ニキタマの万葉集

当て字の繭玉をほぐそう、枕詞で古代を解明しよう。

万葉集索引第十九巻

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19 4257;天平勝宝3年10月22日,宴席,古歌,伝誦,船王,狩猟,大君,久邇京,天平13年

[題詞]十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首
十月二十二日、左大弁紀飯麻呂朝臣の家にして宴する歌三首


手束弓  手尓取持而  朝猟尓  君者立<之>奴  多奈久良能野尓

手束弓 手に取り持ちて 朝狩りに 君は立たしぬ 棚倉の野に 

たつかゆみ てにとりもちて あさがりに きみはたたしぬ たなくらののに

[左注]右一首治部卿船王傳誦之 久邇京都時歌 [未詳作<主>也]
右一首、治部卿船王の伝へ誦める久迩の京都の時の歌なり。未だ作主を詳らかにせず

手束弓を手に握り持ち
わが君は朝狩にお立ちになった
棚倉の野に

* 「手束弓」は、手で握る部分を太くした大弓、または手に束ね持つ小弓。
* 「たなくらの野」(所在不詳、恭仁京付近か)に埋葬された「君」への挽歌らしい。その場合手束弓は儀装の弓(中西進『万葉集 全訳注原文付』講談社文庫)。
* 「紀飯麻呂」は、藤原広嗣の乱の際副将軍となり、以後急速に昇進、天平宝字元年には参議兼右大弁に至る。同じ頃、紫微中台の大弼(次官)として長官藤原仲麻呂を輔佐する地位についており、仲麻呂派の中心人物の一人であったと見られる。



19 4258;天平勝宝3年10月22日,明日香,奈良,伝誦,古歌,恋情,宴席,中臣清麻呂

[題詞](十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首)

明日香河  々戸乎清美  後居而  戀者京  弥遠曽伎奴

明日香川 川門を清み 後れ居て 恋ふれば都 いや遠そきぬ 

あすかがは かはとをきよみ おくれゐて こふればみやこ いやとほそきぬ

[左注]右一首左中辨中臣朝臣清麻呂傳誦 古京時歌也
右一首、左中弁中臣朝臣清麻呂の伝へ誦める古き京の時の歌なり

明日香川の渡り瀬があまり清らかなので
旧京に留まり
去っていった人々を恋しがっていると
新しい都はますます遠くなってゆくようだ

* 「京」はおそらく平城京、左注の「古き京」は藤原京を指すか。



19 4259;作者:大伴家持、天平勝宝3年10月22日,属目,宴席

[題詞](十月廿二日於左大辨紀飯麻呂朝臣家宴歌三首)

十月 之具礼能常可 吾世古河 屋戸乃黄葉 可落所見

十月 時雨の常か 吾が背子が 宿の黄葉 散りぬべく見ゆ 

かむなづき しぐれのつねか わがせこが やどのもみちば ちりぬべくみゆ

[左注]右一首少納言大伴宿祢家持當時矚梨黄葉作此歌也
右は、少納言大伴宿禰家持、当時梨の黄葉を矚て此の歌を作る

かむなづき
時雨の季節の常でしょうか
お宅の庭の黄葉はもう
散ってしまいそうに見えます

* 「吾が背子」は、紀飯麻呂を指す。



19 4260;作者:大伴御行、天平勝宝4年2月2日,古歌,伝誦,天武朝,大君讃美

[題詞]壬申年之乱平定以後歌二首

皇者  神尓之座者  赤駒之  腹婆布田為乎  京師跡奈之都

大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ 

おほきみは かみにしませば あかごまの はらばふたゐを みやことなしつ

[左注]右一首大将軍贈右大臣大伴卿作 (右件二首天平勝寶四年二月二日聞之 即載於茲也)(「大伴卿」は家持の大伯父、大伴御行(みゆき)。)

陛下は神でいらっしゃるので
赤駒が腹ばうような田地を都としてしまわれた

* 「皇」は天武天皇。
* 「赤駒の腹ばふ」は、農耕馬が腹まで泥濘に浸かる様か。
* 「京師」は飛鳥浄御原宮。
* 「大君」は「天皇の敬称」。
* 「神にしませば」は、「神」名詞。
* 「に」は、断定の助動詞「なり」の連用形。
* 「し」は、強調副助詞。
* 「ませ」は、サ行四段活用(補助)尊敬の動詞、「ま(座)す」の已然形。
* 「ば」は、確定条件の接続助詞。 神でいらっしゃるので。
* 「赤駒」は、赤みがかった毛色の馬。
* 「田居」は「人里」。
* 「なし」は、サ行四段活用動詞「なす」の連用形。
* 「つ」は、完了の助動詞。  都とした。




19 4261; [作者<未>詳]天平勝宝4年2月2日,年紀,伝誦,古歌,天武朝,大君讃美

[題詞](壬申年之乱平定以後歌二首)

大王者  神尓之座者  水鳥乃  須太久水奴麻乎  皇都常成通

大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ  

おほきみは かみにしませば みづとりの すだくみぬまを みやことなしつ

[左注]右件二首天平勝寶四年二月二日聞之 即載於茲也
右の件の二首は、天平勝宝四年二月二日に聞きて、即ち茲に載す

(天平勝宝四年二月に(おそらく家持が、親族の誰かから)伝え聞き、記録した歌。なお藤原定家の『長歌短歌之説』によれば、定家の見た或る写本では、この歌と次の4261の二首が巻十九の巻末に置かれていたとのこと。)

