yahoo《やまとねこ》さんのブログ【百人一首は「言霊」ではないか】<日本語は一音一音に意味がある>2016/9/11(日)【「藤原不比等」は「諡号」(贈り名)である】〜 「藤原不比等」とは、「諡号」です。 諡号とは「死んでから作られるお名前」で、今なら「戒名」とでもいうのでしょうか。 古代は、名前はほとんど「諡号」なのです。 生前のお名前を「諱」(いみな)と言います。 諱は、一般に公表されず、身内の人間が呼んでいたお名前です。 ここらへんは難しいのですが、とても大切なので、ちょっと例を書いてみます。 現在の天皇陛下のお名前は、「明仁」(あきひと)と言います。 しかし天皇陛下を「明仁さん」と呼ぶ方は、ご家族か親戚の方だけでしょう。 「陛下」と呼べばいいからです。 天皇陛下は、一時代にお一人なので、「陛下ってどの陛下ですか」という疑問が出ないからです。 「お名前」の一義は、「他人との区別」なのです。 生前のお名前は、その方が生まれたときに親がつけたものです。 最初に産まれたら「太郎」「和子」で、二番目に生まれたら「次郎」「幸子」となります、例えばですが。 「太郎」は「最初に産まれた」という意味で、「太っていた」という意味ではありません。 つまり、生前名は、「親の希望」を表し、死後の贈り名(諡号)は「その人の実績」を表すのです。 「藤原不比等」とは諡号で、不比等の実績が「ふじわらのふひと」なのです。 そして、臨終の際「藤原」の氏を賜ったのは、中臣鎌足(藤原鎌足)ではなく、不比等だったのです。 「藤原氏」初代は、藤原不比等だったのです。 では不比等の生前名は何と言ったのでしょうか。 私は「中臣柿子」だったのではないかと思っています。 「ふじわらふひと」「なかとみかきこ」の意味は何でしょうか。 しばらくこのテーマでブログを続けましょう。 【「静か」の語源は「鎮魂」である】 「しずか」(静か)という和語はかなり新しいので驚きました。 「しずか」は弥生語で出雲語でもありません。神武天皇語でも雄略天皇でもないのです。 「しずか」とは「藤原不比等語」なのです。 この方は本当に不思議な方です。 「し」というのは、「あらわれる」「見える」という意味です。 私は「し」の説明だけで本を二冊書ける気がしています。 「し」という音は七番目に大切な音です。 「ず」というのは「す」の強調で、「す」は「一番」という「序数音」です。 「ず」というのは「一番大きい国の九州王朝」という意味です。 「か」というのは「大和国」の意味です。 なぜ「か」が大和国なのかはよくわかりませんが、「か」とは「禾」で「稲」の意味です。 大和の国は「稲の国」「瑞穂の国」で、九州王朝は「食の国」「魚の美味しい国」なのではないでしょうか。 「美し国」(うましくに)とは「日本の枕詞」ですが、本当は「九州王朝」の枕詞です。 「うまし」とは「うま」という天皇が作った国という意味で、 「うま」とは「初代天皇」「おしほみみの命」のことです。 「しずか」とは、「滅びた九州王朝が大和に復活した」という意味です。 天武天皇は九州王朝の最後の天皇であった蘇我入鹿の長男だったのです。 そして持統天皇は天智天皇の娘ではなく、九州王朝の皇族です。 元明天皇も天智天皇の娘ではなく、天武天皇と持統天皇の娘だったのです。 天武朝は、九州王朝の天皇の末裔が大和の天皇になったということです。 しかし、この方たちは「文化面」の天皇で、 実質の政治は藤原鎌足とその子孫が行っていました。 そして、古事記・日本書紀・万葉集は、九州王朝の遺族が作ったのです。 藤原不比等は、大和国の人間です。 鎌足の子供ではなく孫で、天智天皇の子供です。 なので、大和側の人間なのですが、とてもとても九州王朝の皇族に縁が深く、どちらかというと「九州寄り」だったのです。 鎌足には四人の子供がいたのですが長男古人大兄皇子と次男中大兄皇子を死なせてしまいました。 ひょっとすると「蘇我入鹿の祟り」と考えたのかもしれません。 日本で一番大きかった国の九州王朝を滅ぼしたのですから、その「恨み」を当然受けたのです。 せっかく命を懸けて滅ぼした九州王朝の皇子を、統一した大和国の天皇にしたのは、「祟り封じ」「鎮魂」のためだったのでしょう。 しかしこの「鎮魂」により、祟りは「静か」になったのです。 「静か」とは「日本書紀」と「万葉集」のことなのです。 さて、私はこのお話を、下記のテーマに引き継ぎたいのです。 百人一首33番紀友則の短歌です。 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ この和歌は、暗に醍醐天皇を批判しているのです。 「醍醐天皇にはしづ心がないのか!」と。 【「大伴の御津」も復活した】 「静か」とは藤原不比等が作った和語で、九州王朝が滅びた怨念を、 日本書紀・万葉集で「鎮めた」という意味の和語です。 九州王朝は天武天皇・持統天皇・元明天皇を大和の天皇にすることで、復活したように見えるのです。 次は出雲王国・百済・秦氏の復活を目指します。 そして天武朝から桓武天皇王朝に革命も内戦もなく、平和裏に移行します。 ここに「大伴の御津」が復活するのです。 桓武天皇とは、天武天皇の吉野朝に滅ぼされた近江朝の、「大友皇子」の子孫なのです。 また京都盆地は出雲の国の古都ですし、近江朝に付いた秦氏が流された「葛野」(かどの)なのです。 全部が全部「鎮魂」されたわけではありません。 まだいろいろ続きもあるのですが、「王朝の復活」は果たされたのです。 この成功は、藤原不比等の「しずか」「鎮魂」の成功と言えるのです。 しかし、この成功は、宇多天皇の「突然の息子醍醐天皇への譲位」で、行き詰るのです。 百人一首33番紀友則は、「しづ心」がないと和歌で醍醐天皇を批判します。そして恐ろしいことが起きました。 「菅原道真の祟り」です。 「しず心」「鎮める心」がないと、「祟りが起きる」のです。
ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ
この和歌は、「風もない春ののどかな日に何故桜の花びらが散るのか」というセンチメンタルな和歌に見えますが、恐ろしい恐ろしい予言の和歌なのです。【「いざ子供 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ」の謎】 いざ子供 早く日本へ 大伴の御津の 浜松 待ち恋ひぬらむ 万葉集一巻63山上憶良が、遣唐使で唐に渡っているときに詠んだ和歌です。 この第七次遣唐使は、702年に行って704年に帰っています。 さあ大変です!この時期に、「大和」を「日本」と呼んでいないのです。 「やまと」を「日本」としたのは、720年に出来た「日本書紀」が最初なのです。 712年に出来た古事記には「やまと」は一度も「日本」と書いていません。 つまり、山上憶良は、「日本」を「大和」と違う認識を持っていたのです。 「日本」という国が出来た! 九州王朝、百済、出雲の再興だと、ちょっと早とちりの感がありますが、そしてその地が「近江」なのか「河内」なのか、「大伴の御津」だけでは判断できませんが、「私たちの国が出来た。