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34 [題詞](紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或いは云く、山上臣憶良が作) [左注](日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸す。) 白浪乃濱松之枝乃手向草幾代左右二賀年乃經去良武 [一云 年者經尓計武] [しらなみの]はままつがえのたむけくさいくよまでにかとしのへぬらむ[としはへにけむ] 白波の寄せる浜辺の
松の枝に引き結んだ御供えは どれほどの年月が経ったのだろうか ・・・・・ 白波寄せる海岸の松の枝に結ばれた手向けの幣は どれほどの歳月を経ているのだろう(歳月を経てきたのだろう) ・・・・・・・・・・・ * 白浪乃 ー[しらなみの]ー白波の、 * 濱松之枝乃ーはままつがえのー浜松が枝のー有間皇子が刑場へ向かう道中 「磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む」 と詠んだのと同じ松の枝であろう。 * 手向草ーたむけくさー手向けぐさー旅の無事を祈って土地の神に捧げるもの。(布・木綿・糸・紙などを用いた。この場合、松の枝に紐状のものを結んだか。) * 幾代左右二賀ーいくよまでにかー幾代までにか、 年乃經去良武 [一云 年者經尓計武]ーとしのへぬらむ,[としはへにけむ] 年の経ぬらむ [一云 年は経にけむ]、 ・・・・・・・・・・ ◎ 【名歌鑑賞20:大津皇子事件2(河島皇子の関与)】森 明著 <大津皇子事件における河島皇子の関与> http://f-kowbow.com/ron/meika20/meika20.htm ◎ 【名歌鑑賞20:大津皇子事件2(河島皇子の関与)】 森 明 著 http://f-kowbow.com/ron/meika20/meika20.htm#注3 http://f-kowbow.com/ron/meika20/meika20.htm#注2 http://f-kowbow.com/ron/meika20/meika20.htm#注1 , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , 川島皇子 かわしまのみこ 斉明三〜持統五(657-691) 天智天皇の皇子(『懐風藻』によれば第二子)。母は忍海造小竜女、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)。泊瀬部皇女(天武天皇の皇女)を妻とする。『新撰姓氏録』によれば春原朝臣・淡海朝臣の祖。志貴皇子の異母兄。 天武八年(679)、吉野での六皇子の盟約に参加。同十年、忍壁皇子らと「帝紀及び上古の諸事」を記し定め、同十四年、浄大参位を授けられる。朱鳥元年(686)、大津皇子の謀反を密告。持統四年(690)、紀伊・伊勢行幸に従駕する。この時の歌が万葉集に残り(巻1-34)、新古今集にも採られている。同五年九月九日薨去し、越智野に葬られた。三十五歳。『懐風藻』に漢詩一首が見える。 (出典)千人万首 |
万葉集索引第一巻
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35 [題詞]越勢能山時阿閇皇女御作歌 ( 阿閉皇女は後の元明天皇。) 此也是能倭尓四手者我戀流木路尓有云名二負勢能山 これやこのやまとにしてはあがこふるきぢにありといふなにおふせのやま これが大和で私が心ひかれた
紀伊の道の勢能山ですね * 此也是能ーこれやこのーこれがまさに、 * 「や」 詠嘆の意をあらわす。 * 倭尓四手者ーやまとにしてはー大和にしてはー大和にあって、 * 我戀流ーあがこふるー我が恋ふるー私が一目見たいと恋しく思っていた、 * 木路尓有云ーきぢにありといふー紀路にありといふー紀伊への道中にあるという、 * 名二負勢能山ーなにおふせのやまー名に負ふ背の山ー「せ」は夫を意味する、皇女は夫の名を持つ山に興味を持った。 ・・・・・・・・・・・ 勢の山(背の山)は、紀ノ川を挟んで妹山(いもやま)と向かい合っている山。 畿内の南限。朱鳥四年(690)九月の持統天皇の紀伊国行幸の際の御製か。 阿閉皇女は前年に夫の草壁皇子を失っており、亡き夫への思いを籠めた歌かと思われる。(千人万首) 元明天皇 げんめいてんのう 斉明七〜養老五(661-721) 天智天皇の第四皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女姪娘。諱は阿閉(あへ)皇女。草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)・吉備皇女をもうけた。 慶雲四年(707)、文武天皇崩御の後、遺詔により即位。文武の遺子首皇子(のちの聖武天皇)を将来即位させるための中継的な天皇と見られるが、和銅元年(708)の和同開珎、同三年の平城京遷都、同五年の古事記撰上、同六年の風土記編纂など、在位中に歴史的大事業が次々に成し遂げられた。和銅八年(715)九月二日、退位。皇太子首皇子はまだ幼少であったため、娘の氷高内親王を中継ぎとして即位させた(元正天皇)。養老五年(721)、病に臥し、長屋王と藤原房前を召して後事を託す。同年十二月七日、崩御。六十一歳。奈保山東陵に葬られる。在位はわずか八年であったが、この間不比等らを重用して律令官制の整備を大いに進めるなど、随所に卓越した政治力を窺わせる。 |
