万葉集索引第十九巻
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19 4233;作者:内蔵縄麻呂、天平勝宝3年1月3日,年紀,宴席,挨拶,引き留め,後朝,高岡 [題詞]于是諸人酒酣更深鶏鳴 因此主人内蔵伊美吉縄麻呂作歌一首 打羽振 鶏者鳴等母 如此許 零敷雪尓 君伊麻左米也母 うちはぶき とりはなくとも かくばかり ふりしくゆきに きみいまさめやも 羽を打ち振って鶏は鳴くけれど
これほどにまでに降り積もった雪の中を あなたがお帰りになることがありましょうか * 「いまさめや」→「イマス」はこの場合「行く」意の尊敬語。 * 「うち‐はぶ・く」打ち羽振く [動カ四]羽ばたく 19 4234;作者:大伴家持,内蔵縄麻呂、天平勝宝3年1月3日,宴席,高岡 [題詞]守大伴宿祢家持和歌一首 鳴鶏者 弥及鳴杼 落雪之 千重尓積許曽 吾等立可○祢 なくとりは いやしきなけど ふるゆきの ちへにつめこそ わがたちかてね いっそう頻りに鶏は鳴くけれど
降り続く雪が千重に積もるからこそ 吾らは立ち去りかねるのです * 天武4年(676)に「牛、馬、犬、猿、鶏の宍(しし=肉)を食うこと莫(な)かれ」という詔が出された。牛や馬は農耕などに活用され、犬は家を守る。鶏は刻を告げる鳥として飼育されていた。これらの動物以外の鹿や猪など、野生動物を食べることは禁止されていない。 19 4235;作者:大伴家持、 [題詞] 足日木之 山黄葉尓 四頭久相而 将落山道乎 公之超麻久 [あしひきの] やまのもみちに しづくあひて] ちらむやまぢを きみがこえまく [左注]右一首同月十六日餞之朝集使少目秦伊美吉石竹時守大伴宿祢家持作之 (右一首、同月十六日、朝集使少目秦忌寸石竹を餞せし時に、守大伴宿禰家持作る) 山の黄葉が
時雨のしずくとともに ぬれて散る その木陰の山の道を 貴方は越えてゆくのですね * 少目(しょうさかん)という位の秦伊美吉石竹(はたのいみきいわたけ)という人が、朝集使(国々の政治や人事についての報告を都にする人)として奈良の都に旅立つのを送別する宴の時に、大伴家持が詠んだ歌。 * 「ま‐く」推量の助動詞「む」のク語法。上代語 …だろうこと。…しようとすること。 19 4236;天平勝宝3年1月3日,挽歌,悲別,亡妻挽歌,伝誦,古歌,遊行女婦蒲生,宴席,高岡 [題詞]悲傷死妻歌一首[并短歌] [作主未詳] 天地之ー天地のーあめつちのー天地に
神者<无>可礼也ー神はなかれやーかみはなかれやー神が無いことがあろうか 愛ー愛しきーうつくしきーいとしい 吾妻離流ー我が妻離るーわがつまさかるー妻は去ってしまった 光神ー光る神ー[ひかるかみ]ー 鳴波多*嬬ー鳴りはた娘子ーなりはたをとめー機織り娘 携手ー携はりーたづさはりー手に手を取って 共将有等ーともにあらむとー共に生きようと 念之尓ー思ひしにーおもひしにー思ったのに 情違奴ー心違ひぬーこころたがひぬー願いは適わなかった 将言為便ー言はむすべーいはむすべー言うべき言葉も 将作為便不知尓ー為むすべ知らにーせむすべしらにー為すすべも知らずに 木綿手次ー木綿たすきーゆふたすきー木綿襷を 肩尓取<挂>ー肩に取り懸けーかたにとりかけー肩に掛け 倭<文>幣乎ー倭文幣をーしつぬさをー倭織の幣を 手尓取持*ー手に取り持ちてーてにとりもちてー手に持って 勿令離等ーな放けそとーなさけそとー離れ離れにしないでと 和礼波雖祷ー我れは祈れどーわれはいのれどー私は祈ったけれども 巻而寐之ー枕きて寝しーまきてねしー抱いて寝た 妹之手本者ー妹が手本はーいもがたもとはー妻の腕(かいな)は 雲尓多奈妣久ー雲にたなびくーくもにたなびくー雲となって空にたなびいている ☆ 「光る神鳴りはた」は「機(はた)」を導く序。 ☆ 「鳴神」は雷。 19 4237;天平勝宝3年1月3日,挽歌,悲別,亡妻挽歌,伝誦,古歌,遊行女婦蒲生,宴席,高岡 [題詞](悲傷死妻歌一首[并短歌] [作主未詳])反歌一首 寤尓等 念*之可毛 夢耳尓 手本巻<寐>等 見 者須便奈之 うつつにと おもひてしかも いめのみに たもとまきぬと みればすべなし [左注]右二首傳誦遊行女婦蒲生是也 現実ではないのか