陛下は神でいらっしゃるので
水鳥が群れ集う沼地を都としてしまわれた



19 4262;作者:丹比鷹主、天平勝宝4年閏3月,遣唐使,大伴古麻呂,出発,餞別,宴席,羈旅,大伴古慈悲,伝誦,古歌,大伴村上,寿歌

[題詞]閏三月於衛門督大伴古慈悲宿祢家餞之入唐副使同胡麻呂宿祢等歌二首

[左注]右一首多治比真人鷹主壽副使大伴胡麻呂宿祢也 (右件歌傳誦大伴宿祢村上同清継等是也)

韓國尓  由伎多良波之○  可敝里許牟  麻須良多家乎尓  美伎多弖麻都流

唐国に 行き足らはして 帰り来む ますら健男に 御酒奉る 

からくにに ゆきたらはして かへりこむ ますらたけをに みきたてまつる

唐国に遣使され使命を終えて帰還されることを祈り
まことの偉丈夫に神聖な門出のための御神酒を奉ろうぞ

* この訓読「唐国」の原文では「韓國」になっている。
これは、ニニギの言葉「この土地(高千穂)は、韓国を望み、笠沙の岬を正面に見て……」という言葉の韓国が、唐国にも通じるということにもなるか。
「記紀」編纂期の地理認識を推理。




19 4263; [作<者>未詳]天平勝宝4年閏3月,古歌,伝誦,遣唐使,大伴古慈悲,大伴古麻呂,大伴村上,枕詞,出発,餞別,羈旅,悲別,神祭り,寿歌

[題詞](閏三月於衛門督大伴古慈悲宿祢家餞之入唐副使同胡麻呂宿祢等歌二首)

[左注]右件歌傳誦大伴宿祢村上同清継等是也

梳毛見自  屋中毛波可自  久左麻久良  多婢由久伎美乎  伊波布等毛比C

櫛も見じ 屋内も掃かじ 草枕 旅行く君を 斎ふと思ひて 

くしもみじ やぬちもはかじ [くさまくら] たびゆくきみを いはふともひて

櫛には見向きもすまい 
家の中を掃きもすまい
旅に出かけられてお留守の間は
あなたのご無事の祈りのために

* 良い結果を招くため、また逆に災いを遠ざけるために行なう呪術行為として、夫が旅先にあるとき、留守を守る妻は、髪をとかしてもいけないし、家の中を掃いてもいけなかったという俗信。旅行者、特に船旅に出る者の家族は、旅行者の身の安全を祈って、禁忌を守り斎戒した。
『魏志倭人伝』には、髪をとかず、虱も払わず、服は垢まみれ、肉食せず、女性に近づかず、あたかも服喪中のようにする「持衰」という者がいた。
もし、禁を破れば、旅行者は病気となり、災害に遭うと信じている、とある。
 唐から帰朝した空海の言葉『空シク往キテ満チテ帰ル』、本心は、満ちて帰るなどは過大な望みで、無事に帰国できれば十分だということだったらしい。

* 持衰について:
遣唐使の時に必ず伴っていたとの記述あり 船路の災いを一身に受ける生贄となる者。
荒しの時は海神の贄として海に投げ入れられる宿命を負った者。
水や食べ物は十分に与えられ、ある種の敬いの対象になっていた。
戸内にある家舟(えぶね)という各世帯にいる奴(やっこ)から 選ばれるらしい。
5歳くらいの時に神籤で選び出され、 持衰としての運命を受け入れるようずっと神社で育てられた。
一切の穢れをその身に受け、髪を結わず、切らず、つめなども切らず…のような姿で船に乗り込み、 災難に遭えば、その身は海に沈められ、災難に遭わなければ、褒美を沢山もらえたという。
 持衰は時化の度に失うので常に補充されなければならない。
髪を梳かすことなど)はしてはならない。 黥(いれずみ)を目〜頬〜こめかみにかけて入れられた。
持衰というのは、『魏志』倭人伝が初出らしい。
 [持衰]とは(出典)
http://www2.ocn.ne.jp/~syouji/kodaisi_14-I.html



19 4264;作者:孝謙天皇,藤原清河、天平勝宝4年閏3月,古歌,伝誦,遣唐使,高麗福信,餞別,出発,羈旅,枕詞

[題詞]勅従四位上高麗朝臣福信遣於難波賜酒肴入唐使藤原朝臣清河等御歌一首[并短歌]

