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17;雑歌,作者:額田王,天智,三輪山,鎮魂,国魂,枕詞,代作 [題詞]額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌 [左注](右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰 遷都近江國時 御覧三輪山御歌焉 日本書紀曰 六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江) ・・・・・・・・・
* 道の曲がり角ごとに幾度も振り返ってなつかしむさまは、国境を越える際の儀礼だったという。またこれらの歌は、額田王の、愛する大海人皇子との別れ、中大兄皇子に従って近江に下らなければならない切ない気持ちを表したとする見方もある。(出典・転載[千人万首]等)。↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー 味酒ー[うまさけ] 三輪乃山ー三輪の山ーみわのやまーなつかしい三輪の山よ 青丹吉ー[あをによし] 奈良能山乃ー奈良の山のーならのやまのー奈良山が 山際ー山の際にーやまのまにー山の間に 伊隠萬代ーい隠るまでーいかくるまでー隠れてしまうまで 道隈ー道の隈ーみちのくまー道の曲がり角が 伊積流萬代尓ーい積もるまでにーいつもるまでにー幾重にも重なるまで 委曲毛ーつばらにもーよくよくつまびらかに 見管行武雄ー見つつ行かむをーみつつゆかむをー見ながら行きたいのに 數々毛ーしばしばもー何度でも 見放武八萬雄ー見放けむ山をーみさけむやまをー望み見たい山なのに 情無ー心なくーこころなくー無情にも 雲乃ー雲のーくものー雲が 隠障倍之也ー隠さふべしやーかくさふべしやーさえぎり隠してよいものか ・・・・・・・・・ |
万葉集索引第一巻
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18;雑歌,作者:額田王,天智,三輪山,鎮魂,国魂,代作 [題詞](額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌)反歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉 みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなも かくさふべしや ・・・・・・・・・
大和の国の三輪山を なぜそのように隠すのか せめて雲だけにでも思いやりはないのか 隠したりなんかするな こら! ・・・・・・・・・ * 「しかも」は、「しか(副詞)」+「も(係助詞)」〜「か(疑問の助詞」の用法で、「なんだって、三輪山を隠すんだ?」。
* 「雲だにも」の「だに・も」は、「〜に過ぎないのに」「〜のくせに」「〜の分際で」の意。「なんだって、三輪山を隠すのか? 雲の分際で!」 *「も」は感情を添える。「だに」は、副助詞。種々の語を承け、それを最低限・最小限のものごととして提示する。「せめて〜だけでも」の意。願望・命令などと呼応することが多い。 * 「心あらなも」は願望で、「願望の意思をもって」。「なむ(なも)」は、 希望の終助詞。 活用語の未然形に接続し、 話しかける相手に対し「〜してほしい」という希望の意をあらわす。助詞「な」に助詞「も」が添わった「なも」が古形で、転じて「なむ」となった。「な」とだけ言うのに比べ、より詠嘆的なニュアンスが伴う。 * 「かくさふべし」には、「隠さふべし」と「かく、沿(そ)ふべし」が掛けられている。 * 「べし」は、「意思をもってそうする」の意。 * 「や」長歌の「や」(反語)とは異なり、ここでは、確認・呼びかけの時に発する「〜だな」や「〜のか」のような。全体では相手への強い不快感を表す恫喝の意をこめた言葉になっている。 * 「心あらなも 隠さふべしや」は倒置法。 * 「雲」は遷都に不満な者たちとみればわかりやすい。 |
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19;雑歌,作者:井戸王,枕詞 [題詞]((額田王下近江國時<作>歌井戸王即和歌)反歌) 綜麻形乃 林始乃 狭野榛能 衣尓著成 目尓都久和我勢 へそかたの はやしのさきの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ [左注]右一首歌今案不似和歌 但舊本載于此次 故以猶載焉 ・・・・・・・・・
