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28;作者:持統天皇,飛鳥,枕詞 [題詞]藤原宮御宇天皇代[高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 <尊>号曰太上天皇] / 天皇御製歌 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 はるすぎて なつきたるらし [しろたへの] ころもほしたり あめのかぐやま 春は過ぎ去って
夏がやって来たらしい 白い衣が乾してある 天の香具山に * 「て」は、活用語の連用形につき、その動作・状態が一旦区切れることをあらわす。継起・並列・逆接などに使うが、「て」自体にそうした意味作用があるというより、前後の文脈から判断されるもの。 * 「白栲の」栲(たえ)で織りあげた白布で製った衣。栲は楮(こうぞ)などの樹皮から採った繊維。挽歌にも使われる語句。 * 「天の香具山」ー奈良県橿原市。大和三山の一つ。天から降ってきた山であるとの伝承があり(伊予国風土記逸文)、それゆえ「天の」が付いた。 * 「らし」は推定の助動詞。 * 「たり」は完了・存続存続の助動詞。動詞の連用形に付く。動作が完了し、なお継続しているとの判断をあらわす。「〜している」、「〜してある」。 * 持統天皇(53歳)が孫の文武に皇位継承を行うころの歌。 ・・・・・・・・・・・・ ー小倉百人一首2−の場合。 <新古今集・巻三・夏・に「題知らず 持統天皇御歌」> ・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつか春はすぎさり もう夏がやってきたらしい 夏になると大和三山のひとつ 天の香具山のほとりには 夏のならわしと 白妙の衣ほすという 若葉の中 衣がひらひらと かがやいているのが見える ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春すぎて 夏来にけらし; 「春」は陰暦一・二・三月。 「夏」は陰暦四・五・六月。 「て」は接続助詞。 「来ーき」はカ行変格活用動詞「来ーく」の連用形。 「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。 「けらし」は「けるらし」がつづまって一語となった(複合)助動詞。 「け」は過去の助動詞「けり」の連体形「ける」の「る」の音節脱落の形式。 「らし」は確かな根拠をもとにした推量の助動詞終止形。故に「けらし」は両者の意を含む過去の推量。 以上で二句切。 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山; 「白妙」は真っ白の意。 「白妙の」は「衣」に枕詞ともなる。、「ほす」は動詞終止形。 「てふ」は「といふ」の複合語で、四段活用動詞の「てふ」の連体形。 「天の香具山」は奈良県樫原市にある大和三山の一つ。上代訓は「あめ」。 体言止。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 春過ぎて 夏来たるらし しろたへの 衣ほしたり 天の香具山 万葉集 「夏きたるらし」→「夏来にけらし」 「衣ほしたり」→「衣ほすてふ」と変更されている。 ・・・・・・・・・・ <ブログ[北極星は北の空から〜ブログの中に]より転載> 藤原定家の時代の歌は、断言調・直言風な口調を嫌い、 婉曲で優美、暗示的な口吻を好んだ。 王朝時代、香具山には甘橿明神がいて,この神は衣を濡らして人の言葉のうそかまことかを糾したという、王朝の人々はその伝説を知っていてそれをふまえて「衣ほすてふ」としたのではないかという。 伝説を頭において歌を詠むのなら、なるほど、「衣ほすてふ」の方がすわりは良い。 定家という歌人は言葉の魔術師みたいなところがあるから、彼からみると、 元の歌の万葉集の持統天皇の歌は、「題材は良いが、ひとこと、ふたこと、直せばもっと良くなるのに」という、いかにも添削意欲をそそる歌であったのかもしれない。 もとの歌のように、目の前で見たものを即歌にするというのは、いかにも初歩的で、いっぺん自分の内で濾して、虚で真実を歌うという作業をしないと歌にならぬ、と思ったのかも知れない。 即興的な場合を除き、このような作業を凝らすことで、歌に心を吹き込んでいたのであろう。 この持統天皇は、ご存知女帝である。天智天皇の第二皇女。夫の大海人皇子(おおあまのみこ)をたすけて、壬申の乱では共に戦い、勝利を手にする。 夫は天武天皇となり、男勝りで非情冷静な性格の女性だったらしく、 天武天皇が崩御されると、間髪を入れず、わが子のライバル異腹の皇子、 大津皇子を殺したりしている。 庶民の困苦をかえりみず、度々行幸したりして、その生涯はまだ解明されていない謎にみちている。 しかし、草壁皇子夭折ののち、みずから即位して父である天智天皇、 夫の天武天皇が遣り残した、律令政治の礎を固めた。 