[左注](右發遣 勅使并賜酒樂宴之日月未得詳審也)
右は勅使を発遣し、并せて酒を賜ふ。楽宴の日月詳審らかにすることを得ず。


<(女帝孝謙)勅して従四位上高麗朝臣福信を難波に遣わし、酒肴を入唐使藤原朝臣清河等に賜へる御歌一首并せて短歌>

虚見都ー[そらみつ]ー
山跡乃國波ー大和の国はーやまとのくにはー大和の国は
水上波ー水の上はーみづのうへはー渡海は
地徃如久ー地行くごとくーつちゆくごとくー地上を行くごとく
船上波ー船の上はーふねのうへはー船中では
床座如ー床に居るごとーとこにをるごとー床に居るごとしと
大神乃ー大神のーおほかみのー大神の
鎮在國曽ー斎へる国ぞーいはへるくにぞー斎へる国であるぞ
四舶ー四つの船ーよつのふねー四つの船
々能倍奈良倍ー船の舳並べーふなのへならべー船の舳を並べて
平安ー平けくーたひらけくー平穏無事に
早渡来而ー早渡り来てーはやわたりきてー早渡り来て
還事ー返り言ーかへりことー報告事項を
奏日尓ー奏さむ日にーまをさむひにー奏上する日に
相飲酒曽ー相飲まむ酒ぞーあひのまむきぞーまた相飲まん酒(き)ぞ
<斯>豊御酒者ーこの豊御酒はーこのとよみきはーこの豊御酒は



19 4265;作者:孝謙天皇,藤原清河、天平勝宝4年閏3月,古歌,伝誦,遣唐使,高麗福信,餞別,出発,羈旅,寿歌,神祭り

[題詞](勅従四位上高麗朝臣福信遣於難波賜酒肴入唐使藤原朝臣清河等御歌一首[并短歌])反歌一首

[左注]右發遣 勅使并賜酒樂宴之日月未得詳審也


四舶  早還来等  白香著  朕裳裙尓  鎮而将待

四つの船 早帰り来と しらか付け 我が裳の裾に 斎ひて待たむ 

よつのふね はやかへりこと しらかつけ わがものすそに いはひてまたむ

四隻の船が早く帰るようにと
白髪をつけてわが裳の裾に斎(いわ)い事をして待とう


19 4266;作者:大伴家持、天平勝宝4年,儲作,予作,応詔,儀礼歌,枕詞,大君讃美,寿歌

[題詞]為應詔儲作歌一首[并短歌]
詔(みことのり)に応へむが為に儲(ま)けて作る歌一首 并せて短歌

安之比奇能ー[あしひきの]ー
八峯能宇倍能ー八つ峰の上のーやつをのうへのー幾重にも重なる尾根に
都我能木能ー栂の木のー[つがのきの]ー生えている栂の樹のように
伊也継々尓ーいや継ぎ継ぎにーいやつぎつぎにー次々と将来に渡って
松根能ー松が根のー[まつがねの]ー松の根のように
絶事奈久ー絶ゆることなくーたゆることなくー途切れることなく
青丹余志ー[あをによし]ー青丹美しい
奈良能京師尓ー奈良の都にーならのみやこにー奈良の都に宮を置かれて
万代尓ー万代にーよろづよにー万代までも
國所知等ー国知らさむとーくにしらさむとー国を治められようと
安美知之ー[やすみしし]ー
吾大皇乃ー我が大君のーわがおほきみのー我らが陛下は(孝謙天皇)
神奈我良ー神ながらー[かむながら]ー神意のままに
於母保之賣志弖ー思ほしめしてーおもほしめしてーお思いになって
豊宴ー豊の宴ーとよのあかりー大いなる宴を催された
見為今日者ー見す今日の日はーめすけふのひはーそのようにめでたい今日という日に
毛能乃布能ー[もののふの]ー
八十伴雄能ー八十伴の男のーやそとものをのー諸々の官人が
嶋山尓ー島山にーしまやまにー御園の山斎(しま)に
安可流橘ー赤る橘ーあかるたちばなー赤く色づいている橘の実を
宇受尓指ーうずに刺しーうずにさしー冠に飾り
紐解放而ー紐解き放けてーひもときさけてー衣の紐を解いて
千年保伎ー千年寿きーちとせほきー千年の御代を予祝し
<保>吉等餘毛之ー寿き響もしーほきとよもしー大声で祝言を叫び
恵良々々尓ーゑらゑらにー高らかに笑って
仕奉乎ー仕へまつるをーつかへまつるをーお仕え申し上げる様を
見之貴者ー見るが貴さーみるがたふとさー見るのは、何という貴さであろうか

[左注](右二首大伴宿祢家持作之)




19 4267;作者:大伴家持、

[題詞](為應詔儲作歌一首[并短歌])反歌一首

須賣呂伎能  御代万代尓  如是許曽  見為安伎良目<米>  立年之葉尓

天皇の 御代万代に かくしこそ 見し明きらめめ 立つ年の端に 

すめろきの みよよろづよに かくしこそ めしあきらめめ たつとしのはに

[左注]右二首大伴宿祢家持作之

天皇の御代の続く万代にわたって
このようにこころゆくまで宴を楽しまれるであろう
新しく訪れる年ごとに

* 「あきらめの」は、満足ゆくまでする意。



19 4268;作者:孝謙天皇、天平勝宝4年,年紀,,佐々貴山君,誦詠,行幸,光明皇后,藤原仲麻呂,贈答

[題詞]天皇太后共幸於大納言藤原家之日黄葉澤蘭一株拔取令持内侍佐々貴山君遣賜大納言藤原卿并陪従大夫等御歌一首 命婦誦曰
(孝謙天皇と光明皇后が共に藤原仲麻呂の家にいらっしゃった時に、色づいた澤蘭(さはあららぎ)を一株抜き取って、内侍の佐々貴山君(ささきやまのきみ)に持たせて、藤原仲麻呂と彼に付き添う大夫(たいふ)たちにお贈りになった歌)