へそかた(三輪山)の 林の先端の野榛が衣によく付くように よく目につく私の愛しい人よ ・・・・・・・・・ * 663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した中大兄皇子は、唐の侵略を恐れた。そのため、都を内陸深く近江に遷し、各地に城を築いた。
・・・・・・・・ 【名歌鑑賞15:三輪山惜別歌】森 明著 <万葉集巻一・雑歌:17・18・19歌> http://f-kowbow.com/ron/meika15/meika15.htm |
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画像転載元<植物園へようこそ> むらさき 山地や草原に自生する多年草です。根が太く紫色で,古代の服色最高位の紫色を染めるための染料として使われました。意外なことに,花は白色でした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1 20 雑歌,作者:額田王,滋賀,野遊び,求婚,宴席,枕詞,植物 [題詞]天皇遊猟蒲生野時額田王作歌 [原文]茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 [仮名] [あかねさす] むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる 茜色に輝く紫草が栽培されている野には
天皇の番人がいます その番人たちに見られてしまうではありませんか あなたが私に袖を振っているのを ・・・・・・・・・・ 空が茜色になると地上は紫に染まる<借 五節句さん記事より> 良き日和に恵まれ 大君の神聖な蒲生野で 皇弟諸王内臣及群臣 皆悉く従焉されての 紫草の生える野 狩場の標(しめ)を張ったその野で 大君遊猟の大会は開催された 殿方は颯爽と雄々しく狩猟に熱中され 女の方々ははしゃぎながら紫草を摘んだ 皇弟の君はさかんに腕を振るって指揮され 時にはわたしたちに向かっても袖を振られた こうしてよき一日は宴会で締め括られた。と伝わる。 その宴会の席で大海人が武骨な舞を舞って、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、額田王がからかいかけた。 《私に恋しているという袖振りをなさると、野守が見咎めませんか、君よ。》 この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、大海人は「にほへる妹」と、しっぺい返しをしてみせた。 <私が袖を振るとすれば、大君の皇女鸕野讃良にときまっているじゃないか。> 《でもこの歌のやりとりは受けたわ。満場大喝采。鸕野讃良なんかだれも気付きはしない。あなたとわたしの子、十市皇女は今上の大君天智天皇の大友皇子の正妃。わたしはその母なんだから。勘違いしないでね!。私が愛している「君」は生涯にただ一人天智天皇なのだから。あなたのことはきっぱり忘れています。》
* 大海人皇子の応じた歌 「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/30248030.html
この二首が相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる。宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道。(千人万首)
* 「あかねさす」は、赤い色がさして光り輝く意から日・光・昼・紫・君などにかかる枕詞。「紫もあかき気のにほふなればつづけたり」(賀茂真淵『冠辞考』)* 「紫野」紫草の生えている野原。貴重な染料であった紫草を栽培した野。 * 「標野」は、標(しめ)を張って、一般人の立ち入りを禁じた、皇室・貴人などが領有した野。禁野。標(しめ)とは、占有のしるし。縄を張ったり杭を打ったりした。 * 「野守」は、禁猟の野を守る人。野の番人。(ここでは暗に天智天皇を意識説あり。) * 「見ず・や」「や」は終助詞。反語。 * 「が」は連体修飾語をつくる格助詞。 * 「袖振る」の原意は「相手の霊魂をこちらへ招き寄せる呪術」であっが、 後には単に「求愛の仕草」となった。 * 天武天皇名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている * 壬申の乱直前、吉野隠棲時では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。 * 日本の皇族である額田王(ぬかたのおおきみ、ぬかたのきみ、生没年不詳)の出生地に関しては大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)に求める説がある。