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4304 天平勝宝6年3月25日,作者:大伴家持,宴席,橘諸兄,山田比売島,賀歌,寿歌,主人讃美,属目,不誦 [題詞]同月廿五日左大臣橘卿宴于山田御母之宅歌一首 夜麻夫伎乃 花能左香利尓 可久乃其等 伎美乎見麻久波 知登世尓母我母 やまぶきの はなのさかりに かくのごと きみをみまくは ちとせにもがも ・・・・・・・・・・・
山吹の花の盛りに このようにして貴方にお会いすることが 千年も続いて欲しい ・・・・・・・・・・・ 4305 天平勝宝6年4月,作者:大伴家持,叙景 [題詞]詠霍公鳥歌一首 許乃久礼能 之氣伎乎乃倍乎 保等登藝須 奈伎弖故由奈理 伊麻之久良之母 このくれの しげきをのへを ほととぎす なきてこゆなり いましくらしも ・・・・・・・・・・・
* 「鳴きて越ゆなり」の「なり」は伝聞の助動詞で、ただ聞こえる意。茂みに隠れて姿は見えない。樹々の繁みでほの暗い尾根を越える ほととぎすの鳴き声が聞こえる 今にもこちらへやって来るようだ ・・・・・・・・・・・ * 「ほととぎす」は立夏四月のころ奥山から来て、五月端午の節句の頃また奥山へ帰ると考えられていた。 4306 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠(宴などで作られた歌でないことを示す) [題詞]七夕歌八首 <巻十の人麻呂歌集38首(1996〜2033)、巻八の山上憶良12首(1518〜1529)の連作が目立ったもので、家持の歌群は、牽牛・織女の二人が出逢うまでの時間の推移のうちに微細な心情の移り行きを追ったロマネスクな連作として、きわめて異色で新鮮味に満ちた作品です。《出典・転載[大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳]より》> 波都秋風 須受之伎由布弊 等香武等曽 比毛波牟須妣之 伊母尓安波牟多米 はつあきかぜ すずしきゆふへ とかむとぞ ひもはむすびし いもにあはむため ・・・・・・・・・・・
* 牽牛の立場。初秋風が涼しい今宵 すぐ解けるように 衣の紐は緩く結んだ 愛しいあの人と逢う時のために ・・・・・・・・・・・ 4307 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 秋等伊閇婆 許己呂曽伊多伎 宇多弖家尓 花仁奈蘇倍弖 見麻久保里香聞 あきといへば こころぞいたき うたてけに はなになそへて みまくほりかも ・・・・・・・・・・・
* 「うたて 異(け)に」-なにやらいよいよ。なぜかことさら。秋だと言えば なぜかことさら 心に苦痛を感じる 咲く花にも恋人が偲ばれて 切なくて逢いたくなるからだ ・・・・・・・・・・・ * 「心ぞ痛き うたて異に」は「うたて異に 心ぞ痛き」の倒置形。 * 「秋の花」は、萩・女郎花・撫子など、女性を連想させる花が多い。 4308 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 波都乎婆奈 <々々>尓見牟登之 安麻乃可波 弊奈里尓家良之 年緒奈我久 [はつをばな] はなにみむとし あまのがは へなりにけらし としのをながく ・・・・・・・・・・・
* 「花に見む」の「花」は、初咲きの花の新鮮さ・珍重すべきものの譬え。または、「(散りやすい花のように)あわただしく会う」「花妻(手を触れてはならない妻)として見る」など。初咲きの尾花のように 新鮮な気持ちで逢うために いつも天の川を隔てているのね 長の年月私たちは ・・・・・・・・・・・ 4309 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 秋風尓 奈妣久可波備能 尓故具左能 尓古餘可尓之母 於毛保由流香母 [あきかぜに なびくかはびの にこぐさの] にこよかにしも おもほゆるかも ・・・・・・・・・・・
* 織女の立場。天の川のほとり 秋風吹いて靡いてるにこ草 わたしも自然とにこやかに 顔がほころびているのね ・・・・・・・・・・・ 4310 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 安吉佐礼婆 奇里多知和多流 安麻能河波 伊之奈弥於可<婆> 都藝弖見牟可母 あきされば きりたちわたる あまのがは いしなみおかば つぎてみむかも ・・・・・・・・・・・