此里者  継而霜哉置  夏野尓  吾見之草波  毛美知多里家利

この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 吾が見し草は もみちたりけり 

このさとは つぎてしもやおく なつののに わがみしくさは もみちたりけり

この里はいつも霜が降り続くのでしょうか
夏の野で見た草は色づいていましたよ 

* 「もみつ」は上代の動詞終止形で、紅葉するの意。
* 「澤蘭(さはあららぎ)」は、サワヒヨドリ、ヒヨドリバナ、ヤナギランと色々な説がある。



19 4269;作者:聖武天皇,橘諸兄、天平勝宝4年11月8日,肆宴,宴席,主人讃美

[題詞]十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首
十一月八日、左大臣橘卿の宅に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)きこしめす歌四首

余曽能未尓  見者有之乎  今日見者  年尓不忘  所念可母

よそのみに 見ればありしを 今日見ては 年に忘れず 思ほえむかも 

よそのみに みればありしを けふみては としにわすれず おもほえむかも

[左注]右一首太上天皇御歌
「太上天皇」は聖武太上天皇。

これまであなたのお屋敷を外目にばかり見ていたが
今日久しぶりに来て見て
これからは毎年忘れず思い出すことだろう




19 4270;作者:橘諸兄,聖武天皇、天平勝宝4年11月8日,宴席,肆宴,挨拶

[題詞](十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首)

牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎

葎延ふ 賎しき宿も 大君の 座さむと知らば 玉敷かましを 

むぐらはふ いやしきやども おほきみの まさむとしらば たましかましを

[左注]右一首左大臣橘卿
右一首、左大臣橘卿

むぐらが生えているような
むさくるしい私の家へ
陛下がお出ましになると存じていましたら
玉を敷きつめてお待ち申し上げましたのに

* 「玉を敷きつめ」は、言葉上の儀礼慣習句。



19 4271;作者:藤原八束、天平勝宝4年11月8日,宴席,肆宴,聖武天皇,見立て,橘諸兄

[題詞](十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首)

松影乃 清濱邊尓 玉敷者 君伎麻佐牟可 清濱邊尓

松蔭の 清き浜辺に 玉敷かば 君来まさむか 清き浜辺に 

まつかげの きよきはまへに たましかば きみきまさむか きよきはまへに

[左注]右一首右大辨藤原八束朝臣
右一首、右大弁藤原八束朝臣

松影を清らかに映す浜辺に
玉を敷きましたなら
陛下はお出で下さるでしょうか
この清らかな浜辺に

* 「浜辺」は、庭園の池畔のことを云っている。
* 八束の母は、橘諸兄の妹牟漏(むろ)女王。橘諸兄とは、伯父・甥の関係。藤原北家は、父房前の代から、大伴家とも親しく、一方、八束は、橘諸兄の政敵であるいとこの仲麻呂からは、疎んぜられた。




19 4272;作者:大伴家持、天平勝宝4年11月8日,未奏,橘諸兄,宴席,肆宴,大君讃美

[題詞](十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首)

天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里

天地に 足らはし照りて 吾が大君 敷きませばかも 楽しき小里 

あめつちに たらはしてりて わがおほきみ しきませばかも たのしきをさと

[左注]右一首少納言大伴宿祢家持 [未奏]
右一首、少納言大伴宿禰家持 奏(まを)さず。(原文「未奏」)は、奏上の機会なく宴が終わってしまったということ。

天地の間をあまねく輝き照らすように
わが大君がお治めになっているからか
ここは何とも楽しくてならぬ里でございます

* 「敷き座せ」の「敷き」は、力を一面に及ぼす意。そこから「支配する」意にも。諸兄と八束の歌にあった「玉敷」を受けた表現。
* 「楽し」は、物が豊かに満ちていることから来る充足感、特に食欲などが満たされた状態を指す言葉。
* 「小里」は、諸兄の別邸があった井手(京都府綴喜郡井手町)の里を指すとも。この「小(を)」は美称。

<孝謙天皇と光明皇太后が大納言仲麻呂の屋敷を訪れた歌に並べて、聖武上皇が諸兄邸を訪れた歌を置いていることから、ここに仲麻呂派と諸兄派の対立を読み取る説があります(梅原猛「大伴家持」集英社版全著作集12)。一見のどかに見える家持の歌日記ですが、このように、実は背後に重苦しい歴史的・政治的文脈を隠し持っています。この箇所は、それが露に透けて見える例だと言えるでしょう。(大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳)より転載。>