夢なのか 妻の腕を巻いて寝ていたのは <旅人>http://blogs.yahoo.co.jp/chiyokokkk/24499894.html?type=folderlist 遊行女婦(うかれめ)は、技芸を伝える教養高い女性集団。 宴席に侍り、歌をつくり、また古歌を読誦した。 なんと、遊行女婦の蒲生は、宴席で挽歌をうたっている。 宴といえば、宴会。 昔は、お座敷でどんちゃん騒ぎ、今は、カラオケでどんちゃん騒ぎをイメージしてた私は、あれれ、 ナンカ違う。。。 そういえば、現代も、結婚の披露宴は、挨拶で始まり、どんちゃんして、最後は花束贈呈・花嫁の父の涙で、しんみりさせる設定になってる。 万葉の宴席には、式次第があるみたいです。
蒲生の伝誦歌、
♪天地の 神は無かれや 愛しき 我が妻離る 光る神 鳴りはた娘子 携はり 共にあらむと 思ひしに 心違ひぬ 言はむすべ 為むすべ知らに 木綿だすき 肩に取り掛け 倭文幣を 手に取り持ちて な離けそと 我は祈れど まきて寝し 妹が手本は 雲にたなびく (巻19・4236)(天地の 神々などないものか いとしいわが妻は遠くへ去ってしまった 光る神 鳴りはた娘子と 手を取り合って 共に長生きしようと 思っていたのに 期待は外れた 言うすべも しようもないので 木綿だすきを 肩に取り掛け しずぬさを 手に取り持って 引き離し給うなと 私は祈ったが 交し合って寝た 妻の腕は 雲に包まれ天涯に去っていった) ♪現(うつつ)にと 思ひてしかも 夢のみに 手本枕き寝と 見るはすべ無し(万葉集・巻19・4237) (現にそばにいるものと 思いたいものだ 夢にだけ 手枕を交わすと みるのはたまらない) 宴席は、最初はかなり信仰的なもので、神祭りの後の直会(なおらい)だった。
のちには、文化的香りの高い雅宴となった。 そこでうたわれる歌も、始まりの歌・終わりの歌と決められていたらしい。 とくに儀礼的な宴会では、なおのことで、宴席の進行につれて、歌が要請される折々も決まっていたらしい。 この歌の宴席は、天平勝宝 3年(751)正月 3日、介の内蔵忌寸縄麻呂の館で、催された。 まず、主賓の守の家持がうたう。 縄麻呂は、雪で重なる岩山をつくり、(雪ダルマじゃないよ)、造花のなでしこをあしらっておいた。 挨拶を、掾の久米広縄と蒲生がうたう。 やがて、宴たけなわに夜更けとなり、鶏が鳴くと、引きとめ歌を、縄麻呂がうたい、家持が和してうたう。 次いで、県犬養命婦の聖武天皇への献上歌を、広縄が伝誦する。 そこで、この場は回想の雰囲気になり、蒲生がこの挽歌を読誦した。 うまい!しみじみとした哀感をただよわせた。(蒲生の機転) 挽歌は、ぽつぽつと、切れがちで、そのためいっそう哀切です。(うっ、うっ、と嗚咽) 人麻呂の挽歌が、切れ目なく続くのは、人麻呂が天才だからです。(・ー・)ノ <転載終了> |
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19 4238;作者:大伴家持,久米広縄、天平勝宝3年2月2日,宴席,餞別,旅立ち,高岡 [題詞]二月二日會集于守舘宴作歌一首 二月二日、守の館に会集ひて宴して作る歌一首 君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟 きみがゆき もしひさにあらば うめやなぎ たれとともにか わがかづらかむ [左注]右判官久米朝臣廣縄以正税帳應入京師 仍守大伴宿祢家持作此歌也 但越中風土梅花柳絮三月初咲耳 (右、判官久米朝臣廣縄、正税帳を持って京に入ることになり、守の大伴家持、この歌を作る。但し越中の風土では梅や花柳は三月になってから咲く。) 「正税帳」は、諸国内の官物、前年の雑費支出等の決算帳。毎年二月末以前に太政官に送る規定のもの。 君が京に行き
もし長旅になるのであれば 私は梅や柳を誰と挿頭にすればよいのか もうほころびかけているのに 19 4239;者:大伴家持、天平勝宝3年4月16日、恨,高岡 [題詞]詠霍公鳥歌一首 (霍公鳥を詠む歌一首) 二上之 峯於乃繁尓 許毛<里>尓之 <彼>霍公鳥 待<騰>来奈賀受 ふたがみの をのうへのしげに こもりにし そのほととぎす まてどきなかず 二上山の峰の茂みに