さあ、九州王朝百済出雲の中国に亡命している人よ、早く新しい国へ国つくりに帰ろう」という歌です。 如何でしょうか。 【百人一首の謎 「ひさかたの」は枕詞なのに枕詞ではない】 ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ とても有名な百人一首です。 誰もこの不思議な謎を解こうとしませんでした。 解いたら大変なことになっていたのです。 なぜ解けなかったのでしょうか。 それは「枕詞」があったからです。 「枕詞」は日本の短歌に歌舞伎や浄瑠璃の「堤」(つつみ)のように、意味のない飾りの音だという認識だったからです。 短歌の本当の意味は「枕詞」にあったのです。 なぜそんなことが起こったのでしょうか。 それは壬申の乱以降の天武朝の政治構成に原因がありました。 中大兄皇子と中臣鎌足が滅ぼした蘇我氏とは、大豪族の名前ではなかったのです。 大和国より大きい九州王朝の天皇家だったのです。 大和国は代々女性天皇の国でした。 九州王朝の舒明天皇(蘇我入鹿)は、大和国の女性天皇の皇極天皇に結婚を迫ったのです。 「ひさかたの」は「ひょうたんの形」「ひさごの型」なのです。 「ひょうたんの形」とは「入道雲」なのです。 「ひさかたの」とは「日照りが続いて雨乞いをしたらやっと入道雲が出た」という意味です。 なので「ひさかたの」は「雨」にかかる枕詞です。 「あめ」から「天」にかかるようになったかもしれませんが、「枕詞」をわざわざ短い詩形式の短歌に入れたということは、「隠された意味がある」ということです。 この百人一首は、「ひさかたの」で始まるので、「この和歌には隠された意味があるぞ!」と思わなくてはならないのです。 「ひさかたの」は「やっと」「ひさしぶりで」という意味があります。 「ひさかたの」を解明すると藤原氏のご先祖のことまでわかるのです。 「ひさかたの 光のどけき春の日」とは、「いままで百年近く続いた平和な平安京」という意味で、「静心なく 花が散るらむ」とは、「風もなく桜の花びらが散ってゆく」ではないのです。 「静心」とは、「鎮静する心」です。 「静心なく」とは、「祟りを鎮める心がない」と言っているのです。 菅原道真を左遷した醍醐天皇には、「祟りがを防ぐお心が足りないので、花が散る(大災害が起きる)のが目に見える」と詠ったのです。 【山上憶良は「遣唐使」ではない】 山上憶良は、第七次遣唐使のメンバーになっています。 しかし、山上憶良は、帰っては来ましたが行ってはいません。 この方は九州王朝の総理大臣で、九州王朝が滅ぶと命からがら家族を連れ新羅経由で中国に亡命したのです。 第七次遣唐使が701年唐に来ました。 その中に九州王朝の上層部も含まれていたのです。 その遣唐使は、「大和は日本という国に国号を変えた」と発表するために来たのです。 それで山上憶良は、「九州王朝が復活した」と思い、下記の万葉集を作りました。 「いざ子供 早く日本(やまと)へ 大伴の御津の浜松 恋待つらむ」 と詠んだのです。 この万葉集には「大きな喜びと希望」が現われているのです。 【2016/9/12(月)】 「天智天皇は、唐と新羅連合軍が大阪まで攻めてくるのを警戒してこのお城を作った」と定説通り考え、天智天皇を身近に思うようになったのです。 注:今ではこのお城は天武天皇が作ったもので、目的は壬申の乱での防御です。壬申の乱は河内の住吉津の海上からの攻撃で始まったのです。 【「すみよし」の意味】 私は地名の由来を考える癖があります。 出身地は北海道なので、語源の八割はアイヌ語ですが、大阪に単身赴任してからは、語源は大和言葉なので新鮮だったのです。 私は、当時住んでいた大阪住吉区住吉区の「すみよし」の語源を考えました。 私は皆さんと同じように、語源を漢字で考えていたのです。 「すみよし」は「住吉」で、「住んでみたらよい所だ」と。 しかし、「すみよし」とは古い和語で、宗教的な意味があったのです。 それに気がついた時は、尻餅を着きそうになりまし 【大和民族は住吉津から渡来したと思っていた】 私は奈良盆地に大和朝廷を造った民族は、朝鮮から渡来した民族で、大阪河内の住吉津から上陸したと思っていたのです。 しかし、「すみよし」を調べていくうちに、その民族は、奈良盆地ではなく、河内に国を創ったことがわかりました。 そのとき気になったことがあったのです。 紀伊半島に、熊野と吉野がありますが、対称的な名前なのに、 どちらもつながっていて、ものすごい山地なのです。 吉野に桜を植えたのは役行者ですが、その前から「吉野」だったのです。 何故吉野は吉野なのか。 「よし」には秘密があるのではと考えました。 【「勝」(かつ)の語源は「和」かもしれない】 私はいつも自分のブログを抹消する悪い癖があります。 ところがブログのお友達の、ニキタマの万葉集さんが全部保存してくれているというのです。私は大感激しました。 そして、何か再現をお願いしますと、 三年前の記事をアップして下さいました。 九州王朝は、弥生人と隼人の連合軍が出雲人を襲って出来たと書いてあるのです。その根拠は、九州王朝の初代天皇のお名前なのです。 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命というのです。 「勝」が三回も使われています。 征服戦争に三回も勝ったと、解釈したのです。 今考えているのは、「勝」とは戦争に勝ではなく、民族同士の「和」ではないかと。 【古代人は長い名前は立派な人である】 九州王朝の初代天皇は、まさかつあがつかちはやひあめおしほみみ という長い名前です。 古代人の名前は死んでからついたもので、生前の実績を表しているのです。 忍穂耳命は、素晴らしい天皇だということです。 そう考えると、「かつ」は戦争ではないかもしれません。 「かつ」とはどんな意味でしょうか。 「か」は稲です。 「つ」は海です。 「稲作民族」と、「海洋民族」とが融合したのが「かつ」です。 弥生人と出雲人が一緒に国を創ったのが、「勝」なのです。 【「伊予」と「愛媛」の違い】 「愛媛」より、「伊予」の方がとても古い地名です。 名前もそうですが、地名も意味があるのです。 そして、「えひめ」にも、「いよ」にも意味があります。 そしてその意味は「正反対」なのです。 何時も言いますが、意味を漢字で考えてはいけません。 「愛媛」は「愛すべきお姫様」ではないのです。 注:愛媛県に住んでいる方やご縁のある方は、漢字で考えてもらって構いません。 まず、「いよ」は弥生語です。 天うずめ命が命名しました。 「い」は「や行」の「いゃ」です。 意味は「最高に良い」です。 「よ」は「良い」です。 「いよ」は「最高に最高に良い」です。 天うずめ命は、四国の愛媛県の何が「最高に良かった」のでしょうか。 愛媛県には紀元前5世紀、どんな民族が住んでいたのでしょうか。 そして、「えひめ」は藤原不比等語です。 「えひめ」とは特定の女性です。 この方は、短歌が作れません。 それなのに、万葉集の女性歌人となっているのです。 この女性(実際は女性天皇)が、壬申の乱で近江朝に行ってしまったのです。 