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39 雑歌,作者:柿本人麻呂,吉野,離宮,行幸,従駕,宮廷讃美,国見,地 [題詞](幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)反歌 [原文]山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母 [仮名],やまかはも,よりてつかふる,かむながら,たぎつかふちに,ふなでせすかも [左注]右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌 山川毛ー山川もー山も川も
天武亡きあとの持統政権を維持するなか、飛鳥から南へ一山越えた吉野の宮滝に31回も通っている。季節を問わず行われた宮滝への行幸は、輿(こし)で飛鳥川をさかのぼり、標高500メートルの芋峠を越えたと思われる。吉野川沿いの宮滝にある吉野宮は斉明天皇が造営、持統が増築した。因而奉流ー依りて仕ふるーお仕え申し上げる 神長柄ー神ながらー神たる天皇は 多藝津河内尓ーたぎつ河内にー激流の川の中に 船出為加母ー舟出せすかもー船出なさることなあ 壬申の乱の直前に天武と雌伏した場所でもある。 この宮で天武は六人の息子を招集し「吉野盟会」を行っている。 その後持統は、後継者争いの強敵である大津皇子と高市皇子を封じ込め排除した。 持統にとって宮滝は神託を問う聖域であったのではなかったのか。 持統が吉野に出向いたのは、問題が起きたときか、起こそうとしたときが多いようだ。ただ、孫の軽皇子(文武天皇)への譲位後四年間はぴたりと止まっている。その後、死の前年の吉野行が最後となった。 梅原氏に限らず、これまで誰一人として、柿本人麻呂の正体を三輪高市麻呂ではないのかと疑ってみなかった。同じ歌集に、何の説明もなく、本名と別名との二通りの名で登場している人物を、同一人物と思わないのは当然である。つまり、高市麻呂諌言事件を記す巻一の四四番の歌の注と、巻九の高市麻呂の歌は、人麻呂の秘密を解明する鍵を提供しているにもかかわらず、実際には、人麻呂=高市麻呂という等式の成立を分かりにくくする役目を果しているのである。 その効きめがありすぎて、これまでに示した暗号だけでは、まだ人麻呂=高市麻呂という等式を承認しにくい向きもあるかもしれない。そこで、暗号の作者は、ぬかりなく、この等式を裏付ける決定的な証拠を残している。 人麻呂=高市麻呂という等式を問題にすれば、巻一、四四番の歌の注に高市麻呂諌言事件の記事が引用されており、しかも、四○〜四二番の歌の前書に「伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作れる歌」とあることの重大さがわかる。 だから、この前書きの前に、「吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」(三六〜三九)の注として、次のようにくだくだしい説明があると、これはおかしいと感じないではおれないはずである。 右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。八月に、吉野の宮に幸す。四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。五月に、吉野の宮に幸す。五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。四月に、吉野の宮に幸す」といへば、いまだ詳らかにいづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず。(『万葉集』角川文庫) 『日本書紀』によれば、持統は天皇として、三年正月から一一年の四月までの間に、三一回も吉野に行幸している。だから、吉野行幸に従駕したときの歌というだけでは、そのいずれの月の従駕の作か分からないはずである。それなのに、なぜ、三年から五年までの行幸の月を、六回も具体的に繰り返し書いているのであろうか。 その意図を探るために、『日本書紀』によって持統三〜六年における吉野行幸の月を調べてみると、次のようになる。右に引用した注に截っているのは、傍点(なし)を付けた月(目印[])である。 [三年 一月、八月] [四年 二月、五月]、 八月、一○月、一二月 [五年 一月、四月]、 七月、一○月 六年 五月、七月、一○月(三月、伊勢行幸。人麻呂、京に留る) これによって、注に記す月は、持統三〜五年における吉野行幸の月のうち、始めの二つを取り上げていることがわかる。それゆえ、右の注は、人麻呂が吉野行幸従駕の歌を詠んだのは五年までで六年以後の作はない、という意味になる。持統は、六年三月の伊勢行幸から帰ったあと、五月になると、もう吉野に行幸しているのに、なぜ人麻呂がそのとき従駕しなかったことが分かるのだろうか。 この答は、きわめて明快である。五年までは持統の行幸に必ず従駕し、六年以降はぷっつり従駕しなくなった可能性がある人物が、一人だけ、はっきり『日本書紀』に記されているからである。いうまでもなくそれは、持統六年三月三日に野にくだった、中納言三輪高市麻呂である。それゆえ、『万葉集』は、疑う余地のない暗号で、人麻呂=高市麻呂を示していることに なる。 |
万葉集索引第一巻
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40 雑歌,作者:柿本人麻呂,留京,留守,伊勢行幸 [題詞]幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌 [原文]鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 D嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香 [仮名],あみのうらに,ふなのりすらむ,をとめらが,たまものすそに,しほみつらむか [左注](右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮) 伊勢のあみ(鳴呼見)の浦で
舟遊びしている乙女たちの 美しい裳の裾に 今頃は潮が満ち寄せているだろうなあ * 阿胡行宮(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より) 阿胡行宮(あごのかりみや)は持統天皇が、伊勢神宮外宮の第一回式年遷宮に際して宿泊等のために、仮に設けられた施設である。 実際の場所は何れで有ったか、諸説分かれている。 * 比定候補地 (この伊勢への行幸の際、都にて留守をあずかる柿本人麻呂が次の歌を詠んだ。)