* 「石並」は、並んだ石(名詞)、並べる石(動詞)、何れにしようか。秋になるとね 天の川は 霧が深くなって見通せないの うまく飛び石を置いておけば 続けて明日も明後日も逢えないかしら ・・・・・・・・・・・ サ4311 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 秋風尓 伊麻香伊麻可等 比母等伎弖 宇良麻知乎流尓 月可多夫伎奴 あきかぜに いまかいまかと ひもときて うらまちをるに つきかたぶきぬ ・・・・・・・・・・・
今か今かもう来るかと 秋風が吹く音にさえ 気配を配り 紐を解いてまで 心待ちしているのに 月が沈みかけてしまったじゃないの ・・・・・・・・・・・ サ4312 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 秋草尓 於久之良都由能 安可受能未 安比見流毛乃乎 月乎之麻多牟 [あきくさに おくしらつゆの] あかずのみ あひみるものを つきをしまたむ ・・・・・・・・・・・
秋草に置く白露のように 心ひかれて飽くことはない 大事な逢瀬なのにあなたは来ない またの 月を待とうか 待つしかないのか ・・・・・・・・・・・ サ4313 天平勝宝6年7月7日,作者:大伴家持,七夕,独詠 [題詞](七夕歌八首) 安乎奈美尓 蘇弖佐閇奴礼弖 許具布祢乃 可之布流保刀尓 左欲布氣奈武可 あをなみに そでさへぬれて こぐふねの かしふるほとに さよふけなむか ・・・・・・・・・・・
* 「かし」は、舟をつなぎとめるために水中に立てる杭のこと。これが転じて「河岸」。天の川の青波で袖も濡らして漕いだ 舟を繋ぐ杭を打ち込む間も惜しい 夜はすっかり更けてしまうかも いろいろ気にするな 走れかのひとのもとへ ・・・・・・・・・・・ * 「ふる」は振り上げて(杭を)打ち込む意か。 サ4314 天平勝宝6年7月28日,作者:大伴家持 [題詞] 八千種尓 久佐奇乎宇恵弖 等伎其等尓 佐加牟波奈乎之 見都追思<努>波奈 やちくさに くさきをうゑて ときごとに さかむはなをし みつつしのはな
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* この歌の作られた少し前、七月十九日に太皇太后藤原宮子が崩御しています。服喪期間中の作か。何種類もの草木を植えて 季節ごとに咲く花を見ては楽しもう ・・・・・・・・・・・ |
万葉集(下書き)
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第二十巻 4293 天平勝宝5年5月,作者:元正天皇,伝誦,山田土麻呂,古歌,行幸,奈良,神仙,枕詞,大伴家持,藤原仲麻呂 [題詞]幸行於山村之時歌二首 / 先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宣賦和歌而奏即御口号曰 <山村(やまむら)に幸行(いでま)す時の歌二首。 先(さきの)太上天皇(おほきすめらみこと)、陪従(べいじゅ)の王臣(わうしん)に詔(みことのり)して曰(のりたま)はく、「それ諸王卿等(しょわうきゃうら)、よろしく和(こた)ふる歌を賦(ふ)して奏(まを)すべし」とのりたまふ。すなはち口号(くちずさ)びて曰(のり)はく> 安之比奇能 山行之可婆 山人乃 和礼尓依志米之 夜麻都刀曽許礼 [あしひきの] やまゆきしかば やまびとの われにえしめし やまづとぞこれ ・・・・・・・・・・・
* 「しむ」 使役・尊敬 上にくる語の活用形 未然形。使役をあらわす。〜させる朕が山に行ったところ 山の仙人が土産をくれた これがその土産である ・・・・・・・・・・・ 4294 天平勝宝5年5月,作者:舎人親王,伝誦,古歌,山田土麻呂,行幸,枕詞,奈良,神仙,大伴家持,藤原仲麻呂 [題詞](幸行於山村之時歌二首) / 舎人親王應詔奉和歌一首 安之比奇能 山尓由伎家牟 夜麻妣等能 情母之良受 山人夜多礼 [あしひきの] やまにゆきけむ やまびとの こころもしらず やまびとやたれ ・・・・・・・・・・・