大和の女性天皇が、天武天皇の吉野朝に敵対したので、実際の壬申の乱は20年も続いたのです。 藤原不比等は、この女性天皇(斉明天皇)のお名前で(万葉集では額田王となっていますが)愛媛の和歌を読みました。 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな この短歌は、新羅と唐の連合軍に滅ぼされた百済を再興するために、白村江の戦いに行く船の中で詠んだとなっていますが、実は、近江朝側の「水軍」が大阪の住之江を攻撃するときのものなのです。 つまり、「熟田津に」の和歌は、不比等の「隠れ短歌」です。 ところで、「いよ」の民族は「出雲民族」で、弥生人にとても親切で、弥生人と伊予の出雲人が、九州の出雲人を滅ぼしてしまいます。 注:新たな展開です。 下記のブログの続きなのです。 【「勝」(かつ)の語源は「和」かもしれない】 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/14382870.html 注:斉明天皇と皇極天皇は別な女性天皇です。皇極天皇は自分の夫(元)や子供たちが蘇我入鹿(舒明天皇)や蘇我蝦夷を殺し九州王朝を滅ぼしてしまったので、鬱状態になり、リタイヤしてしまったのです。 皇極天皇は蘇我入鹿(九州王朝の天皇で舒明天皇)と再婚するはずでした。 その結婚式の前日に「乙巳の変」(大化の改新)が起こったのです。 その時に殺されたのは、結婚式に出席するはずの九州王朝の皇族、招待された百済、出雲の要人です。なんと殺された人数は二千人にのぼるのです。 【古代人は長い名前は立派な人である】 九州王朝の初代天皇は、まさかつあがつかちはやひあめおしほみみ という長い名前です。 古代人の名前は死んでからついたもので、生前の実績を表しているのです。 忍穂耳命は、素晴らしい天皇だということです。 そう考えると、「かつ」は戦争ではないかもしれません。 前項より続いています。 「かつ」とはどんな意味でしょうか。 「か」は稲です。 「つ」は海です。「稲作民族」と、「海洋民族」とが融合したのが「かつ」です。 弥生人と出雲人が一緒に国を創ったのが、「勝」なのです。 【「伊予」と「愛媛」の違い】 「愛媛」より、「伊予」の方がとても古い地名です。 名前もそうですが、地名も意味があるのです。 そして、「えひめ」にも、「いよ」にも意味があります。 そしてその意味は「正反対」なのです。 何時も言いますが、意味を漢字で考えてはいけません。 「愛媛」は「愛すべきお姫様」ではないのです。 注:愛媛県に住んでいる方やご縁のある方は、漢字で考えてもらって構いません。 まず、「いよ」は弥生語です。天うずめ命が命名しました。 「い」は「や行」の「いゃ」です。意味は「最高に良い」です。 「よ」は「良い」です。 「いよ」は「最高に最高に良い」です。 天うずめ命は、四国の愛媛県の何が「最高に良かった」のでしょうか。 愛媛県には紀元前5世紀、どんな民族が住んでいたのでしょうか。 そして、「えひめ」は藤原不比等語です。 「えひめ」とは特定の女性です。 この方は、短歌が作れません。それなのに、万葉集の女性歌人となっているのです。 この女性(実際は女性天皇)が、壬申の乱で近江朝に行ってしまったのです。 大和の女性天皇が、天武天皇の吉野朝に敵対したので、実際の壬申の乱は20年も続いたのです。 藤原不比等は、この女性天皇(斉明天皇)のお名前で(万葉集では額田王となっていますが)愛媛の和歌を読みました。 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな この短歌は、新羅と唐の連合軍に滅ぼされた百済を再興するために、白村江の戦いに行く船の中で詠んだとなっていますが、実は、近江朝側の「水軍」が大阪の住之江を攻撃するときのものなのです。 つまり、「熟田津に」の和歌は、不比等の「隠れ短歌」です。 ところで、「いよ」の民族は「出雲民族」で、弥生人にとても親切で、弥生人と伊予の出雲人が、九州の出雲人を滅ぼしてしまいます。 注:新たな展開です。下記のブログの続きなのです。 【「勝」(かつ)の語源は「和」かもしれない】 http://blogs.yahoo.co.jp/keizobeat/14382870.html 注:斉明天皇と皇極天皇は別な女性天皇です。皇極天皇は自分の夫(元)や子供たちが蘇我入鹿(舒明天皇)や蘇我蝦夷を殺し九州王朝を滅ぼしてしまったので、鬱状態になり、リタイヤしてしまったのです。 皇極天皇は蘇我入鹿(九州王朝の天皇で舒明天皇)と再婚するはずでした。 その結婚式の前日に「乙巳の変」(大化の改新)が起こったのです。 その時に殺されたのは、結婚式に出席するはずの九州王朝の皇族、招待された百済、出雲の要人です。なんと殺された人数は二千人にのぼるのです。 2016/9/13(火) 【九州王朝は「復讐戦」で出来た】 ににぎの命たちは、中国南部越国からきた弥生人です。 九州南部の鹿児島、宮崎に上陸し、隼人民族と融合しました。 弥生人は「空きスペース」を日本に探そうとしていたのです。 当時、九州北部は出雲人が国を造っていました。 なので、弥生人は瀬戸内海を東に移行したのです。 伊勢で落ち着いたににぎの命は、息子とおもいかねの命を、宮崎に戻らせました。二人が宮崎にもどった時、留守場の弥生人は、九州の出雲人に襲撃され全滅してしまっていたのです。 九州出雲人と隼人は仲が悪く半分戦争状態にあったのです。 九州出雲人は、隼人と結んだ弥生人を自分たちの敵と認識してしまったのです。 おもいかね命は弥生人で一番知恵がありましたが、その息子の「天児屋根命」(やねのこやねのみこと)も、親譲りの頭のいい子だったのです。 九州の出雲人と四国の出雲人が仲の悪いことを利用し、同盟を結び、弥生人隼人人四国出雲人の連合が、九州出雲人を滅ぼしたのです。 神武天皇が中国から九州に来た時の、出雲人は、四国出雲人と弥生人隼人人の作った「九州王朝」なのでした。 【障らぬ神に祟りなし】 「障り」とは何でしょうか。 もちろん現代では良い言葉ではありません。 しかし「さわり」とは言霊的にはとても良いのです。 「さわり」は出雲語です。「さ」とは「すさのうの命」の意味です。 すさのうの命と少彦名の命は同一人物です。 「わ」とは「海」です。「わたつみ」とは「海の神様」なのです。 「り」とは「その結果こうなった」と言う意味です。 少彦名の命が、漁業、海運貿易を開いたため、出雲の国は「おおくに」になった、という意味です。 ではなぜ「さわり」が「悪い意味」になったのでしょうか。 たぶん、藤原不比等語です。 「さ」は「二番目」「わ」は「大和」です。 大和が九州王朝を滅ぼしたために、祟りが起きて、天智天皇が兄に殺され(事故)、そのあおりで、兄の息子(有間皇子)も殺され、有間皇子の弟(大友皇子)が反乱を起こし、壬申の乱になった。 それが「さわり」です。 「さわり」とは「物語の一番の要点」と広辞苑に書いてあります。 蘇我入鹿を中大兄皇子が殺害したのが、「さわり」なのです。 「さわらぬ神に祟りなし」と言っても、歴史の流れなのですから、避けようがないのです。 