また唐の都に習った藤原の宮を造り、柿本人麿などの宮廷歌人を輩出させ、 万葉集の黄金時代をつくった。 藤原の宮は、内裏、大極殿、朝堂(十二堂)と、朝集殿を北から南へ配置した、九百二十平方メートルの広い区域が定められていたというから、 壮大な宮殿の奥での持統女帝の生活は豪奢を極めていたことであろう。 ここで八年在位し文武天皇に譲位した。 政治家としても夫をしのぐほどであったといわれる。 ・・・・・・・・・ 持統天皇(645〜702)第四十一代天皇。 風光明媚な藤原に遷都し唐の都に習い大規模な藤原の宮を造営し、 政治に手腕を奮い、和歌、雅楽などの文化に大きな影響を残したが、 庶民の暮らしはあまりかえりみられなかった。 【ゆかりの地】天の香具山。 舒明天皇の歌(万1-2)では国見をする山として詠まれ、天智天皇の歌(万1-13)では畝傍山をめぐって耳成山と争ったことが詠まれている。ほかにも万葉集には「いにしへのことは知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山」と太古の伝説を有する山として、また「ひさかたの天の香具山この夕へ霞たなびく春たつらしも」と季節の到来を告げる山として仰がれた。古今集以後はほとんど歌に詠まれなくなるが、平安末期に至って歌枕として復活し、新古今集にはこの山を詠んだ歌が四首みえる。実際は小丘陵にすぎないのだが、「ひさかたの雲井に春のたちぬれば空にぞ霞む天のかぐ山」(藤原良経)など、王朝歌人たちは天空に聳え立つ山としてイメージしていた。(小倉百人一首 注釈) 出典・転載元;三木幸信・中川浩文共著・小倉百人一首 注釈(千人万首)>等より。 ・・・・・・・ <リンク先記事等転載> |
万葉集索引第一巻
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119;雑歌,作者:井戸王,枕詞 [題詞]((額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌)反歌) * 井戸王は神託を述べる役割の人物か。 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢 へそかたの はやしのさきの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ [左注]右一首歌今案不似和歌 但舊本載于此次 故以猶載焉 ・・・・・・・・・
へそかた(三輪山)の 《蛇姿の大物神が、へそ(糸巻き)を残した神話の山》 林の先端の野榛が衣によく付くように よく目につく私の愛しい人よ ・・・・・・・・・ * 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略を恐れた。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築いた。 * 「へそかたの」三輪神話上の糸巻き「綜麻、へそ(糸巻き)」。 * 「吾が背」私の愛しい人(天智天皇=大物神) ・・・・・・・・ |

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1-9 雑歌,作者:額田王,紀州,和歌山,難訓,厳橿,斎橿,植物 [題詞]幸于紀温泉之時額田王作歌 [原文]莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 [仮名],*****,*******,わがせこが,いたたせりけむ,いつかしがもと [左注]
(上二句難読)
…わがせこが いたたせりけむ いつかしがもと …愛しいあなたが お立ちになっていたであろう 神聖な橿の木の下 ・・・・・・ 鎮まりし雷神よ起きるな わが君のお立ちになった 神聖な樫の木の下に (土橋利彦説から訳した場合) ・・・・・・ 鎮まっていた浦の浪がいま騒いでいる わが君がお立ちになった神聖な樫の木の下で (澤潟久孝説から訳した場合) ・・・・・・ <古事記下巻、雄略天皇の歌に 「みもろの いつかしが本 樫が下 ゆゆしきかも かしはら童女」がある。神聖な樫の下という歌言葉はすでにあった> 鎮まりなさい周りの者よ とつ国の高官が拝謁する わが君がお立ちになられています 神聖な樫の木の下に (松本清張説から訳した場合) ・・・・・・ まとまりの 星つめ行けど 我が背子が 射立たせかねて 五つ星かも (鈴木健次説の場合)まとまりの星は北斗七星。五つ星はカシオペア。 行幸の進み具合が遅すぎて、弓型の五つ星が射掛けられないほど北斗七星は山陰に隠れてしまう。 <兄中大兄と弟大海人の運命を暗示か> ・・・・・・ この歌の「吾が背子」とは斉明紀4年11月条にみえる紀国藤白坂で絞首された有馬皇子を指し、「厳橿が本」とは皇子にその木の下に穴を掘らせ、そこで絞首した後下に落として埋葬した穴のある「厳橿の根本」であったと考えられます。 