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36 雑歌,作者:柿本人麻呂,吉野,離宮,行幸,従駕,宮廷讃美,国見 [題詞]幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌 (吉野宮に行幸された時、柿本朝臣人麻呂が作った歌) [原文]八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟<競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高<思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可<問> [訓読]やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも [仮名],やすみしし,わがおほきみの,きこしめす,あめのしたに,くにはしも,さはにあれども,やまかはの,きよきかふちと,みこころを,よしののくにの,はなぢらふ,あきづののへに,みやばしら,ふとしきませば,ももしきの,おほみやひとは,ふねなめて,あさかはわたる,ふなぎほひ,ゆふかはわたる,このかはの,たゆることなく,このやまの,いやたかしらす,みづはしる,たきのみやこは,みれどあかぬかも 《[左注](右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌) 右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。八月に、吉野の宮に幸す。四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。五月に、吉野の宮に幸す。五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。四月に、吉野の宮に幸す」といへば、いまだ詳らかにいづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず。》 (『万葉集』角川文庫) ・・・・・・・・
八隅知之ー[やすみしし]ー「大君」の枕詞. 吾大王之ーわがおほきみのー 我が大君のー 所聞食ーきこしめすーお治めになる。原文は「聞食」で、「聞こしをす」と訓む本もある。あまねく統治するわが天皇がお治めになる天下に 天下尓ーあめのしたにー天の下に 國者思毛ーくにはしもー国はしも 国こそ 二雖有ーさはにあれどもー 多くあるけれども 山川之ーやまかはのー山川の 山も川も 清河内跡ー清き河内とー清らかな河内だとしてー清らかな、川に囲まれた土地として。 御心乎ー「みこころを」ー御心をー 「吉野」の枕詞。「心を寄す」から。( 御心を寄せる吉野の地の) 吉野乃國之ーよしののくにのー吉野の国の 花散相 ー[はなぢらふ]ー花散らふー「秋津」の枕詞。稲の花が盛んに散る秋−という繋がり。 秋津乃野邊尓ーあきづののへにー秋津の野辺に 宮柱ーみやばしらー宮柱も 太敷座波ーふとしきませばー太敷きませば 太く立派な宮を建てて君臨なさるので 百礒城乃ー[ももしきの] 大宮人者ーおほみやひとはー大宮人は 船並弖ーふねなめてー舟並めて 旦川渡ーあさかはわたるー朝川渡るー朝の川を渡る 舟<競>ーふなぎほひー舟競ひ 舟を競って 夕河渡ーゆふかはわたるー夕川渡る 夕べの川を渡る 夕べの川を渡る此川乃 ーこのかはのーこの川の 絶事奈久ーたゆることなくー絶ゆることなく 此山乃ーこのやまのーこの山の 弥高<思良>珠ーいやたかしらすーいや高知らす ますます高く聳える 水激 ー[みづはしる]ー水激るー「滝」の枕詞。 瀧之宮子波ーたきのみやこはー瀧の宮処はー水が奔流する滝の離宮は 見礼跡不飽可<問>ーみれどあかぬかもー見れど飽かぬかも いつまでも見飽きないことだよ ・・・・・・・・ |
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37 雑歌,作者:柿本人麻呂,吉野,離宮,行幸,従駕,宮廷讃美,国見 [題詞](幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)反歌 [原文]雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟 [仮名],みれどあかぬ,よしののかはの,とこなめの,たゆることなく,またかへりみむ [左注](右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌) 《右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。八月に、吉野の宮に幸す。四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。五月に、吉野の宮に幸す。五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。四月に、吉野の宮に幸す」といへば、いまだ詳らかにいづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず。》 (『万葉集』角川文庫) 見飽きることない吉野の川の