天智の身 なって初めて 飛ぶ鳥の 飛鳥の心 かなしみ伝う 【「滋賀」と「近江」はどう違うか】 「滋賀」も「近江」も、日本一大きい湖「琵琶湖」を指します。 ここに都があったのです。 天智天皇が作ったと言われる、「大津宮」です。 「滋賀」も「近江」もとても新しい地名です。 両方共、藤原不比等語ですが、「滋賀」の方が新しいのです。 以前、滋賀県を近江県にかえようという議論があったようですが、絶対に「滋賀県」の方が良いのです。 「しが」は「最高の都」の意味で、「おうみ」は「大きい湖」ですが「近江」の当て字がありえません。 「近江」は「おうみ」ではなく「おおえ」でしょう。 「おおえ」とは「悪い鬼」という意味です。 簡単に言いますと、壬申の乱で、近江朝と吉野朝が戦争をしたのです。 この戦争は数か月で終了したことになっていますが、実は20年も続いたのです。 「近江」は敵の悪口です。 その後、近江朝はつぶれ、さまざまな「祟り対策」に負われるのです。 「しが」というのも、そのリップサービスなのです。 継体天皇も「架空天皇」で、琵琶湖の「近江高島」に都があったのも、「架空話」です。 しかし、藤原不比等の祟り対策が、平安京の千年王国の基礎を築くのです。 注;近江をなぜ「おうみ」と読むのか。今度再度書いてみます。 【「近江」は琵琶湖ではなく宇治の意味ではないか】 「近江」の語源は「あわうみ」というのが定説です 「近津淡海」から「おうみ」となったと書いてあります。 しかし出鱈目もいいところです。 「あわうみ」というのは、「塩分の薄い湖」で「汽水湖」のことです。 「うみ」には三つあったのです。 「しおうみ」は「海」です。 「みずうみ」は「湖」です。 「あわうみ」は「海水の混じった湖」「汽水湖」です。 「近江」の「江」は、海につながっている入り江ですが、潟や浜名湖のような「汽水湖」も指しました。 「浜名湖」を「遠津淡海」と書き「とうとうみ」と呼びました。 浜名湖を「あわうみ」と呼ぶのは半分正解です。 なぜ「半分」かと言いますと、浜名湖は海とつながっている時期と、離れていて「真水化」している時期があるのです。 また詳しく書きます。 琵琶湖は、海につながっている歴史はないのですから、「江」ではないのです。 京都の南部に宇治がありますが、古代はそこに大きな湖があったのです。 「巨椋池」(おぐらいけ)と言います。 淀川が海とつながっていたので、巨椋池も「汽水湖」だったのです。 この「巨椋池」が「近江」なのです。 関西には「あわうみ」が二つあったのです。 「巨椋池」と、もう一つは「古代河内湖」です。 「草香江」(くさかえ)と言いました。 「くさか」というのは、河内王朝の国の名前なので、「近津近江」は河内湖で、「遠津近江」が巨椋池かもしれませんが、河内から宇治までは舟でとても近いのです。 さて、近江は「草香江」なのか「巨椋池」なのか。 琵琶湖でないのだけは確かなの 【「淡水」は真水ではなく汽水ではないか】 私は若いとき熱帯魚を飼っていました。 グッピーやネオンテトラを、「淡水魚」と言います。 「淡水」とは塩分を含まない水の意味です。 しかし「淡」は「あわい」「薄い」という意味で、「純水」「真水」の意味ではないのです。 「淡水」を「真水」と呼ぶのは日本だけではないでしょうか。 台湾に「淡水区」という夕陽の美しく港があるようです。 台湾の北に「淡水河」があります。 どちらも「入江の大きい河」の意味ではないでしょうか。 古事記か日本書紀かはわかりませんが、日本武尊が三重に来たときに、足が三つに折れたから「三重」になったと書いてあるそうです。 しかし、「三重」を漢字で考えるからそんな語源を思いつくのです。 果たして日本武尊の時代に「三重」という漢字があったのでしょうか。 「三重」は平仮名で考えなければなりません。 「み」は「天皇」「神様」です。 「え」は「とても悪い」という意味です。 雄略天皇は、「伊勢神宮の神は仏教を毛嫌いしてとても悪い」と言ったのです。 三重県の方、ごめんなさい。 【「日本」は枕詞である】 「日本武尊」をなんと読むでしょうか。 「やまとたけるのみこと」と読みます。 何故「日本」を「やまと」と読むのでしょうか。 日本書紀の「やまと」の表記は、「倭」と「日本」がちょうど半分づつです。 「日本」を「やまと」と読むのは、「日本」が枕詞だからです。 「日本倭」と言ったのです。 「ひのもとのやまと」と読みます。 それで、「日本」だけで「やまと」と読むのです。 さあ大変です。 枕詞には「秘密が隠されている」のです。 「日本」にはどんな秘密があるのでしょうか。 【「日本」は「倭」(やまと)の枕詞である】 「やまと」を漢字で書くと、倭」と書きます。 「倭」は音読みで「ワ」と言います。 人偏にまかせると書き、従順の意を表すと漢和辞典に書いてあります。 したがう、従順な様、つつしむさま、まわり遠いさま。 日本人にぴったりの漢字ですね。 この「倭」を、日本人は訓読みで「やまと」と読んだのです。 これは謎です。 「やまと」には、したがう、従順な様、つつしむさま、まわり遠いさま。という意味があるでしょうか。 「やまと」は和語なので、漢和辞典には載っていません。 やまとねこ辞典には載っているので引いてみましょう。 「や」は弥生語で二番目、出雲語で一番目です。 「ま」は「男性の尊称」です。 「と」は、「神が降りてくるポイント」「聖地」です。 「やまと」は「総理大臣の政治を行う宮」の意味です。 つまり「やまと」は「都」です。 「倭」にはどう考えても「都」の意味はないでしょう。 さて、日本書紀には、「やまと」を「倭」と「日本」と半分ずつ書いてあるのです。 「やまとたけるのみこと」は「日本武尊」です。 この「日本」には、「倭」または「やまと」の意味があるのでしょうか。 長くなったので、また後程続きを書きます。 万葉集319番の長歌に、 「日本之 山跡國乃」というフレーズが出てくるのです。 「ひのもとのやまとのくにの」と読みます。 原文を写します。 奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出<立>有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香<聞> 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞 【「やまと」は四つあった!】 「倭」をなぜ「やまと」と読むのか。 それは「倭」が枕詞だからです。 「倭国山門」と書きました。「わのくにのやまと」と読んだのです。 それで「倭」だけで「やまと」と読むのです。 「倭」とは「九州王朝」の意味です。 「やまと」にわざわざ枕詞をつけたのは、「やまと」は九州王朝以外にもあったからです。 なんと四か所もあったのです! 大和朝廷の「大和」は、「大鳥大和」「おおとりのやまと」と言いました。 出雲の国の「やまと」は「鯨」です。「出雲鯨」と書き、「いずものやまと」と読んだのです。 吉備の国の「やまと」は「山跡」と書き、「猿田山跡」「さるたのやまと」と読んだのです。 