* 「山人」は「仙人」の意。山においでになった陛下御自身は仙人でいらっしゃいますから 俗界の私たちに御心の程は分かりません 目の前におられる御自身は確かに仙人ですから 山の中にいた仙人と云うのは一体何者でしょう ・・・・・・・・・・・ 4295 天平勝宝5年8月12日,作者:大伴池主,高円,奈良,宴席 [題詞]天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首 多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母 たかまとの をばなふきこす あきかぜに ひもときあけな ただならずとも ・・・・・・・・・・・
高円の尾花がなびく秋風の野で 壷酒の紐を解いてくつろぎましょうよ 別に意味はなくても ・・・・・・・・・・・ 4296 天平勝宝5年8月12日,作者:中臣清麻呂,宴席,奈良,高円,叙景 [題詞](天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首) 安麻久母尓 可里曽奈久奈流 多加麻刀能 波疑乃之多婆波 毛美知安倍牟可聞 あまくもに かりぞなくなる たかまとの はぎのしたばは もみちあへむかも ・・・・・・・・・・・
雲間に雁が鳴いている 高円の野に咲く萩の下葉は 無事に黄葉していくことができるだろうか ・・・・・・・・・・・ 4297 天平勝宝5年8月12日,作者:大伴家持,高円,奈良,宴席 [題詞](天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首) 乎美奈<弊>之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽 をみなへし あきはぎしのぎ さをしかの つゆわけなかむ たかまとののぞ ・・・・・・・・・・・
おみなえしも秋萩をも踏み倒して 牡鹿が露を分けながら鳴くのだろう 高円の野で ・・・・・・・・・・・ 4298 天平勝宝6年1月4日,作者:大伴千室,賀歌,寿歌,大伴家持,宴席,古歌,伝誦 [題詞]六年正月四日氏人等賀集于少納言大伴宿祢家持之宅宴飲歌三首 霜上尓 安良礼多<婆>之里 伊夜麻之尓 安礼<波>麻為許牟 年緒奈我久 [古今未詳] [しものうへに あられたばしり] いやましに あれはまゐこむ,としのをながく ・・・・・・・・・・・
* 「とうか たふ」【踏歌】降りた霜の上に さらに霰が飛び散るように 度重ねて御宅に参上しましょう 何年もずっと ・・・・・・・・・・・ 足で地を踏み鳴らし、調子をとって祝歌を歌う集団歌舞。中国の民間行事が日本固有の歌垣(うたがき)と結びついたもの。持統朝頃から記録があり、平安朝期には年中行事化した。正月一四(一五)日の男踏歌、同一六日の女踏歌に分かれて宮廷の踏歌節会(とうかのせちえ)となる。歌の終わりに「万年(よろずよ)あられ」と唱えたため、「あられ走(ばし)り」ともいう。(三省堂 大辞林) * 「いや‐ま・す」【彌増】-〔自サ四〕いよいよ多くなる。ますます激しくなる。一段と募る。いよます。 * 「年の緒長く」 年の経るまでずっと長く。 4299 天平勝宝6年1月4日,作者:大伴村上,賀歌,寿歌,古歌,伝誦,宴席,主人讃美,大伴家持 [題詞](六年正月四日氏人等賀集于少納言大伴宿祢家持之宅宴飲歌三首) 年月波 安良多々々々尓 安比美礼騰 安我毛布伎美波 安伎太良奴可母 [古今未詳] としつきは あらたあらたに あひみれど あがもふきみは あきだらぬかも ・・・・・・・・・・・
歳月は 過ぎてもまた新たに巡り来ますが そのように繰り返しお逢いしても 私が大切に思う貴方を 見飽きるということがありません ・・・・・・・・・・・ 4300 天平勝宝6年1月4日,作者:大伴池主,宴席,賀歌,寿歌 [題詞](六年正月四日氏人等賀集于少納言大伴宿祢家持之宅宴飲歌三首) 可須美多都 春初乎 家布能其等 見牟登於毛倍波 多努之等曽毛布 [かすみたつ] はるのはじめを けふのごと みむとおもへば たのしとぞもふ ・・・・・・・・・・・