ほんとうに籠もってしまったのか その霍公鳥を いくら待っても鳴きに来ない 4240;作者:光明皇后,藤原清河,高安種麻呂、天平5年,遣唐使,伝誦,古歌,春日野,出発,神祭り,餞別,羈旅,天平勝宝3年,高岡 [題詞]春日祭神之日藤原太后御作歌一首 / 即賜入唐大使藤原朝臣清河 参議従四位下遣唐使 (春日にして神を祭る日、藤原太后の作らす歌一首 即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ 参議従四位下遣唐使) 大船尓 真梶繁貫 此吾子乎 韓國邊遣 伊波敝神多智 おほぶねに まかぢしじぬき このあこを からくにへやる いはへかみたち [左注](右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也 但年月次者随聞之時載於此焉)<天平勝宝三年(751)、越中国大目(だいさかん)高安倉人種麻呂が大伴家持に伝え、家持が記載した歌。藤原清河の入唐は翌年のこと。清河は光明子の甥だが、国母の立場から「吾子」と呼んでいる。>(千人万首) 大船に櫂をたくさん取り付けて
吾が子を唐国へ遣わします 守ってやって下さい 神々よ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の人。聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代)の娘であり、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 なお、「光明皇后」というのは諡号や追号の類ではなく通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后という。 聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年(養老2年)阿倍内親王を出産。724年(神亀元年)夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。727年(神亀4年)基王(もといおう)を生んだ。728年(神亀5年)皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、729年(天平元年)皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(749年(天平勝宝元年))後、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。756年(天平勝宝8歳)夫の聖武太上天皇が亡くなる。 その2年後には皇太后号が贈られた。760年(天平宝字4年)逝去、佐保山東陵に葬られた。 光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。 夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。 また、書をよくし、奈良時代の能書家として聖武天皇とともに有名であり、作品には『楽毅論』(がっきろん)や『杜家立成雑書要略』(とけりっせいざっしょようりゃく)などがある。 * 五 島 福 江 島 『肥前風土記』には遣唐使船が「美彌良久(みみらく)の崎に到り、此処より発船して西を指して渡る」とある。 旅の初めは遣唐使船の寄港地へ。 ♪春日野に 斎(いつ)く三諸(みもろ)の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで (巻19・4241) (春日野に 大事にしているみもり(神の降臨するところ、社)の神のほとりに 香り高く咲く 梅の花よ いまのままに栄えつづけて待っていろよ ふたたび帰ってくるまで) 清河は、入唐に際して春日の神を祈った。 万葉期に重なる遣唐使は、舒明 2年(630)の犬上三田鍬以後、天平勝宝 4年(750)藤原清河までで、10回ある。 第10次遣唐使は、大使→清河、副使→大伴古麻呂・吉備真備。