やはり、猿田彦は吉備人だったのです。だから天うずめ命は「猿女の君」になったのです。「君」は「吉備」なのです。 【蘇我氏と物部氏】 「聖徳太子は双子だった」のお話を続けたいのですが、その前提となるのが、お祖父さんの欽明天皇が九州王朝の天皇だったということなのです。 なので、九州王朝が存在して大和国より大きかったというお話を先にしなければいけません。 そのために、「蘇我氏とは何か、物部氏とは何か」がよいスタートになるかなと思っています。 「蘇我氏」とは何でしょうか。 「そが」とは「三番目の天皇」の意味です。 日本語には「序数音」があったのです。 弥生語では、「う」が「一番」「や」が「二番」「ゆ」が「三番」です。 出雲語では、「す」が「一番」「さ」が「二番」「よ」が「三番」「せ」が「四番」です。 神武天皇語では、「しゅ」が「一番」「あ」が「二番」「あく」が「三番」?です。 注:三番の「あく」は「あっ」かな? 「そが」(蘇我)が三番で、 「すが」(須賀)が一番、 「さが」(嵯峨)(佐賀)が二番です。 蘇我氏が九州王朝の天皇、須賀氏が出雲王国の天皇、峨氏が大和朝廷の天皇ということになるかもしれませんが、 私もまだよくわかっていないのです。 ただ、大和朝廷の天皇は女性なのです。女性天皇を何と呼んだのか、ずっと考えているのです。そしてわかりかけました。 大和の女性天皇は、「うじめ」(宇治女)「うずめ」というのではないでしょうか。 2016/9/14(水) 【「蘇我稲目」は実在したが「物部守屋」は架空人物】 蘇我氏は九州王朝の天皇で、日本書紀を読むと分かるのですが、物部氏は、大和の天皇家なのですが、わかりにくいのです。 理由は三つです。 まず、物部守屋が蘇我氏に滅ぼされてしまったこと(にしてしまった)。 二つ目は、大和の天皇は女性で、女系だったこと。 三つ目は、古事記・日本書紀は「天皇記」という歴史書をもとに作っているのですが、「天皇記」の「天皇」は「九州王朝の天皇」だったからです。 「天皇記」は聖徳太子と蘇我馬子が編集したと日本書紀の推古天皇紀に書いてあります。 蘇我蝦夷が乙巳変の翌日、自害するときに焼いたとされていますが、焼いたのは、なんと平安朝を作った桓武天皇です。 蘇我氏はわかりやすいので、書いてみます。 蘇我稲目は欽明天皇(29代) 蘇我馬子は用明天皇(31代) 30代天皇の敏達天皇は、大和の摂政です。 孫の蘇我蝦夷は聖徳太子(推古天皇の太子ではなく法隆寺を大宰府に作った方)蘇我蝦夷と聖徳太子(九州)は同一人物で天皇です。 なので聖徳太子の天皇名が記紀に書いてあるので探してみます。 わかりました。 九州の聖徳太子、仏教を広め物部氏を滅ぼしたと言われる、「仏教原理主義者」です。 この方は、神社信徒を二千人も虐殺したのです。 聖徳太子(九州)の天皇名は、32代崇峻天皇(すしゅん)です。 この方の和名諡号は、泊瀬部(はつせべ)と言います。 私は、聖徳太子の天皇名が崇峻天皇だと分かったのは、和名諡号が、泊瀬部だったからです。 なぜ「泊瀬部」が九州王朝の天皇で仏教原理主義者の聖徳太子なのか。 この説明をしますが、雄略天皇まで戻ります。とても大切なので、蘇我氏は一旦中断です。 簡単にあらましだけを書きます。 蘇我入鹿は舒明天皇で、聖徳太子(仏教)の子供です。 入鹿の長男が天武天皇で、持統天皇は九州王朝の皇族の娘です。 持統天皇の幼名は、 「うののさらら」と言います。 「うののさらら」とは、「佐賀県嬉野出身」という意味です。 天武天皇(妃はお一人)と持統天皇の子供はお二人。高市皇子と元明天皇です。 元明天皇の即位前のお名前は、「あへ皇女」(阿閇)と言いますが、「あへ」とは二つの意味があります。 またゆっくり書きますね。 【聖徳太子はなぜ天皇にならなかったのか】 日本書紀によると、推古天皇は敏達天皇の皇后で、34歳の時に敏達天皇が崩御され、崇峻天皇が皇位についたが、39歳の時に崇峻天皇が蘇我馬子に殺された。 それでその年の12月に、推古天皇は「女性天皇」になった。 次の年の4月に聖徳太子が皇太子となり、摂政として国のすべての政治を任された。と書いてあります。 聖徳太子は初めから国の政治を任せられる実力があったのです。 当時19歳で、49歳で亡くなるまで、天皇にならず、摂政のままでした、30年間も。 そして推古天皇は75歳で崩御されるまで、跡継ぎも決めないで、最後まで女性天皇だったのです。 今の常識からすると、かなりおかしいです。 「女性天皇」というのは、次の天皇(皇太子)が成人するまで、時間稼ぎの天皇で「中継ぎ天皇」です。(本当は違いますが) 聖徳太子は、最初から政治を全部仕切っておられ、天皇の実力はあったのです。 推古天皇が69歳の時に、聖徳太子は亡くなっています。 なぜその後の太子を決めなかったのでしょうか。 その決定がないため、聖徳太子の息子の「山背大兄王」が、蘇我入鹿に殺されてしまうのです。 答えは簡単ですが、説明は困難です。 まず、「女性天皇」は男性天皇の中継ぎではありませんでした。 大和国の天皇は女性で、男性が摂政をしたのです。 そのような統治体制だったのです。 古事記に書いてある男性天皇は、全部九州王朝の天皇です。 「聖徳太子」は、大和国の推古天皇の摂政であられた方と、九州王朝で法隆寺を建てられた方と、お二人いたのです。 なので、九州王朝の聖徳太子は、当然「男性天皇」になったのです。 九州の聖徳太子の天皇名を、「崇峻天皇」といいます。 「はつせべ」「泊瀬部」と言います。 私は二時間前に知りました。 びっくり仰天です!やまとねこ辞典には、「はつせべ」の意味が解明されていたのです! 長くなるけど面白く書くので、お付き合いください。 ヒント 「はつせ」とは「雄略天皇」である。 「はつせ」の意味は何か。 「はつせ」と「はつせべ」の違いは何か。 「○○べ」とは「領地」のことではない。 「べ」は「へ」の強調で、「へ」は「地平線」である。 【藤原不比等は法華経信者だったかもしれない】 聖徳太子は、仏教の解説書を書いています。 三つ書いたと言われています。 法華義疏 勝鬘経義疏 維摩経義疏 です。この中で、最初の「法華義疏」は聖徳太子(九州)の著作であるようです。 そして聖徳太子(九州)は法華経信者だったのです。 私の職場は奈良市の法華寺町という住所にあるのですが、それは近くに「法華寺」があるからです。 その「法華寺」がなんと、藤原不比等様のお宅だったのでびっくり。 すぐ近くのようなので是非行ってみなくては。 聖徳太子(九州)は、天武天皇のお祖父さんで、天武天皇語家族も法華経信者だったようです。 藤原不比等もその影響なのか、法華経だったようです。 大和は神社宗教なので、 大和人でありながら仏教の法華経を信じている不比等は、上層部(藤原鎌足とその二人の息子)からは、「異教徒」とみなされ、白い目で見られていたのです。 聖徳太子(九州)の著作と言われている、法華経以外の、勝鬘経義疏と維摩経義疏は、不比等の息子の長屋王の著作で、勝鬘経義疏は光明皇后のために書いたのでしょう。 長屋王が維摩経義疏を書いたのが本当だとしたら、長屋王はかなりの「大人物」です。 