霞立つ新春の日に こうしてまた今日のように お逢いできると思えば 楽しく満ち足りた思いがします ・・・・・・・・・・・ 4301 天平勝宝6年1月7日,作者:安宿王,古歌,伝誦,宮廷,肆宴,宴席,孝謙天皇,聖武天皇,光明皇后,兵庫,忠誠 [題詞]七日天皇太上天皇皇大后<在>於東常宮南大殿肆宴歌一首 伊奈美野乃 安可良我之波々 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之 [いなみのの] あからがしはは ときはあれど きみをあがもふ ときはさねなし ・・・・・・・・・・・
* 「さ‐ね」 [副](奈良時代は、あとに打消しの語を伴って)少しも。決して。印南野の赤ら柏が色ずくのは時季が決まっているが 私が君を思うことは時の区別など決してありません ・・・・・・・・・・・ 4302 天平勝宝6年3月19日,作者:置始長谷,宴席,大伴家持,主人讃美 [題詞]三月十九日家持之庄(たどころ)門槻樹下宴飲歌二首 夜麻夫伎波 奈O都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々 可射之多里家利 やまぶきは なでつつおほさむ ありつつも きみきましつつ かざしたりけり ・・・・・・・・・・・
山吹はいつくしみ大切に育てます いつまでもずっと 貴方が来られるたびにされた 髪にかざすことができるように ・・・・・・・・・・・ 4303 天平勝宝6年3月19日,作者:大伴家持,宴席,賀歌,和歌,置始長谷 [題詞](三月十九日家持之庄門槻樹下宴飲歌二首) 和我勢故我 夜度乃也麻夫伎 佐吉弖安良婆 也麻受可欲波牟 伊夜登之能波尓 わがせこが やどのやまぶき さきてあらば やまずかよはむ いやとしのはに ・・・・・・・・・・・
あなたの家の山吹が咲いたなら 毎年必ず参りますよ ・・・・・・・・・・・ |
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19 4285;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日,宮廷,寿歌 [題詞]十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐<歌>三首 大宮能 内尓毛外尓母 米都良之久 布礼留大雪 莫踏祢乎之 おほみやの うちにもとにも めづらし ふれるおほゆき なふみそねをし 内裏の内にも外にもめずらしや
* 「な」は強い禁止を表わす副詞。「そ」を添えて表現を和らげ、「ね」と尊敬・親愛の籠もった希求の助詞ねまで付けているので、懇願に近い非常に丁寧な禁止になっている。大雪が降ったよ この吉兆の白雪をどうか踏み荒らさないで欲しい * 純白が清浄さを、また大雪が豊饒の吉兆と考えられ貴んだ。 * 「大宮の内にも外にも」降り積もった雪は、地上の王権を祝福する天からの贈物と考えられ、踏み荒らされてはならなかった。 19 4286;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日,叙景 [題詞](十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐<歌>三首) 御苑布能 竹林尓 鴬波 之波奈吉尓之乎 雪波布利都々 みそのふの たけのはやしに うぐひすは しばなきにしを ゆきはふりつつ もう春だよと鴬がしきりに鳴いているというのに
* 「ウグイス」はスズメ目ウグイス科。霍公鳥(ほととぎす)についで多くの歌に詠まれており、春(はる)、梅(うめ)とのセットで詠まれることが多い。御庭園の竹林には雪が降りつづいている 「鴬鳴くも」というフレーズが多い。 春に「ホーホケキョ」と鳴くことで知られており、早春に鳴くことから春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれている。 19 4287;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日 鴬能 鳴之可伎都尓 <々>保敝理之 梅此雪尓 宇都呂布良牟可 うぐひすの なきしかきつに にほへりし うめこのゆきに うつろふらむか 鴬が鳴いていた垣根の内では