19 4273;作者:巨勢奈弖麻呂、天平勝宝4年11月25日,肆宴,宴席,応詔,大君讃美,寿歌,新嘗祭

[題詞]廿五日新甞會肆宴應詔歌六首
二十五日、新嘗会の肆宴に、詔に応ふる歌六首

天地与 相左可延牟等 大宮乎 都可倍麻都礼婆 貴久宇礼之伎

天地と 相栄えむと 大宮を 仕へまつれば 貴く嬉しき 

あめつちと あひさかえむと おほみやを つかへまつれば たふとくうれしき

天地と共に繁栄されるようにと
新嘗の大宮に奉仕いたしたのですから
貴くもも嬉しいことでございます




19 4274;作者:石川年足

天尓波母 五百都綱波布 万代尓 國所知牟等 五百都々奈波布

天にはも 五百つ綱延ふ 万代に 国知らさむと 五百つ綱延ふ 

あめにはも いほつつなはふ よろづよに くにしらさむと いほつつなはふ

御殿にたくさんの綱が張ってある
万年の後までも国をお治めになろうと
数多い綱が張ってある

* 室内に沢山の綱を張るのは、その家の主の長寿を堅める呪術行為。




19 4275;作者:文屋真人

天地与  久万弖尓  万代尓  都可倍麻都良牟  黒酒白酒乎

天地と 久しきまでに 万代に 仕へまつらむ 黒酒白酒を 

あめつちと ひさしきまでに よろづよに つかへまつらむ くろきしろきを

天地とともに幾久しく
万代までもお仕えいたしましょう
黒酒・白酒をお供え申し上げて

* 黒酒・白酒は新嘗会で神前に供える酒。
神酒 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92



19 4276;作者:藤原八束

嶋山尓  照在橘  宇受尓左之  仕奉者  卿大夫等

島山に 照れる橘 うずに刺し 仕へまつるは 卿大夫たち 

しまやまに てれるたちばな うずにさし つかへまつるは まへつきみたち

庭の山<山斎(しま)>に輝く橘の実を
髪飾りに挿してお仕えするのは
天皇の御前に伺候する高官たちです

* 「つかえまつる」仕へ奉る。(動ラ四)「仕ふ」に動詞「まつる(奉)」の付いた語〕「仕える」の謙譲語。仕える対象に対する敬意を表す。
(目上の人に)お仕え申し上げる。
この宴会は,父聖武天皇が女帝孝謙天皇に天平勝宝元年(749年)に譲位した後,孝謙天皇の縁戚で急速に勢力を伸ばした藤原仲麻呂が,それまで聖武天皇とともに平城政治を中心的に担ってきた橘諸兄(葛城王)を脅かす存在になってきた時期で、天皇に仕える高官はほとんど橘諸兄派ですという<橘 うずに刺し>。



19 4277;作者:藤原永手

袖垂而  伊射吾苑尓  鴬乃  木傳令落  梅花見尓

袖垂れて いざ吾が園に 鴬の 木伝ひ散らす 梅の花見に 

そでたれて いざわがそのに うぐひすの こづたひちらす うめのはなみに

袖を垂らして
さあ吾らが庭園に参りましょう
鴬が枝づたいに散らす
梅の花を見に

* 「袖垂れて」は、太平を暗示しているとのこと。
* 「梅に鴬はふつう早春の取り合わせ」である。この歌はやがて訪れる新春を予祝したもの。
* 「大和国」、当時の正しい表記は「大倭国」。大和の用字に改められるのは天平宝字元年のこと。

* 藤原永手は北家房前の第二子、八束の同母兄。この年三十八歳で、八束と同じ従四位上。大倭守となったのは新嘗祭の直前のこと。のち、度々の政変を乗り切って昇進を重ね、天平神護二年、道鏡が法王となった同じ日に左大臣に至っている。



19 4278;作者:大伴家持

足日木乃  夜麻之多日影  可豆良家流  宇倍尓也左良尓  梅乎之<努>波牟

あしひきの 山下ひかげ かづらける 上にやさらに 梅をしのはむ 

[あしひきの] やましたひかげ かづらける うへにやさらに うめをしのはむ

山陰に生えるひかげのかずらを縵にした上
さらに梅の花を賞美しようとは

* 「山下日影」は、山陰のヒカゲノカズラ。天ウズメ命が天の岩戸の前で踊ったときヒカゲノカズラを縵にしていたと古事記にあり、太陽復活を祈る呪物であるという。(中西進『大伴家持』角川書店)。

