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19 4288;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月12日,宮廷 [題詞]十二日侍於内裏聞千鳥喧作歌一首 十二日、内裏に侍(さもら)ひて千鳥の喧くを聞きて作る歌一首 河渚尓母 雪波布礼々之 <宮>裏 智杼利鳴良之 為牟等己呂奈美 かはすにも ゆきはふれれし みやのうちに ちどりなくらし ゐむところなみ ・・・・・・・・・・
川洲にも雪が降り積もったのか 御所の内で千鳥が鳴いている 居る場所がないのだろう ・・・・・・・・・・ * 千鳥が鳴くのは通例夜ということで、この歌は内裏に宿直していたか。
* 孝謙天皇は平城宮の内裏にはほとんどお住まいでなかった。平城宮を常々お留守にしていたということは、孝謙天皇が実質的な執政をほとんど為さらなかった証で、言うまでもなく当時行政の実権は母皇太后の紫微中台(実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。後に坤宮 官に改称。長官は紫微令、後に紫微内相)に掌握されていた。 * 居場所を無くした悲しみに鳴く千鳥とは、家持自身に重なる。 *「降れゝし」は、動詞「フル」、命令形。+完了の助動詞「リ」、已然形。+強調の助詞「シ」。『萬葉集略解』では宣長の説として、シ(之)はヤ(也)の誤りとし、フレレヤと訓む。 * 「降れれば」→ラ行四段活用動詞「降る」の已然形「降れ」+助動詞・完了「り」の已然形「れ」+接続助詞・原因理由「ば」=雪が降ってしまったので。とみたい。 * 「なみ」は、形容詞「なし」の語幹+接尾語「み」。「み」〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。 |
万葉集索引第十九巻
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日本はなぜ「大和国」ではなく「日本国」なのか 「近江なる」とはどんな意味か 【日本は何時「日本国」になったのか】 日本は「やまと」「倭」「大和」でした。 何時から「日本」となったのでしょうか。 これは知りたいですよね。 奈良時代の712年から720年の間です、 712年は元明天皇の時代で、古事記が完成しました。 しかし古事記には「日本」という文字は一つもないのです。 720年は元正天皇の時代で、日本書紀が完成しました。 日本書紀には「日本」(やまと)(国)が40か所出てきます。 「日本」のついている人名は「日本武尊」をはじめとして、 「日本童男」(やまとおぐな) 「日本武」(やまとたける) 「日本足彦国押人尊」(やまとたらしひこくにおしひと)(6代考安天皇) です。 712年から720年の8年間に、 「大和」が「日本」になったのです。 これは「大江の誓え」があったのです。 「大江の誓え」は、壬申の乱が終わった時と思っていましたが、壬申の乱は700年までには終わっているので、 (定説では672年) 「大江の誓え」はずいぶん後なのかな。 それにしても、 六代天皇考安天皇の和名諡号「日本足彦国押人尊」は、 私が「聖徳太子」としている方のお名前、 「押坂彦人大兄王」とよく似ていますね。 【「柿本人麻呂」も「山部赤人」もペンネームではないか】 柿本人麻呂も、山部赤人も、超一流の万葉作家ですが、このお二人は別名があるのではないでしょうか。 「雅号」というか、ペンネームと言うか、和歌の作家名ではないかと思います。 直感からいいますと、柿本人麻呂は藤原不比等で、山部赤人が長屋王。 お二人は親子。 実は、壬申の乱の後、「吉野の盟約」と「近江の誓え」があったのです。 「近江の誓え」では、「大和」の国名を「日本」にすると、吉野朝側が決めたのです。 「日本」とは近江朝が使っていた国名なのです。 吉野朝は「大和」という国名でした。 しかし、そうは決めたものの、滅んだ国の国名を、ぼした国の国名に使うことなど、前代未聞で、積極的に賛成する人はいなかったのです。 ところがところが、 おかしな具合になってきたのです。 時代は下り、持統天皇から元明天皇へ、 鷹市皇子から藤原不比等、長屋王へと、天皇、政権が移ります。 都も、吉野から藤原宮、平城京へと移るのです。 藤原不比等は、平城京を「千年王国」にしたかったのです。 そのためにはぜひ「大鳥」に奈良の都に舞い降りて、千年居続けてもらわなければならないのです。 そこで、平城京の近くの若草山(大仏のある奈良公園の山)に春日大社を建て、お盆に「大」の字を「白妙の衣」で、芝生に描いたのです。 それを毎年続けました。 「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山」 百人一首の二番目です 「天の香久山」とは「春日山」「若草山」のことです。 しかし、なかなか大鳥は降りてこないのです。 ところが、山部赤人が、この和歌を詠みました。百人一首の四。 「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」 それで不比等は気が付きました。 大鳥は富士山にいらっしゃるのだと。 富士山は「火の山」だったのです。 竹取物語では煙を出しています。 不比等は「この国はひのもとだよ」と大鳥に知らせることにしました。 「ひのもと」は「日本」なのです。 日本書紀の署名を「日本書紀」としました。 8年前に出来た古事記には「日本」の文字は一つもないのです。 国名も人名も全部「やまと」は「倭」なのです。 日本書紀の「やまと」を「倭」と書いているのが44か所で、「やまと」を「日本」に書き換えているのが40か所です。 「倭」「大和」が「日本」になったのは、藤原不比等が大鳥を富士山から奈良の都に移ってきてほしかったからです。 しかし、そこまでしても、大鳥は平城京には降りてきませんでした。 それは何故でしょうか。 【】