*「垣内」は囲いの内側。梅が咲き誇っていたが この雪で散ってしまっていまいか * 宮中の庭園を眺めつつ、自宅で聞いた鴬の声を追想して詠んだものと考えられている。 4288;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月12日,宮廷 [題詞]十二日侍於内裏聞千鳥喧作歌一首 十二日、内裏に侍(さもら)ひて千鳥の喧くを聞きて作る歌一首 河渚尓母 雪波布礼々之 <宮>裏 智杼利鳴良之 為牟等己呂奈美 かはすにも ゆきはふれれし みやのうちに ちどりなくらし ゐむところなみ 川洲にも雪が降り積もったのか
* 千鳥が鳴くのは通例夜ということで、この歌は内裏に宿直していたか。御所の内で千鳥が鳴いている 居る場所がないのだろう * 孝謙天皇は平城宮の内裏にはほとんどお住まいでなかった。平城宮を常々お留守にしていたということは、孝謙天皇が実質的な執政をほとんど為さらなかった証で、言うまでもなく当時行政の実権は母皇太后の紫微中台に掌握されていた。 * 居場所を無くした悲しみに鳴く千鳥とは、家持自身に重なる。 *「降れゝし」は、動詞「フル」、命令形。+完了の助動詞「リ」、已然形。+強調の助詞「シ」。『萬葉集略解』では宣長の説として、シ(之)はヤ(也)の誤りとし、フレレヤと訓む。 * 「降れれば」→ラ行四段活用動詞「降る」の已然形「降れ」+助動詞・完了「り」の已然形「れ」+接続助詞・原因理由「ば」=雪が降ってしまったので。とみたい。 <第十九巻へ>http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/32078482.html 19 4289;作者:大伴家持,橘諸兄、天平勝宝5年2月19日,宴席,寿歌 [題詞]二月十九日於左大臣橘家宴見攀折柳條歌一首 二月十九日、左大臣橘家の宴にして、攀ぢ折れる柳の条(えだ)を見る歌一首 青柳乃 保都枝与治等理 可豆良久波 君之屋戸尓之 千年保久等曽 青柳の新芽の出た梢の枝を
*「ほつ枝」は、上の方の枝・新芽の出たばかりの枝。それだけ呪力が強いとされた。つかんで引き寄せ 手折って縵にするのは 吾が君の家に 千年の栄えを祈ってのことです * 「よじ‐と・る」攀ぢ取る。[動ラ四]つかんで引き寄せて折り取る。 サ19 4290;作者:大伴家持、天平勝宝5年2月23日,春愁,叙景,依興,悲嘆 [題詞]廿三日依興作歌二首 二十三日、興(こと)に依(つ)けて作る歌二首 春野尓 霞多奈i伎 宇良悲 許能暮影尓 鴬奈久母 はるののに かすみたなびき うらがなし このゆふかげに うぐひすなくも 春の野に霞がたなびく春の盛りなのに
* 「悲し」は、ある感情に胸をつまらさすような状態を指す言葉で、悲哀ばかりでなく、恋人や家族への愛しさ、美しい景色などに対しても、その感動を表現する。何となく物悲しい この夕暮れの薄明かりのなかで うぐいすが鳴いているなあ * 「夕影」の「かげ」は光の意。 * 「も」は、主として活用語の終止形に付き、詠嘆をあらわす終助詞。 * 家持はこの2年前に少納言に任ぜられ、越中から帰京しているが、政治の実権は藤原仲麻呂に握られ、家持には不満が募る時期にあたる。 [題詞](廿三日依興作歌二首) 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母 わがやどの いささむらたけ ふくかぜの おとのかそけき このゆふへかも わが家の庭のささ竹群を
* 「いささ群竹」は難解。イササを細波(ささなみ)などのササ(小さい意)と同根とし、ささやかな竹の群と解する説が有力だが、「五十竹葉」で竹の葉の多い意とする説(『萬葉集古義』)、「斎笹(ゆささ)」(10/2336)と同じで神聖な笹の葉の意とする説なども捨てがたい気がします。吹きわたる風の音が かすかに聞こえるこの夕暮れよ * 上二首の題詞に「興に依け」(依興)とあり、家持において「目を属(つ)けて」(属目)と対比的に用いられ、題詞はこれらが実景を目にしての作でない ―想像裡の作である― ことに注意。 <個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/31925021.html [題詞]廿五日作歌一首 宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比<登>里志於母倍婆 うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば [左注]春日遅々ネノ正啼 悽惆之意非歌難撥耳 仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱 作者名字徒録年月所處縁起者 皆大伴宿祢家持裁作歌詞也 うららかな陽光の春の日に