【万葉集は九州人によって作られた】 大和文化は、大和人によって作られたと考えるのが「普通」です。 大和文化と言うのは、例えば「万葉集」です。 しかし飛鳥時代の大和人は短歌を作れなかったのです。 これはあまりにもショッキングなことなので、-私も困っているのです。 要するに、万葉集というのは、万葉仮名で書かれているのです。 万葉仮名とは、日本語の「音」を、漢字の「音」を借りて、表現するものです。 現在の平仮名カタカナは、その集約されたものですが、当時は、あるルールによって作られた、かなり高度な特殊なものだったのです。 万葉仮名を使って、和歌を作るのは、「普通の日本人では無理」なのです。 だから「万葉歌人」が生まれたのです。 この人たちは、日本人の和歌の感性と、漢字の教養の、日本語と中国語の両方をマスターする必要があったのです。 そして、大和にはその「中国語」「漢字」の教養があまりなかったのです。 その理由は、物部氏が蘇我氏に滅ぼされたからです。 つまり仏教が神社宗教を迫害したからです。 大和は神社宗教を「国家宗教」としていたので、中国からの仏教の輸入を止めたのです。 それにつれて、漢字の輸入にも消極的になったのです。 その反対に、九州王朝は仏教を「国家宗教」にしました。 だから聖徳太子が活躍したのです。 よくはわかりませんが、5.7.5.7.7.の短歌を発明したのは、九州の聖徳太子のようです。 九州は中国に近いので、渡来人も多かったでしょうし、中国に留学した知識人も多かったのです。 乙巳の変(大化の改新)で九州王朝が滅びましたが、その皇族や、支配階級が、大和に移って、大和の支配下、藤原鎌足とその息子たち、中臣の支配下で、九州王朝文化を、天武朝として花開くのです。 藤原不比等は、藤原鎌足の孫で、天智天皇の息子なので、大和の支配層のはずなのですが、心情的、文化的、宗教的に、九州王朝的なのです。 その理由は、山上憶良にあります。 不比等は中国で少年時代に、山上憶良から和歌の指導を受けたのです。 山上憶良は、九州王朝の総理大臣でした。 乙巳の変と合わせて、大和寄りの秦氏の攻撃を受けたのです。 九州王朝は全滅しましたが、山上憶良家族は、危機一髪の脱出で、新羅経由で中国に亡命しました。 そこに遣唐使に混ざって、少年の不比等が留学してきたのです。 注:なぜ不比等が少年時代中国に留学したのかは、詳しくまた機会を設け説明します。 山上憶良の息子と同年代の不比等を、憶良はとてもかわいがり、よく面倒を見たのです。 不比等が、九州王朝の最後の天皇、蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子の息子だと知ったのは、三十年後なのです。 そして、その中大兄皇子が、入鹿の長男の天武天皇(大海人皇子)一家を助けたために、兄に殺された(事故ですが)と知って、泣き崩れ、親子で不比等を支えようと神仏に誓ったのです。 不比等も、自分を一人前にしてくれたのは、素性も知らずに親代わりに育ててくれた、九州王朝の総理大臣だということが、深く深く心の奥にあったのです。 この不思議な不思議な縁が、万葉集を生み出したのです。 万葉集の5000にのぼる和歌を作ったのは、たった七人だそうです。 不比等は柿本人麻呂の雅号で、万葉を飛び回るのです。 2016/9/15(木) 【神武天皇は架空か実在か】 現在の天皇、「今上天皇」は125代目です。 ということは、初代天皇は神武天皇です。 しかし神武天皇は「架空天皇」であるという説が有力です。 神武天皇は、実在か架空か。ちょっと難しいのです。 架空と言われれば架空ですが,実在天皇です。 といいますのは、「神武天皇は神武天皇の長男が作った架空天皇」で、「神武天皇を作った長男が神武天皇」なのです。 つまり、大和国を作った「大物主の命」の娘、ひめたたらいすずひめと結婚したのは、神武天皇の長男の、「たぎしみみ命」です。 この「たぎしみみ命」が神武天皇です。 そして、二代目天皇「綏靖(すいぜい)天皇」も架空天皇と言われていますが、この方はたぎしみみの命の弟の、「きすみみ命」なのです。 日本は、たぎしみみ命ときすみみ命が作った国です。 このお二人の業績はすごいのですよ。 もうお一人おもしろい方が登場します。 「自称猿田彦」という方で、出雲の国の王様の長男です。 きすみみとたぎしみみにほれ込んで、いつもお供をしているので、「おおとも」(大伴)と呼ばれます。 この三人で作ったのが、「秦氏」です。 【「近江」は何故「おうみ」と読むのか】 「近江」を「おうみ」と読むのは何故でしょうか。 理由なんかない。当て字だ。と言われますが、当て字にも理由があるのです。 日本文化には全て理由があるのです。 しかし、日本画は半分霞がかかっているのです。 隠されているものを推測するのも、「日本文化」ではないでしょうか。 「近江」は音読みでは、「キンコウ」です。 訓読みでは「ちかえ」です。「近江」を「おうみ」と読むのは、訓読みでも音読みでもなく、「近江」が枕詞だからなのです。 「近江」とは琵琶湖のことなのです。 琵琶湖は大きい水なので、「おおうみ」と言いました。 「大湖」と書いたのです。 そして琵琶湖に都がありました。 大津宮と言います。 そこで「誓え」があったのです。 「大湖近誓江」と書き「おおうみのちかえ」と言ったのです。 それで「近江」を「おうみ」と読むのです。 その誓えは重大な内容なのです。 【百済を創ったのは、中国人か朝鮮人か日本人か】 百済を創ったのは、「自称猿田彦」という方です。 出雲王の長男で、古事記には「倭氏の祖」と書いてありますが、「大伴氏」の祖です。 出雲人は、中国商王朝を創った民族で、商王朝が滅びて、朝鮮北部に箕氏朝鮮という国を創ったのです。 その王の末っ子が朝鮮南部と九州出雲に国を作りました。 自称猿田彦は、「あなたは何人ですか」とお聞きしたら、なんと答えるでしょうか。 「俺は三国人だ。三国とは中国朝鮮日本だ」と答えるのです。 つまり、自称猿田は「秦氏」です。
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2016/9/17(土) 飛鳥時代と言いますと、聖徳太子が仏教を広め、法隆寺などたくさんのお寺が出来たことになっています。 しかし、仏教徒の聖徳太子は、九州王朝の方で、法隆寺は福岡の大宰府のあったのです。 飛鳥時代には、奈良盆地にはお寺は一軒だけありました。 長谷寺と言います。 長谷寺も、九州から藤原不比等が持ってきたことになっていますが、そのまえから長谷寺は奈良盆地の一番東にあったのです。 「はせ」と言うのは、「はつせ」と同じで、「一番最初に」という意味です。 雄略天皇と清寧天皇が中国から仏教を持ってきて、そのお寺は「長谷寺」と言ったのですが、長谷寺は奈良盆地ではなく、河内にあったのです。 たぶん、大阪府と奈良県の県境の、「信貴山」にあったのではないでしょうか。 今でも信貴山はお寺がたくさん建っています。 そのお寺を「朝護孫子寺」(ちょうごそんしじ)と今では呼んでいます。 「長谷」をなぜ「はせ」と読むのか。 