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19 4288;作者:大伴家持、天平勝宝5年1月12日,宮廷 [題詞]十二日侍於内裏聞千鳥喧作歌一首 十二日、内裏に侍(さもら)ひて千鳥の喧くを聞きて作る歌一首 河渚尓母 雪波布礼々之 <宮>裏 智杼利鳴良之 為牟等己呂奈美 川洲にも 雪は降れれし 宮の内に千鳥鳴くらし居む所なみ かはすにも ゆきはふれれし みやのうちに ちどりなくらし ゐむところなみ ・・・・・・・・・・ 川洲にも雪が降り積もったのか 御所の内で千鳥が鳴いている 居る場所がないのだろう ・・・・・・・・・・ * 千鳥が鳴くのは通例夜ということで、この歌は内裏に宿直していたか。
* 孝謙天皇は平城宮の内裏にはほとんどお住まいでなかった。平城宮を常々お留守にしていたということは、孝謙天皇が実質的な執政をほとんど為さらなかった証で、言うまでもなく当時行政の実権は母皇太后の紫微中台(実態は光明皇太后の信任を得た藤原仲麻呂指揮下の政治・軍事機関。後に坤宮 官に改称。長官は紫微令、後に紫微内相)に掌握されていた。 * 居場所を無くした悲しみに鳴く千鳥とは、家持自身に重なる。 *「降れゝし」は、動詞「フル」、命令形。+完了の助動詞「リ」、已然形。+強調の助詞「シ」。『萬葉集略解』では宣長の説として、シ(之)はヤ(也)の誤りとし、フレレヤと訓む。 * 「降れれば」→ラ行四段活用動詞「降る」の已然形「降れ」+助動詞・完了「り」の已然形「れ」+接続助詞・原因理由「ば」=雪が降ってしまったので。とみたい。 |
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19 4292 天平勝宝5年2月25日,年紀,作者:大伴家持,悲嘆,春愁,動物,孤独 [題詞]廿五日作歌一首 [左注]春日遅々ネノ正啼 悽惆之意非歌難撥耳 仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱 作者名字徒録年月所處縁起者 皆大伴宿祢家持裁作歌詞也 [原文] 宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比<登>里志於母倍婆 [仮名] うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば [左注]春日遅々**正啼 悽惆之意非歌難撥耳 仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱 作者名字徒録年月所處縁起者 皆大伴宿祢家持裁作歌詞也 <春日が遅々として、(ひばり)が正に啼いている。悽惆(せいちゅう・いたみ悲しむ)の意(こころ)が歌に非(あら)ずは、発(はら)い難い。仍(よ)りて歌を作り、此れを式(も)ちいて締緒(ていしょ・ふさいだ心)を展(の)べた。但し、此の巻の中にて作者の名字を称さず、徒(ただ)年月・所処・縁起のみを録(しる)すものは、皆、大伴宿祢家持が裁作した歌詞なり> うららかな陽光の春の日に
雲雀の声も空高く舞い上がる なのに一人物思う私の心は悲しい 【付記】巻第十九の巻末歌。次の元正上皇の御製が巻第二十の巻頭です。 家持個人歌集の性格が強かった巻十九に対し、巻二十では、皇室から郡司の妻女・防人までを含む、より広い社会層から歌を集めようとの意図が見られます。また前三巻の浪漫性に対し、政治的な圧迫感が息苦しさを齋している、極めて現実性の強い歌巻であるとも言えるでしょう。その一方で、通奏低音のように元正・聖武両天皇への讃仰・追憶、そして天平の栄華に対する賛美の念が貫かれ、編纂者の意図かどうかはともかくとして、結果的に「締めくくり」の意思が濃厚な巻にもなっています。 (出典・記事転載「大伴家持全集 訳注編 Vol.3水垣 久 編訳」より。) <以上、巻十九完>
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19 4291 天平勝宝5年2月23日,年紀,作者:大伴家持,依興,植物 [題詞](廿三日依興作歌二首) [原文] 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母 [仮名] わがやどの,いささむらたけ,ふくかぜの,おとのかそけき,このゆふへかも わが家の庭のささ竹群を
吹きわたる風の音が かすかに聞こえるこの夕暮れよ * 「いささ群竹」は難解。
イササを細波(ささなみ)などのササ(小さい意)と同根とし、ささやかな竹の群と解する説が有力だが、「五十竹葉」で竹の葉の多い意とする説(『萬葉集古義』)、「斎笹(ゆささ)」(10/2336)と同じで神聖な笹の葉の意とする説なども捨てがたい。 * 上二首の題詞に「興に依け」(依興)とあり、家持において「目を属(つ)けて」(属目)と対比的に用いられ、題詞はこれらが実景を目にしての作でない ―想像裡の作である― ことに注意。 |