【付記】巻第十九の巻末歌。次の元正上皇の御製が巻第二十の巻頭です。雲雀の声も空高く舞い上がる なのに一人物思う私の心は悲しい 家持個人歌集の性格が強かった巻十九に対し、巻二十では、皇室から郡司の妻女・防人までを含む、より広い社会層から歌を集めようとの意図が見られます。また前三巻の浪漫性に対し、政治的な圧迫感が息苦しさを齋している、極めて現実性の強い歌巻であるとも言えるでしょう。その一方で、通奏低音のように元正・聖武両天皇への讃仰・追憶、そして天平の栄華に対する賛美の念が貫かれ、編纂者の意図かどうかはともかくとして、結果的に「締めくくり」の 思が濃厚な巻にもなっています。 (出典・記事転載「大伴家持全集 訳注編 Vol.3水垣 久 編訳」より。) |
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サ19 4279;作者:船王、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,序詞,奈良 [題詞]廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首 「林王」は舎人親王の孫、三島王の子。歌の作者船王の甥。 能登河乃 後者相牟 之麻之久母 別等伊倍婆 可奈之久母在香 のとがはの のちにはあはむ しましくも わかるといへば かなしくもあるか [左注]右一首治部卿船王(ふねのおおきみ) 「船王」は舎人親王の子、宝字元年の奈良麻呂の乱の際には与党を拷問する役を負っており、また宝字八年には押勝の乱に連座して隠岐に配流された。 能登川の名のように
のちにはお逢いしましょう しばらくの間とはいえ 別れ別れになるというのは悲しいことです サ19 4280;作者:大伴黒麻呂、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,寿歌 [題詞](廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首) 立別 君我伊麻左婆 之奇嶋能 人者和礼自久 伊波比弖麻多牟 たちわかれ きみがいまさば [しきしまの] ひとはわれじく いはひてまたむ [左注]右一首右京少進大伴宿祢黒麻呂 あなたの立ち去る別れは
* 「磯城島の」はヤマトにかかる枕詞。のちに大和・日本の別称となる。大和の人たちには我が事のように 物忌み謹んでお帰りをお待ちするでしょう ここの場合奈良麻呂の故郷である大和の国。 サ19 4281;作者:大伴家持、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,橘諸兄,推敲,添削 [題詞](廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首) 白雪能 布里之久山乎 越由加牟 君乎曽母等奈 伊吉能乎尓念 伊伎能乎尓須流 しらゆきの ふりしくやまを こえゆかむ きみをぞもとな いきのをにおもふ いきのをにする [左注]左大臣換尾云 伊伎能乎尓須流 然猶喩曰 如前誦之也 / 右一首少納言大伴宿祢家持 「左大臣」は奈良麻呂の父、橘諸兄。 雪の降り積もる山を越えて行くあなたを
* この「山」は、畿内と山陰地方とを隔てる山々(丹波高地)を指す。命と頼んでお慕いせずにはいられません * 「もとな」は、やけに・とめどなくの意。「もとな〜する」で、「〜されてどうしようもない」といった意味になる。 * 「息の緒」は、命の綱、頼みの綱。息は呼吸・生命・活力などの意。 緒は紐状に長く続いているもの。すなわち「息の緒に思ふ」で「生命を繋ぎとめてくれる頼みの綱と思う」のような意。<出典。転載(大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳)より> サ19 4282;作者:石上宅嗣、天平勝宝5年1月4日,宴席,恋愛,譬喩 [題詞]五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首 辞繁 不相問尓 梅花 雪尓之乎礼C 宇都呂波牟可母 [左注]右一首主人石上朝臣宅嗣 雪だ梅だと世間がうるさいので