『続日本紀』に、天平勝宝 3年 2月、遣唐使に授位があり、4月にその平安を祈って、伊勢神宮に幣を奉った。
天平勝宝 4年 3月、遣唐使は朝廷に参上し、 閏 3月には、清河が節刀を授与されている。船は、4船準備された。 当時の遣唐使は、春日の神を祭り、航路の平安を祈って出発した。 養老元年(717) 2月にも、遣唐使が、神祇を、「蓋(みかさ)山の南」に祭る、とある。 今回は、藤原氏から出た大使だから、藤原氏全員が、春日大社に祈った。 光明皇太后から、歌を賜っている。 梅を詠まれているから、天平勝宝 3年 2月の授位の頃の作。 ♪大船に ま梶しじ貫き この我子(あご)を 唐国へ遣る 斎へ神たち (万葉集・巻19・4240) (大船に 梶をいっぱい取り付け このいとし子を 唐へ遣ります 守らせたまえ 神々よ) 家持が、この遣唐使関連の歌を収録したには、天平勝宝 3年 4月16日〜 7月17日。 都の事情が越中まで届くには、1ヶ月前後かかっている。 光明皇太后51才、清河46才。 年令は、 5才しか違わないが、皇后のとっては、甥にあたる清河を親しく「我子」とよんだ。 「神たち」は、春日大社の祭神が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主命(ふつぬし)・天児屋根命(あめのこやね)・比売命だから、複数形でよんだ。 清河の歌は、梅花が故国で香っているだろう、と唐国で想う未来の自分を予測して詠った。 宇合を送った高橋虫麻呂も、別れの時、花をうたっている。 桜花が咲く時には、お迎えにまいりましょう、と。(予祝の気持ち) 清河は、旅の平安を祈って、神を祭っているのに、直接神に訴えかけずに、梅花の咲きほこるさまを詠い、それによって、無事を祈っている。 任を終えた遣唐使は、11月、4船に乗り、唐を出たが、嵐にあって別々になる。 清河と滞唐36年の阿倍仲麻呂の乗った第1船は、沖縄から安南(ベトナム)に漂流する。 2人は、長い苦難の末、ようやく長安に戻った。 副使大伴古麻呂と盲目の僧鑑真の乗った第2船は、翌年正月に帰京。 第4船は、 6月に都に入り、 第3船は、12月に屋久島に着き、翌正月に、紀伊の牟漏の崎に漂着した。 帰国を諦めた清河と仲麻呂の2人は、宝亀元年(770)、相前後して死ぬ。 河清(かせい)と、中国風に改名した清河の死後には、混血の女児、喜嬢(きじょう)が残された。 喜嬢は、父の死後、宝亀 8年(777)の遣唐使にともなわれて、日本に向かったが、またも嵐にあう。 まっ二つに割れた船体にとりつき、何日も漂流した後、やっと日本の土を踏んだ。 この孤児を暖かく迎えたのは、清河によって渡日した鑑真だった。 喜嬢を唐招提寺の近くに住まわせた、という。 19 4241;作者:藤原清河,高安種麻呂、天平5年,遣唐使,餞別,出発,神祭り,羈旅,春日野,伝誦,天平勝宝3年,高岡 [題詞]大使藤原朝臣清河歌一首 春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還来麻泥 かすがのに いつくみもろの うめのはな さかえてありまて かへりくるまで [左注](右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也 但年月次者随聞之時載於此焉) 春日野にお祀りしている神社の梅よ
咲き栄えて待っていておくれ 私が帰ってくるまで * 「斎く」は「神聖なものとして祭る」こと。 * 「御室(みむろ)」は「神が来臨する場所。神社」。 * 唐での任務を終えた清河は、唐に滞在して36年になる阿倍仲麻呂とともに帰国の途についたが、途中で遭難してベトナムの安南に漂着し、その後再び長安に戻って唐朝に仕えた。 結局帰国をはたせず唐の地で没した。 4242 天平5年,作者:藤原仲麻呂,宴席,餞別,出発,羈旅,遣唐使,悲別,伝誦,高安種麻呂,高岡,天平勝宝3年 [題詞]大納言藤原家餞之入唐使等宴日歌一首 [即主人卿作之] 天雲乃 去還奈牟 毛能由恵尓 念曽吾為流 別悲美 あまくもの ゆきかへりなむ ものゆゑに おもひぞわがする わかれかなしみ ・・・・・・・・・・