これも枕詞です。 「長谷初瀬」と書いて「ながたにのはっせ」と言ったのです。 それで「長谷」を「はせ」「はつせ」と読むのです。 では「ながたに」(長い谷)はどこなのかと言いますと、大和川の亀の背渓谷なのです。 「日本は神の国」と言います。 それは「大和の国」が神社の国で、仏教を排斥したのではないでしょうか。 神社の大和(物部氏)と九州の仏教(蘇我氏)が、宗教争いをしたのです。 九州では神社信徒がかなり虐殺されてしまいました。 それで大和では、「仏教を禁止」してしまったのです。 大和の長谷寺は、「長谷」が枕詞でもあるように、「隠れ仏教」だったのでしょう。 信貴山の長谷寺が「長谷の初瀬」なら、奈良の東の「長谷寺」の枕詞は何だったのでしょうか。 「日下の初瀬」「くさかのはつせ」と言ったようです。 「日下」とは「ひのもと」で、「晴れ乞い」の意味なのです。 神社は「雨乞い」なのです。 【「服部」は枕詞ではないか。】 「服部」を「はっとり」と読むのは、「服部」が枕詞だからです。 「服部」の語源は「機織」(はたおり)だそうです。 日本書紀の応神天皇紀に、「織部」(はとりべ)という「地名」?が出てきます。 「はっとり」と「はとり」は同じなのかもしれません。 「機織服部」を「はっとりのふくべ」と言ったのです。 なので「服部」だけで「はっとり」と読むのです。 では「ふくべ」とは何でしょうか。 「ふ」は「雲」です。 「く」は「食料」です。 「ふく」は「雨乞いで雨を降らしてくれる神様」のことです。 「べ」というのは「大和から遠い」という意味で「九州王朝」の意味です。 「はたおり」とは、「秦氏が中国から来た結果、優れた中国文化が輸入された」という意味です。 「はたおりのふくべ」とは、「秦氏が信仰している龍神」の意味です。 さてここからが重要です。 枕詞とは「隠れ枕詞」を暗示しているのです。 「はたおりでないふくべ」を隠しているのです。 「はたおりでないふくべ」とは、「秦氏ではない渡来人の宗教」という意味で、「秦氏ではない渡来人」とは「呉人」です。 「はたおりではないふくべ」とは、「呉人の伝来した宗教」で、「仏教」です。 雄略天皇清寧天皇の時代、まだ「仏教」は日本人になじみはなく、迫害される恐れのあった、「異邦人の宗教」だったのです。 【】
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万葉集索引第二十巻
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yahoo《やまとねこ》さんのブログ【仏教と神道の宗教戦争】<神道と仏教を習合させたのは藤原不比等>【仏教を最初に輸入したのは雄略天皇】 日本に一番最初仏教を持ってきたのは、雄略天皇と清寧天皇親子です。 この方たちは、中国山東省で生まれた日本人です。 と言われても納得できないかもしれません。 古代を現代の感覚で捉えると難しいです。 中国朝鮮日本の国境は曖昧だったと思って下さい。 さらに、海には国境はないし、海上保安庁の視察船もいないのです。 東シナ海と日本海を「領海」にした、多国籍民族がいました。 その民族を、私は「秦氏」と呼びます。 そして、「はた」とは、「神武天皇は中国から渡来した」という意味です。 秦氏を創ったのは、神武天皇、綏靖天皇、自称猿田彦の三人です。 秦氏の活躍は、大化改新まで八百年続いたのです。 【九州王朝と大和朝廷は宗教で対立した】 蘇我氏と物部氏の対立は、仏教と神道の対立なのです。 仏教を日本に伝えたのは雄略天皇ですが、日本の全国にお寺を建てたわけではないのです。 大和は神社勢力が強く、排斥されるのが目に見えていたので、九州にお寺を建てたのです。 それも、福岡市の博多湾にある「志賀島」に建て、神社のカモフラージュをしました。 つまり、お寺に鳥居を建てさせたのです。 雄略天皇の持ってきた仏教は三つです。 法華経と阿弥陀経と密教です。 志賀島に三つのお寺を建てて、それぞれ鳥居を建てたのです。 そして僧侶に「晴れ乞い」をさせました。 なぜなら神社では「雨乞い」が行われましたが、「晴れ乞い」は禁止されていたので、「晴れ乞い」は嫌われていたのです。 なぜ「晴れ乞い」が嫌われていたかと言いますと、「晴れ乞い」は危険だからです。「晴れ乞い」は命がけだったのです。 「晴れ乞い」と「雨乞い」の違いを詳しく説明いたします。(日本の歴史家はなぜこんな重要なことがわからないのだろうか) これがわからないと「前方後円墳」の形の理由がわからないのです。 さらに、「晴れ乞い」には二種類あったのです。 【雄略天皇と「呉人」】 古事記の雄略天皇紀の冒頭に、「呉」が四回も出てきます。 基本的に、最初に書かれているということは重要度が高いと思われます。 大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。天皇、娶大日下王之妹・若日下部王。无子。又娶都夫良意富美之女・韓比賣、生御子、白髮命、次妹若帶比賣命。二柱。故爲白髮太子之御名代、定白髮部、又定長谷部舍人、又定河瀬舍人也。此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也。 「呉」のフレーズは下記のようになっています。 故爲白髮太子之御名代、定白髮部、又定長谷部舍人、又定河瀬舍人也。此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也。 故に、白髪太子の名代として、「白髪部」を定め、また「長谷部の舎人」を定め、また「河瀬の舎人」を定めた。 この時、呉人が渡来し、呉人を呉原に安置した。これ故その地を呉原と言うのである。 ポイントは、全部同じことを言っているということです。 「白髪」「長谷部」「河瀬」「呉」の意味に含まれるものです。 もちろん「隠して」いるのですが。 私は漢字の「呉音」という読みに関心を向けました。 漢字の音読みには「漢音」と「呉音」があり、奈良時代に中国から「漢音」を輸入した時に既に「呉音」が存在していたというのです。 ウイキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%9F%B3をご参照ください。 もう一つ、「呉服」の語源についても面白いので下記をご覧ください。 http://gogen-allguide.com/ko/gofuku.html 「呉」という国は、三国の「魏」「呉」「蜀」のうちの「呉」でしょう。 この「呉」は三世紀初めに滅びていますので、雄略天皇の時代(たぶん5世紀)にはありません。 しかし「呉人」の遺民が日本に来たことは十分考えられます。 弥生人は「越民族」ですし、出雲人は「商民族」です。 神武天皇、綏靖天皇などは、「秦民族」です。 結論を急がず、「雄略天皇」を味わいましょう。 雄略天皇、清寧天皇の親子が、「大和を統一」(九州と関西)したのですから。後でまた分裂しますが、統一の基盤を作ったのです。 【「呉」を「くれ」と読むのは何故か】 「呉」は音読みで「ゴ」です。 「呉」を「くれ」と読むのは何故でしょうか。 日本には雄略天皇時代に、「くれ」という和語があって、「呉」という漢字を当てたのです。 「呉」の音を借りたのではなく、「くれ」と「呉」が同じ意味だと考えたからです。 「呉」というのは、中国三国時代の一つ、「呉国」です。 では「くれ」とはどんな意味でしょうか。 「くれ」とは現代日本人が日常会話で使っているのです。 「ちょうだい」という意味です。 「く」は「食う」で食料の意味です。 「れ」は「未来形」です。 「ら行」は時制音なのです。 「くれ」とは祝詞なのです。 「雨乞い」の祝詞です。 古事記の雄略天皇の冒頭に出てくる「呉人」とは、「雨乞いの名人」なのです。 雨乞いの名人とはどんな方たちなのでしょうか。 【和名のお寺があるのは何故か】