梅の花が雪に映えるまもなく 萎れてしまうのかなあ 19 4283;作者:茨田王、天平勝宝5年(753)1月4日,宴席,恋愛,見立て,譬喩,石上宅嗣 [題詞](五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首) 五年正月四日、治部少輔石上朝臣宅嗣の家にして宴する歌 [左注]右一首中務大輔茨田王 梅花 開有之中尓 布敷賣流波 戀哉許母礼留 雪乎持等可 うめのはな さけるがなかに ふふめるは こひかこもれる ゆきをまつとか 梅の花の中にまだ蕾があるのは
* 「咲けるが中に」の「が中に」は、活用語の連体形に付いて、そのものを中心として見ての位置関係を示す。恋の思いを籠めて 雪が降るのを待っているのでしょうか 茨田王 まんたのおおきみ 生没年未詳 系譜などは未詳。 天平十一年(739)正月、従五位下に初叙。翌年、従五位上に昇る。 同十六年二月、聖武天皇の難波行幸に際し、少納言の官にあって、恭仁宮の駅鈴・内外印を難波宮に運ぶ。 その後、宮内大輔・越前守・中務大輔を歴任。 天平宝字元年(757)十二月には、越中守従五位上の地位にあった。 万葉集に一首の歌を残す。 サ19 4284;作者:道祖王、天平勝宝5年1月4日,宴席,石上宅嗣 [題詞](五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首) 新 年始尓 思共 伊牟礼C乎礼婆 宇礼之久母安流可 [左注]右一首大膳大夫道祖王 新しい年の初めに
打ち解けたもの同士集うのは 本当に嬉しいことですね |
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サ19 4273;作者:巨勢奈弖麻呂、天平勝宝4年11月25日,肆宴,宴席,応詔,大君讃美,寿歌,新嘗祭 [題詞]廿五日新甞會肆宴應詔歌六首 二十五日、新嘗会の肆宴に、詔に応ふる歌六首 天地与 相左可延牟等 大宮乎 都可倍麻都礼婆 貴久宇礼之伎 あめつちと あひさかえむと おほみやを つかへまつれば たふとくうれしき 天地と共に繁栄されるようにと
新嘗の大宮に奉仕いたしたのですから 貴くもも嬉しいことでございます サ19 4274;作者:石川年足 天尓波母 五百都綱波布 万代尓 國所知牟等 五百都々奈波布 あめにはも いほつつなはふ よろづよに くにしらさむと いほつつなはふ 御殿にたくさんの綱が張ってある
* 室内に沢山の綱を張るのは、その家の主の長寿を堅める呪術行為。万年の後までも国をお治めになろうと 数多い綱が張ってある 19 4275;作者:文屋真人 天地与 久万弖尓 万代尓 都可倍麻都良牟 黒酒白酒乎 あめつちと ひさしきまでに よろづよに つかへまつらむ くろきしろきを 天地とともに幾久しく
* 黒酒・白酒は新嘗会で神前に供える酒。万代までもお仕えいたしましょう 黒酒・白酒をお供え申し上げて 19 4276;作者:藤原八束 嶋山尓 照在橘 宇受尓左之 仕奉者 卿大夫等 しまやまに てれるたちばな うずにさし つかへまつるは まへつきみたち 庭の山<山斎(しま)>に輝く橘の実を
* 「つかえまつる」仕へ奉る。(動ラ四)「仕ふ」に動詞「まつる(奉)」の付いた語〕「仕える」の謙譲語。仕える対象に対する敬意を表す。髪飾りに挿してお仕えするのは 天皇の御前に伺候する高官たちです (目上の人に)お仕え申し上げる。 この宴会は,父聖武天皇が女帝孝謙天皇に天平勝宝元年(749年)に譲位した後,孝謙天皇の縁戚で急速に勢力を伸ばした藤原仲麻呂が,それまで聖武天皇とともに平城政治を中心的に担ってきた橘諸兄(葛城王)を脅かす存在になってきた時期で、天皇に仕える高官はほとんど橘諸兄派ですという<橘 うずに刺し>。 19 4277;作者:藤原永手 袖垂而 伊射吾苑尓 鴬乃 木傳令落 梅花見尓 そでたれて いざわがそのに うぐひすの こづたひちらす うめのはなみに 袖を垂らして