空の雲は往っては帰って来る 当然そのように あなたも帰って来るものなのに 私は別れを悲しんで思い沈んでいる ・・・・・・・・・・ 19 4243;作者:丹比土作,高安種麻呂、天平5年,伝誦,遣唐使,餞別,宴席,高岡,天平勝宝3年 [題詞]民部少輔丹治<比>真人土作歌一首 住吉尓 伊都久祝之 神言等 行得毛来等毛 舶波早家<无> すみのえに いつくはふりが かむごとと ゆくともくとも ふねははやけむ [左注](右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也 但年月次者随聞之時載於此焉) 住吉の神を祀る神主のお告げでは
住吉の大神が舳先に立って導かれるから 往きも帰りも船は無事に早く進むとのこと 天平5年の遣唐使入唐の際に詠まれた8首の一つ。 風や雨によって、港待ちしながら、長い船旅に悩まされた万葉人にとっては、安全な旅=速い旅が願いであった。 住吉の大神が舳先に立って、航海の安全が保障されたとか。 ・・・・・・・ * 句切れ(くぎれ)は、意味や内容、調子(リズム)の切れ目。 短歌や俳句は、一つの歌の中に、二つの内容が表現されていることが多い。 その前半の内容の終わり部分が「句切れ」。 作品の途中で「。」を付けられるところ。 ○「句切れ」を見つけるためには幾つかの手法が存在する。 俳句によく使われる「切れ字」を手がかりにする。 「切れ字」→「ぞ」「かな」「や」「けり」「ず」「ぬ」「らむ」があれば、そこが句切れ。 感動を表す語を探す。 「感動を表す語」→「けり」「なり」「かな」「かも」等があれば、そこが句切れ。 初句・二句・三句・四句の末尾に文を言い切る形があったら句切れと考えられる。 文を言い切る形は、活用語の終止形・命令形、係り結びの結び、終助詞など。また、その句が名詞で呼びかけになっているものは句切れと考える。また、全体でひとまとまりで句切れのない和歌もある。 (例) * 初句(しょく)切れ 海恋し 潮の遠鳴り かぞへ(え)ては 少女(おとめ)となりし 父母の家 与謝野晶子 * 二句(く)切れ 白鳥は 悲しからずや 空の青 海のあおにも 染まずただよう 若山牧水 *三句(く)切れ 手を振りて はげしき声に 叫さけびたり この嬰子は 怒りそめたる 窪田章一郎 *四句(く)切れ 朝あけて 船より鳴れる 太笛の こだまはながし 並みよろう山
斎藤茂吉 |
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19 4244;作者:藤原清河,高安種麻呂、天平5年,遣唐使,餞別,宴席,出発,羈旅,枕詞,悲別,恋情,伝誦,高岡,天平勝宝3年 [題詞]大使藤原朝臣清河歌一首 荒玉之 年緒長 吾念有 兒等尓可戀 月近附奴 [あらたまの] としのをながく あがもへる こらにこふべき つきちかづきぬ 異国の地で思い続けて幾星霜
恋しい子らに会える日が近づいた * 「年の緒長く」;年の長く続くことを、緒に見立てていう語。年月。 * 「思へる」;[文]ふ[ハ下二]思う 時日が過ぎる。時がたつ。 * 「恋ふべき」;[助動][べから|べく・べかり|べし|べき・べかる|べけれ|○]活用語の終止形、ラ変型活用語は連体形に付く。
当然の意を表す。…して当然だ。…のはずだ。
19 4245;天平5年,遣唐使,枕詞,大阪,儀礼歌,道行き,祈願,餞別,出発,羈旅,伝誦,高安種麻呂,天平勝宝3年[題詞]天平五年贈入唐使歌一首[并短歌] [作主未詳] ( 天平五年(いつとせといふとし・733年)、入唐使に贈れる歌一首、また短歌。) [左注](右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也 但年月次者随聞之時載於此焉) 虚見都ー[そらみつ]ー神そらにみつ