雄略天皇とちいさこべのすがるは、中国から渡来して来た「呉人」のために、土地とお寺を用意します。 博多湾の志賀島に、三つのお寺を建てたのです。 その寺の名前を考えました。 仏教と漢字は一緒に欽明天皇の時代に輸入されたので、お寺の名前は音読みなのです。 しかし訓読みのお寺があるのです。 長谷寺、豊浦寺、飛鳥寺です。 長谷は雄略天皇のお名前でもあるので、長谷寺は阿弥陀教だったのです。 豊浦(とゆら)寺は法華経です。 飛鳥寺の飛鳥は藤原不比等語なので、奈良時代のお寺です。 もう一つ和名の寺があったのです。 春日寺です。密教です。 「春日」は何故「かすが」と読むのか。それは枕詞だからなのです。 「春日」は「はるのひ」と読みます。 音読みなら「シュンジツ」です。 「春日」を「かすが」と読む根拠はなんでしょうか。 「春日香須賀」と書いて、「はるのひのかすが」と読んだのです。 それで「春日」だけで「かすが」と読むのです。 「はるのひ」とは何でしょうか。枕詞は隠れ枕詞があります。 「天照るの香須賀」といいます。 雄略天皇が福岡の志賀島に建てた隠れ仏教寺院です。 「天照る」とは、「大日如来」のことではなく、「晴乞い」の意味です。 では「はるのひ」とは「雨乞い」でしょうか。 藤原不比等の建てた春日大社は、「雨乞い」「晴乞い」両方の聖地なのです。 「はる」は「梅雨」「ひ」は「太陽」です。 |
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4515 [題詞]七月五日於<治>部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首 [原文]秋風乃 須恵布伎奈婢久 波疑能花 登毛尓加射左受 安比加和可礼牟 [訓読]秋風の末吹き靡く萩の花ともにかざさず相か別れむ [仮名],あきかぜの,すゑふきなびく,はぎのはな,ともにかざさず,あひかわかれむ [左注]右一首大伴宿祢家持作之 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20 4515 [題詞]七月五日於<治>部少輔大原今城真人宅餞因幡守大伴宿祢家持宴歌一首 (七月五日、治部少輔大原今城真人の宅にして、因幡守大伴宿禰家持に餞する宴の歌一首) 秋風乃須恵布伎奈婢久波疑能花登毛尓加射左受安比加和可礼牟 あきかぜのすゑふきなびくはぎのはなともにかざさずあひかわかれむ 秋風が葉末に吹き
この年六月十六日、家持は因幡守(従五位下相当)を拝命。野の萩をなびかせている 萩の花をともに縵に插すこともなく 別れてゆくのですね 因幡に発った後、八月には孝謙天皇が大炊王に譲位し、仲麻呂は大保(右大臣)に昇進、恵美押勝の名を賜る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下「因幡の国」より抜粋。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/inaba.html 天平宝字2年(西暦758年)6月16日、家持は右中弁から因幡守に遷任されました。7月5日には、友人の大原今城の宅で送別の宴が開かれ、家持は別れを惜しむ歌を残します。 秋風の 末吹きなびく 萩の花 ともに挿頭さず 相か別れむ(巻二十 4515) (訳)野では秋風が葉末に吹き、萩をなびかせる――そんな季節になろうというのに、萩の花を仲よく髪に挿すこともしないまま、別れてゆくのでしょうか。 家持が去った後の都では、8月1日、孝謙天皇が皇太后への孝養を理由に譲位し、皇太子大炊王が天皇位に就かれました。第47代淳仁天皇です。文武天皇以来の草壁皇子直系の皇統はここに途切れることとなりました。しかし恒例の改元はなされず、立后等の記事も見られません。 同日、即位に伴う叙位が行われますが、天平勝宝元年(749)従五位上に昇って以来昇叙のなかった家持は、ここでも選に漏れています。 同月25日、藤原仲麻呂は大保(右大臣)に就任し、太政官の首座を占めました。同時に恵美押勝の名を与えられ、永世相伝の功封3000戸・功田100町を賜わり、私鋳銭・私出挙と恵美家印を用いることを許されます。異例ずくめの厚遇でした。 年が明けて天平宝字3年(759)正月1日、都では淳仁天皇が大極殿に出御し、初めて朝賀を受けられました。 同じ日、家持は因幡の国庁で国郡司らを率いて朝廷を遥拝し、朝賀の儀を受けました。その後、部下たちを饗応する宴を張ります。 三年春正月一日、因幡国の庁にして、国郡の司等に饗を賜ふ宴の歌一首 新(あらた)しき 年の始めの 初春の けふ降る雪の いや重(し)け吉言(よごと)(巻二十 4516) (訳)新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、天皇陛下を言祝ぐめでたい詞がつぎつぎと重なりますように。 こうして、雄略帝の、大王の勢威を高らかに宣言する歌に始まった万葉は、極めて儀式的な、個人的な感慨のまったく含まれない、しかし(それゆえにこそ)流れるように美しい調べをもつ、一臣下による天皇讃歌によって締めくくられたのです。
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4516 [題詞]三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首 [原文]新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 [訓読]新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 [仮名],あらたしき,としのはじめの,はつはるの,けふふるゆきの,いやしけよごと [左注]右一首守大伴宿祢家持作之 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰 あらたしきとしのはじめのはつはるのけふふるゆきのいやしけよごと 巡り来た年の始めの初春に
今日降りしきる雪のように 天皇陛下を言祝ぐめでたい吉事が つぎつぎと重なりますように * 万葉集最終歌。
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