* 「袖垂れて」は、太平を暗示しているとのこと。さあ吾らが庭園に参りましょう 鴬が枝づたいに散らす 梅の花を見に * 「梅に鴬はふつう早春の取り合わせ」である。この歌はやがて訪れる新春を予祝したもの。 * 「大和国」、当時の正しい表記は「大倭国」。大和の用字に改められるのは天平宝字元年のこと。 藤原永手は北家房前の第二子、八束の同母兄。この年三十八歳で、八束と同じ従四位上。大倭守となったのは新嘗祭の直前のこと。のち、度々の政変を乗り切って昇進を重ね、天平神護二年、道鏡が法王となった同じ日に左大臣に至っている。 19 4278;作者:大伴家持 足日木乃 夜麻之多日影 可豆良家流 宇倍尓也左良尓 梅乎之<努>波牟 [あしひきの] やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ 山陰に生えるひかげのかずらを縵にした上
* 「山下日影」は、山陰のヒカゲノカズラ。天ウズメ命が天の岩戸の前で踊ったときヒカゲノカズラを縵にしていたと古事記にあり、太陽復活を祈る呪物であるという。(中西進『大伴家持』角川書店)。さらに梅の花を賞美しようとは 以下<出典・転載[フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]より> アメノウズメ; 紀の記述からは「神懸かって舞った」と読めるため、笑いをとることが彼女の踊りの目的ではない。むしろ手弱女であるが、恥じらいをかなぐり捨て乳房を出して半裸となり、踵を股の内側に、つま先を外側にひねって地を踵で強く踏む申楽のステップをする動作が重要で、下半身の力強さを演舞で表現したとみられる。その女相撲めいた武道的力(強女=オズメ)のエロティシズムに対して喝采が贈られ、乱闘的祭り(宴会?)の喧噪に天照大神の心が動いたと見る方が自然である。 天の岩戸の前におけるこのような彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の神に仕える巫女たちの姿を今に伝えるものであると考えることができる。この場合の神とはアマテラスという神格が与えられるより以前の古い太陽神信仰であり、後に太陽神の神格がアマテラスへと置き換わった後にもアメノウズメの立場までは置き換わらなかったために現在のような神話として伝わっている、と思われる。 このことを顕著に示す事例が、岩戸神楽の原型と伝えられる宮崎県西臼杵郡高千穂町の「高千穂の夜神楽」である。この神楽では、始めに素面で男性の舞手が日本刀の剣舞をした後、後半の舞で登場するアメノウズメは、左手に笹葉を模した木の枝を、右手に幣をつけた五十鈴を持って、中国の剣舞の「刺剣」の動作をしてスピン回転をしながら舞う。アマテラスは33番の最後に夜明けに高木(外注連)に降誕する神霊(タカギムスヒノカミ)と考えられていて、舞い手の神としては最後まで登場しない。そこで大神とされるのは、大わだつみの神である。 こうした踊りは、神を慰撫し、力を回復させるための踊り(巫=神凪/かんなぎ、神座/神楽=かみくら/かぐら/かみあそび)である。一方日本書紀においては「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」とあり、これは神の業をその身に招いて観衆を楽しませる姿を表している。このことが「俳優」の語源になっているように、神楽舞に連なるこれらの祭事は、日本の芸能の出発点となったことが確かである。 なお、ヤマト王権の大王(天皇家の祖)が行った古代の大嘗祭においても、大王家の祖神を祀る巫女たちが同様の神懸かりした激しい踊りを踊っていたということがわかっている。これは上記のような太陽神への祭事が変化したものであると考えられる。その背景は、大和王権が太陽神=アマテラスを祀りかつその子孫を標榜していたことに着目すると理解しやすい。 また天孫降臨の際にサルタヒコと応対し、その後、その名を負って猿女君を名乗ったという逸話も、サルタヒコが元々伊勢地方で崇められていた太陽神であったとされることから、アメノウズメが太陽神に使える巫女たちを神格化したものであることの証拠とも言える。猿女一族は古くから朝廷の祭祀と深く結びついていた一族であり、また猿女君は宮廷祭祀において神楽を舞うことを担当した神祇官の役職名である。 神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女」の意とする説や、中国風に髪を頭の上にあげ、蔦をかざし(髪をとめるピンやはちまき)にしてとめた「髻(ウズ)」を結った女性の意とする説などがある。 |


