐伎ー岡の崎ー丘の岬を
伊多牟流其等尓ーい廻むるごとにー廻る度に
与呂頭多妣ー万たび  
可弊里見之都追ーかへり見しつつー振返り振返り見つつ  
波呂々々尓ーはろはろにーはるかに  
和可礼之久礼婆ー別れし来ればー別れて来た 
於毛布蘇良ー思ふそらー思い出す度  
夜須久母安良受ー安くもあらずー心苦しく  
古布流蘇良ー恋ふるそらー恋ふることは  
久流之伎毛乃乎ー苦しきものをー苦しいもの
宇都世美乃ーうつせみのー現世の  
与能比等奈礼婆ー世の人なれば  
多麻伎波流ー[たまきはる] 
伊能知母之良受ー命も知らず  
海原乃ー海原のー大海の  
可之古伎美知乎ー畏き道をー路を  
之麻豆多比ー島伝ひー島を伝い  
伊己藝和多利弖ーい漕ぎ渡りてー漕ぎ渡る
安里米具利ーあり廻りー時は巡り  
和我久流麻O尓ー吾が来るまでにー吾が帰るときまで  
多比良氣久ー平けくー御無事で  
於夜波伊麻佐祢ー親はいまさねー母上父上はおられよ
都々美奈久ーつつみなくー障りなく  
都麻波麻多世等ー妻は待たせとー妻よ待っていておくれと
須美乃延能ー住吉の  
安我須賣可未尓ー吾が統め神にー海神に  
奴佐麻都利幣奉りー幣を奉り
伊能里麻乎之弖ー祈り申してーお祈りする
奈尓波都尓ー難波津にー難波の津に  
船乎宇氣須恵ー船を浮け据ゑー船を浮かべ  
夜蘇加奴伎ー八十楫貫きー数多の楫を通し  
可古<等登>能倍弖ー水手ととのへてー水手を揃え  
安佐婢良伎ー朝開きー夜明けに 
和波己藝O奴等ー吾は漕ぎ出ぬとー私は漕ぎ出たと  
伊弊尓都氣己曽ー家に告げこそー吾が家に告げてください




サ20 4409;天平勝宝7年2月23日,作者:大伴家持,防人歌,望郷,同情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)(陳防人悲別之情歌一首[并短歌])
[左注](二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持)

[原文]伊弊婢等乃 伊波倍尓可安良牟 多比良氣久 布奈O波之奴等 於夜尓麻乎佐祢

家人の 斎へにかあらむ 平けく 船出はしぬと 親に申さね 

いへびとの いはへにかあらむ たひらけく ふなではしぬと おやにまをさね

家人の身を浄め斎ふので 

平安な船出だったと 

母父にお伝えください




サ20 4410;天平勝宝7年2月23日,作者:大伴家持,防人歌,望郷,悲別

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)(陳防人悲別之情歌一首[并短歌])
[左注](二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持)

美蘇良由久 々母々都可比等 比等波伊倍等 伊弊頭刀夜良武 多豆伎之良受母

み空行く 雲も使と 人は言へど 家づと遣らむ たづき知らずも 

みそらゆく くももつかひと ひとはいへど いへづとやらむ たづきしらずも
美しい大空をゆく雲も使いと云うが

家に言づてを送る手だてを知らずつらい




サ20 4411;天平勝宝7年2月23日,作者:大伴家持,防人歌,望郷,悲別,同情

[題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)(陳防人悲別之情歌一首[并短歌])
[左注](二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持)

伊弊都刀尓 可比曽比里弊流 波麻奈美波 伊也<之>久々々二 多可久与須礼騰

家づとに 貝ぞ拾へる 浜波は いやしくしくに 高く寄すれど 
いへづとに かひぞひりへる はまなみは いやしくしくに たかくよすれど

家への土産に貝を拾った 

濱波はいよいよ高く打ち寄せたが




サ20 4412;天平勝宝7年2月23日,作者:大伴家持,防人歌,望郷,同情,恋情

[題詞];(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)(陳防人悲別之情歌一首[并短歌])
[左注]二月廿三日兵部少輔大伴宿祢家持

之麻可氣尓 和我布祢波弖C 都氣也良牟 都可比乎奈美也 古非都々由加牟

島蔭に 吾が船泊てて 告げ遣らむ 使を無みや 恋ひつつ行かむ 

しまかげに わがふねはてて つげやらむ つかひをなみや こひつつゆかむ
島陰に船を泊めても

今を告げる使いはいない

ただ恋焦れて行くばかりだよ


<出典・転載」千人万首等より>



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