山跡乃國ー大和の国ーやまとのくにー大和の国 青<丹>与之ー[あをによし]ー麗しの 平城京師由ー奈良の都ゆーならのみやこゆー奈良の都から 忍照ー[おしてる]ー輝く 難波尓久太里ー難波に下りーなにはにくだりー難波に下り 住吉乃ー住吉のー[すみのえの]ー住之江の 三津尓<舶>能利ー御津に船乗りーみつにふなのりー御津で船に乗りこみ 直渡ー直渡りー[ただわたり]ー真一文字に 海を渡って 日入國尓ー日の入る国にーひのいるくににー日没する唐の国に 所遣ー任けらゆるー[まけらゆる]ー遣わされる 和我勢能君乎ー我が背の君をーわがせのきみをー愛しいわが君を 懸麻久乃ー[かけまくの]ー口に出すさえ 由々志恐伎ーゆゆし畏きーゆゆしかしこきー畏れおおい 墨吉乃ー住吉のー[すみのえの]ー住之江の 吾大御神ー我が大御神ーわがおほみかみーわが大御神よ 舶乃倍尓ー船の舳にーふなのへにー船の舳先を 宇之波伎座ー領きいましーうしはきいましー支配され 船騰毛尓ー船艫にーふなともにー船の艫(とも)にも 御立座而ーみ立たしましてーみたたしましてーお立ちになって 佐之与良牟ーさし寄らむー[さしよらむ]ー廻り寄る 礒乃埼々ー礒の崎々ーいそのさきざきー磯の崎々 許藝波底牟ー漕ぎ泊てむーこぎはてむー船どまりする 泊々尓ー泊り泊りにーとまりとまりにー港港にも 荒風ー荒き風ーあらきかぜー荒い風や 浪尓安波世受ー波にあはせずーなみにあはせずー波に遭わせぬよう 平久ー平けくーたひらけくー無事に 率而可敝理麻世ー率て帰りませーゐてかへりませーお連れ還りください 毛等能國家尓ーもとの朝廷にーもとのみかどにーもとの大和の朝廷に 19 4246;天平5年,年紀,遣唐使,餞別,出発,羈旅,伝誦,高安種麻呂,天平勝宝3年,高岡 [題詞](天平五年贈入唐使歌一首[并短歌] [作主未詳])反歌一首 奥浪 邊波莫越 君之舶 許藝可敝里来而 津尓泊麻泥 おきつなみ へなみなこしそ きみがふね こぎかへりきて つにはつるまで 海原の沖波も
岸に寄せる波も 舷側をこえるほど高く立たないでおくれ わが君の船が唐から漕ぎ還って来て 住之江の御津の港に停泊するまでは 19 4247;作者:阿倍老人母,高安種麻呂、天平5年,遣唐使,餞別,出発,羈旅,悲別,天平勝宝3年,伝誦,高岡 [題詞]阿倍朝臣老人遣唐時奉母悲別歌一首 天雲能 曽伎敝能伎波美 吾念有 伎美尓将別 日近成奴 あまくもの そきへのきはみ あがもへる きみにわかれむ ひちかくなりぬ 天雲の遥か彼方の果てに
遣唐使として行ってしまう 私の大事な君と 別れる日が迫ってきましたのね 19 4248;作者:大伴家持,久米広縄、天平勝宝3年8月4日,宴席,餞別,悲別,羈旅,出発,高岡,枕詞 [題詞]以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使<掾>久米朝臣廣縄之館二首 七月十七日を以ちて少納言に遷任せらる。仍りて別れを悲しぶる歌を作りて、朝集使掾久米朝臣廣縄の舘に贈り貽(のこ)す歌二首 /既満六載之期忽値遷替之運 既に六載の期(ご)に満ち、忽ちに遷替の運(とき)に値(あ)ふ。 於是別舊之悽心中欝結 拭な之袖何以能旱 因作悲歌二首式遺莫忘之志 其詞曰 是に旧きに別るる棲(かな)しびは、心の中に鬱結(むすぼほ)れ、{涙}を拭ふ袖は、何を以ちてか能く旱(かは)かむ。因りて悲しびの歌二首を作りて、式ちて忘るること莫(な)き志を遺す。其の詞に曰く 既に六年の任期が満了し、にわかに遷任の運びとなりました。いま旧友の貴方と別れる悲しみは、心の内に固く絡まり、涙を拭う袖は、乾きようも無い程です。そこで悲しみの歌二首を作り、これによって貴方を決して忘れまいとする我が志を残します。その歌と申しますのは。 荒玉乃 年緒長久 相見C之 彼心引 将忘也毛 長い長い年月の間
親しくお付き合いをいただき あなたのご厚情そのお心寄せは 決して忘れることはないでしょう * 久米広縄が朝集使として京にあり不在だったので、書き置きを残していったことを示します。(4238左注には「以正税帳」とあり、4252には「正税帳使」とある) 19 4249;作者:大伴家持,久米広縄、 [題詞](以七月十七日遷任少納言 仍作悲別之歌贈貽朝集使<掾>久米朝臣廣縄之館二首 /既満六載之期忽値遷替之運 於是別舊之悽心中欝結 拭な之袖何以能旱 因作悲歌二首式遺莫忘之志 其詞曰) 伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹猟太尓 不為哉将別 いはせのに あきはぎしのぎ うまなめて はつとがりだに せずやわかれむ [左注]右八月四日贈之 石瀬野で秋萩を踏みしだきながら