(巻一・40)
•釧着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ
(巻一・41)
•潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻を
(巻一・42)
一番目の歌にある「嗚呼見の浦」とは、鳥羽市小浜海岸にある浜がアミの浜と呼ばれていることから同地とする説が有力である。また、「見」は「兒」の誤りが伝えられたとし、「嗚呼兒の浦」と解釈し志摩市阿児町国府の海岸などを同地とする説もある。国府の海岸に連続する「阿児の松原」にはこの歌碑が設けられており、同地を詠んだものとして紹介している。三番目の歌の「伊良虞」は、愛知県渥美半島突端の伊良湖岬あるいは鳥羽市神島のことであるとされる。 •志摩国国府(志摩市阿児町国府) :志摩国府があったことから、この地が有力ではないかとされる。
•鳥羽湾(鳥羽市小浜海岸) :上記に現れる地名から、こちらも有力な地とされる。 |
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41 雑歌,作者:柿本人麻呂,留京,留守,伊勢行幸 [題詞](幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌) [原文]釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母 大宮人之 玉藻苅良<武> [仮名],くしろつく,たふしのさきに,けふもかも,おほみやひとの,たまもかるらむ [左注](右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮) 美しい腕輪をつけて
手節の崎で 今日もまた大宮人は 玉藻を刈っているのだろうなあ * [釧つく]は、「答志」の枕詞。
* [釧]は腕輪のこと。「くしろは手に卷物なれば、くしろを著る手の節とかけたる也」(萬葉集略解)。 * 「答志の崎」は、 志摩半島の崎。手節の崎にかける。 * 「も」は、並列の助詞。 * 「かも」は、詠嘆の終助詞。 * 「大宮人の玉藻刈るらむ」は、行幸従駕の官人たちが海藻を刈っているだろう。 * 「らむ」は現在推量の助動詞。 今ごろは〜だろう。 |
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42 雑歌,作者:柿本人麻呂,留京,留守,伊勢行幸 [題詞](幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌) [原文]潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎 [仮名],しほさゐに,いらごのしまへ,こぐふねに,いものるらむか,あらきしまみを [左注](右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮) しほさゐにいらごのしまへこぐふねにいものるらむかあらきしまみを 潮鳴りの中
伊良虞の島あたりを漕ぐ舟に 愛しい女は乗っているのだろうか あの荒々しい島あたりを * 「伊良虞の島」は、所在未詳 愛知県知多半島の先、伊良湖岬沖の島か。
* 「乗る」は、ラ行四段活用動詞「乗る」の終止形。 * 「らむ」は、現在推量の助動詞。 * 「か」は、疑問の係助詞。 今頃いとしい妻は乗っているだろうか。 * 「荒き島廻を」は、波の荒い島のまわりを。伊良湖水道は潮の流れが速く、航海の難所。 * 「潮騒」は、潮が満ちてくる時、波が立ち騒ぐこと。 |
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43 雑歌,作者:當麻真人麻呂妻,留京,留守,伊勢行幸,妻歌 [題詞](幸于伊勢國時)當麻真人麻呂妻作歌 (当麻(たぎまの)人麻呂の妻の作る歌) [原文]吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六 [仮名],わがせこは,いづくゆくらむ,おきつもの,なばりのやまを,けふかこゆらむ [左注](右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄<廣>肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位E上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮) 愛しい夫は
今どこを歩いているのだろう 遠い彼方の名張の山を 今日あたり越えているだろうか * 吾勢枯波ーわがせこはー吾が背子はー愛しい私の夫は * 何所行良武ーいづくゆくらむーいづく行くらむーどこを歩いているのだろうか * 己津物ーおきつものー沖つ藻のー枕詞。沖の藻が波に隠れ、なびくようにの意から、「なばる」「なびく」にかかる。 * 隠乃山乎ーなばりのやまをー名張の山をー名張(なばり)の山 大和と伊賀の国境の山。「なばり」の原文は「隠」。三重県西部北寄り。『万葉集』に「隠(なばり)乃山」「隠野」とあり、『和名類聚抄』は郡名・郷名の「名張」に「奈波利」と訓を付す。 * 今日香越等六ーけふかこゆらむー今日か越ゆらむー今日あたり越えているだろうか。 * 巻四に重出。 * この歌に「らむ」が二つ出てくる。この「らむ」は「アリ」と助動詞の「ム」の結合したもので、現在に関する推量を表わす助動詞とされる。 「らむ」が想像的になされる推量判断であるのに対し、「らし」は客観的な事実を受け入れての推定判断をあらわす。「〜らしい」「〜に違いない」。 「憶良らは今はまからむ子泣くらむその彼の母も吾を待つらむぞ」(337)は 他動詞タ行四段「待つ」の終止形に推量の助動詞「らむ」がつながるもので、「子泣くらむ」「吾を待つらむぞ」は「子は泣かむ」「吾を待たむぞ」などとは差があって「今頃は子が泣いているだろう」と今を推量する。 * この「らむ」は、現在推量にだけ使われず、「時を超越した一般的事実の推量を表わす」として、未来推量を含め、古今集以後の「らむ」は、現在という時の規範から脱け出て、単なる推量の助動詞として用いられる場合が多くなっている。
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