現在の奈良県平栗郡で「額田の郷」と呼ばれたあたりの豪族鏡王の娘で、鏡女王の妹とされているが同一人という説もある。身分が微妙で、采女ほど低くはないし、巫女でもないという説がある。 * 天智天皇、天武天皇=大海人皇子の二人と結婚(妃または采女)したが別れている。『日本書紀』には鏡王(かがみのおおきみ)の娘で大海人皇子(天武天皇)に嫁し十市皇女を生むとある。鏡王は他史料に見えないが「王」称から2世 - 5世の皇族(王族)と推定され一説に宣化天皇の曾孫という、また近江国野洲郡鏡里の豪族で壬申の乱の際に戦死したともいう。[ウィキ]。 「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」 斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説(直木孝次郎)の神功紀にある、「神託」に関わるような、額田王は特別な地位・立場をもつ女性ではなかったかとも推測する。 額田王・天智天皇は単なる男女関係ではなく、二人称「貴国」を、はっきり一人称「神国日本」とする統一国家日本建国を、神託され推進した同志関係であったとも考えられる。 しかし資料・記録・伝説伝承類は一切なく、妄想で終わるしかない。 7世紀、和歌は 現代では信じられない重要かつ神秘なものであった。 見事な歌は、ときに神の怒りを鎮め、人々の動乱を治めた。 額田王は 言魂の宿る歌を詠む力を持ち、神が宿ると信じられ、公の行事でも天皇に代わって歌を作った(御言持ち)。時の天皇は斉明天皇。その宮廷歌人としか歴史は語らない。 御言持ちとは天皇の心を歌を通じて広く群臣・民に伝える役であった。 神と交信する巫女的能力を備えていて、政治を仕切る権力者の力を増幅した。このことを後世は評価しなくなった。 額田王・天智天皇の生きた時代は白村江敗戦もあり、国家存亡の危機を孕んだ時代であった。 大和朝廷は天皇家と物部氏の「和」=連合によって成り立っていた。 天皇は、物部氏より妃を得て即位する。妃は神事を行い、神の意を受信し神意に基づいて天皇が政治を行った。 額田王も物部氏の最高位にあったと伝承されている。単なる巫女や後宮の一女性とするのは後世の貶めのようだ。 「王」の名の示すとおり皇族であり連合政権の要でもあった。 卑弥呼を思うとき、額田王・天智天皇を無視できない。 しかし、額田王につながる物部氏の勢力は、天智天皇が「大化の改新」でやりきれなかった土地改革を藤原不比等と組んでやり抜いた持統天皇によって、その膨大な土地を召し上げられる事で消滅した。 また天皇家の地位を強調する正史「日本書記」が成立し、この過程で、額田王の出自は、物部氏と天皇家との関わりが消されていくと共に抹消されていった。 近江天皇を思ひて作る歌 額田王 「君待つと わが恋いをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」 近江天皇とは、天智天皇。 これを単に恋歌と見ることできない。 * 公的には斉明朝から持統朝に活躍した万葉歌人である。 額田王(『万葉集』)の表記が一般的だが額田女王、額田姫王(『日本書紀』)又は額田部姫王(『薬師寺縁起』)とも記される。 * 『万葉集』『日本書紀』に見える鏡姫王(鏡王女)を姉とする説もあるが(本居宣長『玉勝間』)それは「鏡王女」の表記を「鏡王の女(むすめ)」と解釈したもので無理があるとの意見もある。また表記の解釈は同様で「鏡王の女(むすめ)」とは額田王自身のことを指すのではないかという新説も提出されている[ウィキ]。 * 「十市皇女」(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) - 天武天皇7年4月7日(678年5月3日))は天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。 * 「大友皇子」 天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。天智後継者として統治したが壬申の乱において叔父・大海人皇子に敗北し自害する。 生存は、正妃:十市皇女(天武天皇皇女)子の 葛野王 - 淡海真人・朝臣の祖(→淡海三船) * 「葛野王」、母・十市皇女も早世(自殺・暗殺説)し、自身も複雑な血統の中、それなりの出世は果たしたが、結局早世してしまった。子孫も孫の三船以降は天武系から天智系への皇統移行とほぼ同時に歴史から消えた。 |
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28;作者:持統天皇,飛鳥,枕詞 |