馬を並べて初鳥猟をするつもりでしたのに それもしないで別れるのでしょうか * 「小鷹狩」は小型の鷹を用いてする秋の狩。これに対し大鷹を用いる冬の狩を「大鷹狩」と言う。 * 「だに」は、副助詞。種々の語につき、それを最低限・最小限のものごととして提示する。 否定・反語と呼応して、「〜すら(ない)」の意。 19 4250;作者:大伴家持,内蔵縄麻呂、天平勝宝3年8月5日,枕詞,餞別,悲別,宴席,出発,羈旅,高岡 [題詞]便附大帳使取八月五日應入京師 因此以四日設國厨之饌於介内蔵伊美吉縄麻呂舘餞之 于時大伴宿祢家持作歌一首 (便ち大帳使に附きて、八月五日を取りて京師に入らむとす。これによりて、四日を以ちて国厨の饌を設け、介内蔵忌寸縄麿の館に餞(うまのはなむけ)す。時に大伴宿禰家持の作る歌一首) 家持の越中守在任は天平十八年より勝宝三年まで満五年、足かけ六年に及んだ。 之奈謝可流 越尓五箇年 住々而 立別麻久 惜初夜可<毛> [しなざかる] こしにいつとせ すみすみて たちわかれまく をしきよひかも 都はるかな越の国に
5年も住みついてきた いざ今宵立ち別れようとすると なんとも名残惜しいことでありますよ * 「まく」推量の助動詞「む」のク語法。上代語 …だろうこと。…しようとすること。
* 「ク語法」は活用語の語尾に「く(らく)」が付いて、全体が名詞化される語法。「言はく」「語らく」「老ゆらく」など。 * 「初夜(よひ)」は、六時の一で、夜を三分した最初の時間。 |
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19 4251;作者:大伴家持,内蔵縄麻呂、天平勝宝3年8月5日,餞別,出発,羈旅,悲別,枕詞,高岡 [題詞]五日平旦上道 仍國司次官已下諸僚皆共視送 於時射水郡大領安努君廣嶋 門前之林中預設<餞饌>之宴 于<此>大帳使大伴宿祢家持和内蔵伊美吉縄麻呂捧盞之歌一首 五日の平旦に上道す。仍りて国司の次官已下諸僚、皆共に視送る。時に射水郡の大領安努(あの)君廣島が門前の林の中に、預(かね)て餞饌の宴を設く。時に大帳使大伴宿禰家持の、内蔵伊美吉縄麿の盞を捧ぐる歌に和ふる一首* 「平旦」は夜明けの時刻、午前四時頃。トラノトキと和訓。 * 題詞にある「縄麿の盞を捧ぐる歌」が記録されていない理由は不明。 玉桙之 道尓出立 徃吾者 公之事跡乎 負而之将去 [たまほこの] みちにいでたち ゆくわれは きみがこととを おひてしゆかむ 旅路に出立して行く私は
あなたの業績をしっかりと背に負って その事績を奏上しますとも 19 4252;作者:久米広縄,大伴池主,大伴家持、天平勝宝3年8月5日,福井,武生,羈旅,悲別 [題詞]正税帳使掾久米朝臣廣縄事畢退任 適遇於越前國掾大伴宿祢池主之舘 仍共飲樂也 于時久米朝臣廣縄矚芽子花作歌一首 (正税帳使掾久米朝臣廣縄、事畢(をは)りて任に退り、適(たまた)ま越前国の掾大伴宿禰池主の館に遇ひ、仍りて共に飲楽す。時に久米朝臣廣縄の、萩の花を矚(み)て作る歌一首) 京から戻る途上の広縄と、上京途中越前に立ち寄った家持が、偶然池主の館で顔を合わせた。 君之家尓 殖有芽子之 始花乎 折而挿頭奈 客別度知 お宅に育っている萩の初花を
手折って挿頭にしましょう 別れ別れに旅する者どうし * 「どち」は、動作・性質・状態などにおいて、互いに共通点を持っている人。同じ仲間。名詞の下に付いて、接尾語的にも用いる。 19 4253;作者:大伴家持,大伴池主,久米広縄、 [題詞]大伴宿祢家持和歌一首 立而居而 待登待可祢 伊泥C来之 君尓於是相 挿頭都流波疑 たちてゐて まてどまちかね いでてこし きみにここにあひ かざしつるはぎ 立ったり座ったりして貴方の帰りを待っていましたが
待ち切れずとうとう出発してしまいましたのに その貴方にここでお逢いでき 共に萩を挿頭にしたのです なんという幸せなことでしょう 19 4254;作者:大伴家持、天平勝宝3年8月5日,年紀,,依興,予作,儀礼歌,応詔,宴席,枕詞,架空,羈旅,寿歌 [題詞]向京路上依興預作侍宴應詔歌一首[并短歌] 京に向かふ路上にして、興に依けて預(かね)て作る、宴に侍ひて詔に応ふる歌一首 并せて短歌 蜻嶋ー蜻蛉島ー[あきづしま]ー