岩にいつも生えている水苔の 滑らかさが永遠のように、 いつまでも絶えることなく 繰り返し見よう * 「常滑の」は、常滑(岩にいつも生えている水苔)のように。 * またかへり見む 天皇の行幸が繰り返しあらんことを言う。 |
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38 雑歌,作者:柿本人麻呂,吉野,離宮,行幸,従駕,宮廷讃美,国見 [題詞](幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌) [原文]安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 <芳>野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為<勢><婆> 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之] <逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨 [訓読]やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一云 黄葉かざし] 行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも [仮名],やすみしし,わがおほきみ,かむながら,かむさびせすと,よしのかは,たぎつかふちに,たかとのを,たかしりまして,のぼりたち,くにみをせせば,たたなはる,あをかきやま,やまつみの,まつるみつきと,はるへは,はなかざしもち,あきたてば,もみちかざせり,[もみちばかざし],ゆきそふ,かはのかみも,おほみけに,つかへまつると,かみつせに,うかはをたち,しもつせに,さでさしわたす,やまかはも,よりてつかふる,かみのみよかも [左注](右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌) 《右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。八月に、吉野の宮に幸す。四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。五月に、吉野の宮に幸す。五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。四月に、吉野の宮に幸す」といへば、いまだ詳らかにいづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず。》 (『万葉集』角川文庫) 安見知之ー[やすみしし]
吾大王ーわがおほきみー我が大君 あまねく統治するわが天皇が 神長柄ーかむながらー神ながら 神佐備世須登ーかむさびせすとー神さびせすとー神であられるままに神らしくお振るまいになろうと。神であり神として御振舞いになろうと <芳>野川ーよしのかはー吉野川 多藝津河内尓ーたぎつかふちにーたぎつ河内にー吉野川の逆巻く流れを抱えた地に。吉野川の激流の河内に 高殿乎ーたかとのをー高殿を 高知座而ーたかしりましてー高知りましてー高くお作りになって。高殿を高々とお作りになり 上立ーのぼりたちー登り立ち 登り立って 國見乎為<勢><婆>ーくにみをせせばー国見をせせばー国見をなさると 疊有ーたたなはるー 幾重にも重なる 青垣山ーあをかきやまー青垣山 青い垣根の山は 々神乃ーやまつみのー山神のー山の神が 奉御調等 ーまつるみつきとー奉る御調とー奉る貢物として 春部者ーはるへはー春へはー春の頃は 花挿頭持ーはなかざしもちー花かざし持ちー 頭に花をかざし 秋立者ーあきたてばー 秋立てばー秋になると 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之]ーもみちかざせり,[もみちばかざし],ー黄葉かざせり [一云 黄葉かざし] 黄葉をかざしている <逝>副ーゆきそふー行き沿ふー沿って流れる。宮殿に沿って流れる 川之神母ーかはのかみもー川の神も 大御食尓 ーおほみけにー大御食にー天皇のお食事に 仕奉等ーつかへまつるとー仕へ奉ると 奉仕しようと 上瀬尓ーかみつせにー上つ瀬に 上流に 鵜川乎立ーうかはをたちー鵜川を立ちー 鵜飼を催し 下瀬尓ーしもつせにー下つ瀬にー下流の瀬に 小網刺渡ーさでさしわたすー小網さし渡すー小網さし渡す すくい網を仕掛ける。 山川母 ーやまかはもー山川も 依弖奉流ーよりてつかふるー依りて仕ふるー山川の神も心服してお仕えする。 神乃御代鴨ーかみのみよかもー神の御代かも 神たる天皇の御世であるよ |