以下<転載[フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]より>
 アメノウズメ;
紀の記述からは「神懸かって舞った」と読めるため、笑いをとることが彼女の踊りの目的ではない。むしろ手弱女であるが、恥じらいをかなぐり捨て乳房を出して半裸となり、踵を股の内側に、つま先を外側にひねって地を踵で強く踏む申楽のステップをする動作が重要で、下半身の力強さを演舞で表現したとみられる。その女相撲めいた武道的力(強女=オズメ)のエロティシズムに対して喝采が贈られ、乱闘的祭り(宴会?)の喧噪に天照大神の心が動いたと見る方が自然である。
 天の岩戸の前におけるこのような彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができる。いわばアメノウズメの逸話は古代の神に仕える巫女たちの姿を今に伝えるものであると考えることができる。この場合の神とはアマテラスという神格が与えられるより以前の古い太陽神信仰であり、後に太陽神の神格がアマテラスへと置き換わった後にもアメノウズメの立場までは置き換わらなかったために現在のような神話として伝わっている、と思われる。
 このことを顕著に示す事例が、岩戸神楽の原型と伝えられる宮崎県西臼杵郡高千穂町の「高千穂の夜神楽」である。この神楽では、始めに素面で男性の舞手が日本刀の剣舞をした後、後半の舞で登場するアメノウズメは、左手に笹葉を模した木の枝を、右手に幣をつけた五十鈴を持って、中国の剣舞の「刺剣」の動作をしてスピン回転をしながら舞う。アマテラスは33番の最後に夜明けに高木(外注連)に降誕する神霊(タカギムスヒノカミ)と考えられていて、舞い手の神としては最後まで登場しない。そこで大神とされるのは、大わだつみの神である。
 こうした踊りは、神を慰撫し、力を回復させるための踊り(巫=神凪/かんなぎ、神座/神楽=かみくら/かぐら/かみあそび)である。一方日本書紀においては「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」とあり、これは神の業をその身に招いて観衆を楽しませる姿を表している。このことが「俳優」の語源になっているように、神楽舞に連なるこれらの祭事は、日本の芸能の出発点となったことが確かである。
 なお、ヤマト王権の大王(天皇家の祖)が行った古代の大嘗祭においても、大王家の祖神を祀る巫女たちが同様の神懸かりした激しい踊りを踊っていたということがわかっている。これは上記のような太陽神への祭事が変化したものであると考えられる。その背景は、大和王権が太陽神=アマテラスを祀りかつその子孫を標榜していたことに着目すると理解しやすい。
 また天孫降臨の際にサルタヒコと応対し、その後、その名を負って猿女君を名乗ったという逸話も、サルタヒコが元々伊勢地方で崇められていた太陽神であったとされることから、アメノウズメが太陽神に使える巫女たちを神格化したものであることの証拠とも言える。猿女一族は古くから朝廷の祭祀と深く結びついていた一族であり、また猿女君は宮廷祭祀において神楽を舞うことを担当した神祇官の役職名である。
 神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女」の意とする説や、中国風に髪を頭の上にあげ、蔦をかざし(髪をとめるピンやはちまき)にしてとめた「髻(ウズ)」を結った女性の意とする説などがある。



19 4279;作者:船王、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,序詞,奈良

[題詞]廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首
「林王」は舎人親王の孫、三島王の子。歌の作者船王の甥。

能登河乃  後者相牟  之麻之久母  別等伊倍婆  可奈之久母在香

能登川の 後には逢はむ しましくも 別るといへば 悲しくもあるか 

のとがはの のちにはあはむ しましくも わかるといへば かなしくもあるか

[左注]右一首治部卿船王(ふねのおおきみ)
* 「船王」は舎人親王の子、宝字元年の奈良麻呂の乱の際には与党を拷問する役を負っており、また宝字八年には押勝の乱に連座して隠岐に配流された。

能登川の名のように
のちにはお逢いしましょう  
しばらくの間とはいえ  
別れ別れになるというのは悲しいことです



19 4280;作者:大伴黒麻呂、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,寿歌

[題詞](廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首)

立別  君我伊麻左婆  之奇嶋能  人者和礼自久  伊波比弖麻多牟

立ち別れ 君がいまさば 磯城島の 人は我れじく 斎ひて待たむ 

たちわかれ きみがいまさば [しきしまの] ひとはわれじく いはひてまたむ

[左注]右一首右京少進大伴宿祢黒麻呂

あなたの立ち去る別れは
大和の人たちには我が事のように
物忌み謹んでお帰りをお待ちするでしょう

* 「磯城島の」はヤマトにかかる枕詞。のちに大和・日本の別称となる。
  ここの場合奈良麻呂の故郷である大和の国。



19 4281;作者:大伴家持、天平勝宝4年11月27日,宴席,橘奈良麻呂,餞別,悲別,出発,羈旅,橘諸兄,推敲,添削

[題詞](廿七日林王宅餞之但馬按察使橘奈良麻呂朝臣宴歌三首)

白雪能  布里之久山乎  越由加牟  君乎曽母等奈  伊吉能乎尓念 伊伎能乎尓須流

白雪の 降り敷く山を 越え行かむ 君をぞもとな 息の緒に思ふ 息の緒にする 

しらゆきの ふりしくやまを こえゆかむ きみをぞもとな いきのをにおもふ いきのをにする

[左注]左大臣換尾云 伊伎能乎尓須流 然猶喩曰 如前誦之也 / 右一首少納言大伴宿祢家持
「左大臣」は奈良麻呂の父、橘諸兄。

雪の降り積もる山を越えて行くあなたを
命と頼んでお慕いせずにはいられません

* この「山」は、畿内と山陰地方とを隔てる山々(丹波高地)を指す。
* 「もとな」は、やけに・とめどなくの意。「もとな〜する」で、「〜されてどうしようもない」といった意味になる。
* 「息の緒」は、命の綱、頼みの綱。息は呼吸・生命・活力などの意。
緒は紐状に長く続いているもの。すなわち「息の緒に思ふ」で「生命を繋ぎとめてくれる頼みの綱と思う」のような意。<転載(大伴家持全集 訳注編 Vol.3 水垣 久 編訳)より>




19 4282;作者:石上宅嗣、天平勝宝5年1月4日,宴席,恋愛,譬喩

[題詞]五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首

辞繁 不相問尓 梅花 雪尓之乎礼C 宇都呂波牟可母

言繁み 相問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも 
ことしげみ あひとはなくに うめのはな ゆきにしをれて うつろはむかも