山跡國乎ー大和の国をーやまとのくにをー日本の国を 天雲尓ー天雲にーあまくもにー神々が天空に 磐船浮ー磐舟浮べーいはふねうかべー磐船を浮かべ 等母尓倍尓ー艫に舳にーともにへにー船尾にも船首にも 真可伊繁貫ー真櫂しじ貫きーまかいしじぬきー櫂をたくさん取りつけ 伊許藝都遣ーい漕ぎつつーいこぎつつー漕ぎつつ 國看之勢志Cー国見しせしてーくにみしせしてー国見をなさり 安母里麻之ー天降りましーあもりましー降臨され 掃平ー払ひ平げーはらひたひらげー国土を征服され 千代累ー千代重ねーちよかさねー千代の歳を重ねて 弥嗣継尓ーいや継ぎ継ぎにーいやつぎつぎにー次次と 所知来流ー知らし来るーしらしくるー支配なさってきた 天之日継等ー天の日継とーあまのひつぎとー天の皇位の後継者として 神奈我良ー神ながらー[かむながら]ー神であるがままに 吾皇乃ー我が大君のーわがおほきみのー吾が大君は 天下ー天の下ーあめのしたー天下を 治賜者ー治めたまへばーをさめたまへばー統治なされば 物乃布能ー[もののふの]ー 八十友之雄乎ー八十伴の男をーやそとものををー多くの氏族官人らを 撫賜ー撫でたまひーなでたまひー可愛がり 等登能倍賜ー整へたまひーととのへたまひーとともえなさり 食國毛ー食す国もー[をすくにも]ー治国の隅々の 四方之人乎母ー四方の人をもーよものひとをもー万民をも 安<夫>左波受ーあぶさはずー余さず ヌ賜者ー恵みたまへばーめぐみたまへばー慈しみなさったので 従古昔ーいにしへゆー古来より 無利之瑞ーなかりし瑞ーなかりししるしー類を見ない祥瑞が 多婢<末>祢久ー度まねくーたびまねくーたびたび出現し 申多麻比奴ー申したまひぬーまをしたまひぬー人々はこれを申し上げた 手拱而ー手抱きてーたむだきてー[動カ四]「手(た)抱(むだ)く」意。腕を組む。 事無御代等ー事なき御代とーことなきみよとー事の無い太平の御代と 天地ーあめつちー天地 日月等登聞仁ー日月とともにーひつきとともにー日月とともに 万世尓ー万代にーよろづよにー万代に 記續牟曽ー記し継がむぞーしるしつがむぞー記し継いでゆこうぞ 八隅知之ー「やすみしし」ー 吾大皇ー我が大君ーわがおほきみー吾が大君が(この歌が制作された勝宝三年の時点における天皇は孝謙天皇。) 秋花ー秋の花ーあきのはなー秋に咲く花 之我色々尓ーしが色々にーしがいろいろにー「秋の花しが色々に…」は、天皇が多数の臣下に対し公平に目をかけることを暗喩。 見賜ー見したまひーめしたまひー賞美し 明米多麻比ー明らめたまひーあきらめたまひー堪能なさり 酒見附ー酒みづきーさかみづきー酒宴を催される 榮流今日之ー栄ゆる今日のーさかゆるけふのー盛大な今日という日の 安夜尓貴左ーあやに貴さーあやにたふとさー 譬えようもない貴さであることよ [題詞](向京路上依興預作侍宴應詔歌一首[并短歌])反歌一首 秋時花 種尓有等 色別尓 見之明良牟流 今日之貴左 あきのはな くさぐさにあれど いろごとに めしあきらむる けふのたふとさ 秋に咲く花はいろいろあるけれど
それぞれに目をかけられる 今日の貴さよ * 「見し明らむる」主体は天皇。 * 「種々の花」は八十伴の雄(たくさんの氏族の官人)の暗喩。 藤原氏の母をもつ孝謙天皇に対し、氏族に対する平等な寵愛を願う心情。 19 4256;作者:大伴家持,橘諸兄、天平勝宝3年8月5日,予作,寿歌 [題詞]為壽左大臣橘卿預作歌一首 左大臣橘卿を寿(ことほ)かむ爲に、預て作る歌一首 古昔尓 君之三代經 仕家利 吾大主波 七世申祢 いにしへに きみのみよへて つかへけり あがおほぬしは ななよまをさね 過ぎし御世には
大君三代を通してお仕えしたと申しますが わが主君はどうか七代まえもお仕え下さいますよう * 「古に君が三代経て仕へ」は、文武・元明・元正の三代にわたって重きをなし、諸兄がライバル心を燃やしていた対象と考えられる藤原不比等(659〜720)を想定する。
* 「吾が大主」は左大臣橘諸兄を指す。諸兄は文武朝末から宮仕えを始めたと思えわれので、これまで文武・元明・元正・聖武・孝謙と五代に仕えてきたことになる。 |