伊藤博筑波大学名誉教授が「省却」と題する随想の中で[1-9]歌の「我が背子」は通説の大海人皇子ではなく有馬皇子と断定しておられる。 ・・・・・・ 万葉雑記 難訓歌の周辺<ブログ[万葉集 柿本人麻呂と高市皇子]より転載。 万葉集「奈弖之故(なでしこ)」で説明したように、万葉集の最初期に位置する歌は、その編者である丹比真人国人の手によって補足されてます。すると、私の推測では、原型を留める歌と伝承歌からの丹比国人の手による修正歌との二種類に分かれることになります。 では、どのような歌が原型を留める歌でしょうか。一つには、借名字表記の難訓歌があると思います。丹比国人は、万葉集「奈弖之故」の編纂で短歌形式の整ったものについては、そのまま修正せずに載せたと思ってます。それで、統一された万葉仮名に慣れた私達にとって難訓なのでしょう。事例を挙げると次の歌々です。 集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本 試読 穏(しづ)まりし浦波(うらなみ)騒(さゑ)く吾(あ)が背子の偉(い)建(た)てせけむ厳橿(いつかし)が本(もと) 意訳 神武天皇を苦しめた丹敷戸畔(にしきとべ)も討伐されましたし、牟漏(むろ)の荒坂の浦に立っていた荒波も収まり穏やかになってきたようです。私の愛しい背の君が御造りになった橿原宮の本になった行宮よ ・・・・・・ そしてもう一人、額田女王が「わが背子」と呼ぶ方がいる。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku245.htm 心のなごむことであった
白雉4年(653年)中大兄皇子は孝徳天皇の反対を押し切って、できたばかりの難波宮を捨てて大和へ遷ってしまった。このとき、孝徳天皇の皇后である間人皇女も孝徳天皇を置き去りにして中大兄皇子に従った。。 何回も愛をかわすのが終わり わが君は 触れてはならない女性(間人皇女)のところに 帰っていったよ
これほど間人皇女と中大兄皇子は親密だったので、当時は、間人皇女と中大兄皇子の仲は知らないものはいなかったのであろう。タブーとされた同母妹と関係を持った中大兄皇子は、23年もの長い間即位しなかった。皇太子のまま政務を執っていた彼が、即位して天智天皇となったのは、間人皇后が亡くなってから3年後のことである。<抜粋転載>
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15;作者:中大兄,三山歌,兵庫,妻争い [題詞]((中大兄[近江宮御宇天皇]<三山歌>)反歌) わたつみの とよはたくもに いりひさし こよひのつくよ さやけくありこそ ・・・・・・・・・・
はてしない海原の上に 夕日に輝きながらたなびく豊旗雲 豊かになびく雲に 入る日を見た今宵の月夜よ 清らかであれ ・・・・・・・・・・
渡津海乃ーわたつみのー海神のー海を支配する神。海そのものをも言う。
* 「こそ」は他に誂え望む終助詞。スミアカクコソ・アキラケクコソ・キヨクテリコソなどの訓み方がある。いずれにしても、夜の航海が安全であれ。安全であるようにして欲しいものよ。の意。 豊旗雲尓ーとよはたくもにー豊旗雲にー「豊旗雲」未詳。旗のように横に長くたなびく雲のこと。「豊」は美称、「旗雲」は旗(吹き流し)のように水平方向にたなびく雲であろう。 伊理比<紗>之ーいりひさしー入日さし 今夜乃月夜ーこよひのつくよー今夜の月夜 清明己曽ーさやけくありこそー↓ ・・・・・・・・・ 天智天皇 てんじてんのう 推古三四〜天智一〇(626〜671) 諱:葛城皇子 略伝
舒明天皇の皇子。母は斉明天皇。大海人皇子・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母兄。倭姫王(古人大兄の子)を正室とする。大友皇子・大田皇女・菟野皇女(持統天皇)・建皇子・川島皇子・御名部皇女・阿閉皇女(元明天皇)・志貴皇子らの父。
その皇統は壬申の乱によってひとたび途絶えたが、奈良朝末期、志貴皇子の子白壁王が即位して(光仁天皇)復活し、その子桓武天皇が平安京を開くに至る。以後も皇位は天智天皇の系譜が引き継がれることとなった。斉明七年(661)、百済救援を目的とする斉明天皇の新羅征討に同行するが、天皇は筑紫で崩じたため、即位の式をあげぬまま皇位を継承した。 天智元年(662)、近江令を制定(『藤氏家伝』)。翌年、兵を新羅に派遣するが、白村江の戦で唐軍に大敗し、百済は滅亡した。 同三年、唐・新羅の侵攻に備え、防人を置き、筑紫に水城を築造する。 同六年、近江大津宮に遷都。翌年、即位。 同九年、日本最初の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成する。 同十年、大友皇子を太政大臣に任命する。 同年十二月三日、崩御。四十六歳。
(出典・記事転載元)[千人万首]。
・・・・・・・・・・・【名歌鑑賞1−1】森 明著
(万葉集1・15)
http://f-kowbow.com/ron/meika01/meika01.htm |