[左注]右一首主人石上朝臣宅嗣

雪だ梅だと世間がうるさいので
梅の花が雪に映えるまもなく
萎れてしまうのかなあ




19 4283;作者:茨田王、天平勝宝5年(753)1月4日,宴席,恋愛,見立て,譬喩,石上宅嗣

[題詞](五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首)
五年正月四日、治部少輔石上朝臣宅嗣の家にして宴する歌

[左注]右一首中務大輔茨田王

梅花  開有之中尓  布敷賣流波  戀哉許母礼留  雪乎持等可

梅の花 咲けるが中に ふふめるは 恋か隠れる 雪を待つとか 

うめのはな さけるがなかに ふふめるは こひかこもれる ゆきをまつとか

梅の花の中にまだ蕾があるのは
恋の思いを籠めて
雪が降るのを待っているのでしょうか

* 「咲けるが中に」の「が中に」は、活用語の連体形に付いて、そのものを中心として見ての位置関係を示す。

* 茨田王 まんたのおおきみ 生没年未詳  系譜などは未詳。
天平十一年(739)正月、従五位下に初叙。翌年、従五位上に昇る。
同十六年二月、聖武天皇の難波行幸に際し、少納言の官にあって、恭仁宮の駅鈴・内外印を難波宮に運ぶ。
その後、宮内大輔・越前守・中務大輔を歴任。
天平宝字元年(757)十二月には、越中守従五位上の地位にあった。
万葉集に一首の歌を残す。




19 4284;作者:道祖王、天平勝宝5年1月4日,宴席,石上宅嗣

[題詞](五年正月四日於治部少輔石上朝臣宅嗣家宴歌三首)

新  年始尓  思共  伊牟礼C乎礼婆  宇礼之久母安流可

新しき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば 嬉しくもあるか 
あらたしき としのはじめに おもふどち いむれてをれば うれしくもあるか

[左注]右一首大膳大夫道祖王

新しい年の初めに
打ち解けたもの同士集うのは
本当に嬉しいことですね


19 4285;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日,宮廷,寿歌

[題詞]十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐<歌>三首

大宮能  内尓毛外尓母  米都良之久  布礼留大雪  莫踏祢乎之

大宮の 内にも外にも めづらしく 降れる大雪 な踏みそね惜し 

おほみやの うちにもとにも めづらし ふれるおほゆき なふみそねをし

内裏の内にも外にもめずらしや
大雪が降った
この吉兆の白雪をどうか踏み荒らさないで欲しい

* 「な」は強い禁止を表わす副詞。「そ」を添えて表現を和らげ、「ね」と尊敬・親愛の籠もった希求の助詞ねまで付けているので、懇願に近い非常に丁寧な禁止になっている。
* 純白が清浄さを、また大雪が豊饒の吉兆と考えられ貴んだ。
* 「大宮の内にも外にも」降り積もった雪は、地上の王権を祝福する天からの贈物と考えられ、踏み荒らされてはならなかった。




19 4286;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日,叙景

[題詞](十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐<歌>三首)

御苑布能  竹林尓  鴬波  之波奈吉尓之乎  雪波布利都々

御園生の 竹の林に 鴬は しば鳴きにしを 雪は降りつつ 

みそのふの たけのはやしに うぐひすは しばなきにしを ゆきはふりつつ

もう春だよと鴬がしきりに鳴いているというのに
御庭園の竹林には雪が降りつづいている

* 「ウグイス」はスズメ目ウグイス科。霍公鳥(ほととぎす)についで多くの歌に詠まれており、春(はる)、梅(うめ)とのセットで詠まれることが多い。
「鴬鳴くも」というフレーズが多い。
春に「ホーホケキョ」と鳴くことで知られており、早春に鳴くことから春告鳥(はるつげどり)とも呼ばれている。




19 4287;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月11日

[題詞](十一日大雪落積尺有二寸 因述拙懐<歌>三首)

鴬能  鳴之可伎都尓  <々>保敝理之  梅此雪尓  宇都呂布良牟可

鴬の 鳴きし垣内に にほへりし 梅この雪に うつろふらむか 

うぐひすの なきしかきつに にほへりし うめこのゆきに うつろふらむか

鴬が鳴いていた垣根の内では
梅が咲き誇っていたが
この雪で散ってしまっていまいか

*「垣内」は囲いの内側。
* 宮中の庭園を眺めつつ、自宅で聞いた鴬の声を追想して詠んだものと考えられている。




4288;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月12日,宮廷

[題詞]十二日侍於内裏聞千鳥喧作歌一首
十二日、内裏に侍(さもら)ひて千鳥の喧くを聞きて作る歌一首

河渚尓母  雪波布礼々之  <宮>裏  智杼利鳴良之  為牟等己呂奈美

川洲にも 雪は降れれし 宮の内に千鳥鳴くらし居む所なみ 

かはすにも ゆきはふれれし みやのうちに ちどりなくらし ゐむところなみ

川洲にも雪が降り積もったのか
御所の内で千鳥が鳴いている
居る場所がないのだろう

* 千鳥が鳴くのは通例夜ということで、この歌は内裏に宿直していたか。
* 孝謙天皇は平城宮の内裏にはほとんどお住まいでなかった。平城宮を常々お留守にしていたということは、孝謙天皇が実質的な執政をほとんど為さらなかった証で、言うまでもなく当時行政の実権は母皇太后の紫微中台(光明皇太后)に掌握されていた。
* 居場所を無くした悲しみに鳴く千鳥とは、家持自身に重なる。
*「降れゝし」は、動詞「フル」、命令形。+完了の助動詞「リ」、已然形。+強調の助詞「シ」。『萬葉集略解』では宣長の説として、シ(之)はヤ(也)の誤りとし、フレレヤと訓む。
* 「降れれば」→ラ行四段活用動詞「降る」の已然形「降れ」+助動詞・完了「り」の已然形「れ」+接続助詞・原因理由「ば」=雪が降ってしまったので。とみたい。
<個別へ>http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/32078482.html



19 4289;作者:大伴家持,橘諸兄、天平勝宝5年2月19日,宴席,寿歌

[題詞]二月十九日於左大臣橘家宴見攀折柳條歌一首
二月十九日、左大臣橘家の宴にして、攀ぢ折れる柳の条(えだ)を見る歌一首

青柳乃  保都枝与治等理  可豆良久波  君之屋戸尓之  千年保久等曽

青柳の 上枝攀ぢ取り かづらくは 君が宿にし 千年寿くとぞ 
あをやぎの ほつえよぢとり かづらくは きみがやどにし ちとせほくとぞ

青柳の新芽の出た梢の枝を
つかんで引き寄せ
手折って縵にするのは
吾が君の家に
千年の栄えを祈ってのことです

*「ほつ枝」は、上の方の枝・新芽の出たばかりの枝。それだけ呪力が強いとされた。
* 「よじ‐と・る」攀ぢ取る。[動ラ四]つかんで引き寄せて折り取る。




19 4290;作者:大伴家持、天平勝宝5年2月23日,春愁,叙景,依興,悲嘆

[題詞]廿三日依興作歌二首
二十三日、興(こと)に依(つ)けて作る歌二首

春野尓  霞多奈i伎  宇良悲  許能暮影尓  鴬奈久母

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鴬鳴くも 

はるののに かすみたなびき うらがなし このゆふかげに うぐひすなくも

春の野に霞がたなびく春の盛りなのに
何となく物悲しい
この夕暮れの薄明かりのなかで
うぐいすが鳴いているなあ

* 「悲し」は、ある感情に胸をつまらさすような状態を指す言葉で、悲哀ばかりでなく、恋人や家族への愛しさ、美しい景色などに対しても、その感動を表現する。
* 「夕影」の「かげ」は光の意。
* 「も」は、主として活用語の終止形に付き、詠嘆をあらわす終助詞。
* 家持はこの2年前に少納言に任ぜられ、越中から帰京しているが、政治の実権は藤原仲麻呂に握られ、家持には不満が募る時期にあたる。



19 4291;作者:大伴家持、天平勝宝5年2月23日,依興

[題詞](廿三日依興作歌二首)

和我屋度能  伊佐左村竹  布久風能  於等能可蘇氣伎  許能由布敝可母

吾が宿の い笹群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも 

わがやどの いささむらたけ ふくかぜの おとのかそけき このゆふへかも

わが家の庭のささ竹群を
吹きわたる風の音が
かすかに聞こえるこの夕暮れよ

* 「いささ群竹」は難解。イササを細波(ささなみ)などのササ(小さい意)と同根とし、ささやかな竹の群と解する説が有力だが、「五十竹葉」で竹の葉の多い意とする説(『萬葉集古義』)、「斎笹(ゆささ)」(10/2336)と同じで神聖な笹の葉の意とする説なども捨てがたい気がします。
* 上二首の題詞に「興に依け」(依興)とあり、家持において「目を属(つ)けて」(属目)と対比的に用いられ、題詞はこれらが実景を目にしての作でない ―想像裡の作である― ことに注意。
<個別へ> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/31925036.html
<再掲載> http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/31925036.html    


19 4292;作者:大伴家持、天平勝宝5年2月25日,悲嘆,春愁,孤独

[題詞]廿五日作歌一首

宇良々々尓  照流春日尓  比婆理安我里  情悲毛  比<登>里志於母倍婆

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 独し思へば 

うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば

[左注]春日遅々ネノ正啼 悽惆之意非歌難撥耳 仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱 作者名字徒録年月所處縁起者 皆大伴宿祢家持裁作歌詞也

うららかな陽光の春の日に
雲雀の声も空高く舞い上がる
なのに一人物思う私の心は悲しい

【付記】巻第十九の巻末歌。次の元正上皇の御製が巻第二十の巻頭。
家持個人歌集の性格が強かった巻十九に対し、巻二十では、皇室から郡司の妻女・防人までを含む、より広い社会層から歌を集めようとの意図が見られる。また前三巻の浪漫性に対し、政治的な圧迫感が息苦しさを齋している、極めて現実性の強い歌巻であるとも言える。その一方で、通奏低音のように元正・聖武両天皇への讃仰・追憶、そして天平の栄華に対する賛美の念が貫かれ、編纂者の意図かどうかはともかくとして、結果的に「締めくくり」の思が濃厚な巻にもなっています。
(出典・転載「大伴家持全集 訳注編 Vol.3水垣 久 編訳」より。)



<以上、巻十九完>

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