|
20 4425;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,女歌,恋情 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) [左注](右八首昔<年>防人歌矣 主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫 贈兵部少輔大伴宿祢家持) <右の八首は昔年(さきつとし)の防人の歌なり。 主典刑部少録、磐余(いはれ)伊美吉(いみき)諸君(もろきみ) 抄寫(ぬきうつ)して大伴家持に贈れり。> 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受 さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず 防人に行くのはどなたのだんな様なのと
何の悲しみもなく聞く人を見るとうらやましい 20 4426;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,女歌,恋情,磐余諸君 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都々 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆 あめつしの かみにぬさおき いはひつつ いませわがせな あれをしもはば 天地の神々に幣を奉じ
斎ひつつおいで下さい わが夫よ わたしを思うのなら 20 4427;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,恋情,望郷 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆 いはのいもろ わをしのふらし まゆすひに ゆすひしひもの とくらくもへば 妻は想っているのだな
真結びに結んでくれたまじないの 紐が解けたことをおもえば 20 4428;天平勝宝7年2月,年紀,防人歌,古歌,伝誦,女歌,地名,恋情 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟 わがせなを つくしにやりて うつくしみ えひはとかなな あやにかもねむ 夫を筑紫へ遣ってそのいとしさに
帯も解けぬまま 言いようもなく独り寝るの 20 4429;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,悲別,恋情,磐余諸君 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛 [うまやなる なはたつこまの おくるがへ] いもがいひしを おきてかなしも 厩の駒が綱を切って飛出すように
行かないでと泣いた妻を 置いて残したこのせつなさよ 20 4430;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,序詞,出発,羈旅 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊O弖登阿我久流 [あらしをの いをさたはさみ] むかひたち] かなるましづみ いでてとあがくる 荒ぶる男が矢を手に挟み向かい立つ
その間を鎮めつつ私は出てきたのだ 20 4431;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,望郷,恋情,磐余諸君 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛 ささがはの さやぐしもよに ななへかる ころもにませる ころがはだはも 小笹の葉の鳴る霜の夜
七重にも衣を重ね着する それにもまさる愛する人の温もりが 思い出されることだ 20 4432;天平勝宝7年2月,防人歌,古歌,伝誦,磐余諸君,悲別,恋情 [題詞](天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌) 佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛 さへなへぬ みことにあれば かなしいもが たまくらはなれ あやにかなしも 拒めぬ御言葉に
愛しい妻の手枕を離れた 無性に悲しいことだ * 無性は無情の命令を暗示したもの。
貴族層はごく一部にすぎず、民衆は天皇崇拝とは無縁で、平城京の人口は約10万人、貴族は百数十人、下級役人は数千人と推定されている。 |
万葉集索引第二十巻
[ リスト | 詳細 ]
|
20 4433;天平勝宝7年3月3日,作者:安倍沙美麻呂,宴席,望郷,防人検校,大阪 [題詞]三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首 (天平勝宝7年(西暦755年)3月3日に、防人を検閲した勅使(ちょくし)と兵部(ひょうぶ)の役人たちが集まって宴会をしたときに詠んだ三首) [左注]右一首勅使紫微大弼安倍沙<美>麻呂朝臣 (右の一首は勅使、紫微大弼、安倍沙彌麿(さみまろ) ) 阿佐奈佐奈 安我流比婆理尓 奈里弖之可 美也古尓由伎弖 波夜加弊里許牟 あさなさな あがるひばりに なりてしか みやこにゆきて はやかへりこむ 毎朝毎朝舞い上がる雲雀になりたい
都へ行ってそして直ぐに帰ってこられよう 20 4434;天平勝宝7年3月3日,作者:大伴家持,叙景,宴席,防人検校,大阪 [題詞](三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首) 比婆里安我流 波流弊等佐夜尓 奈理奴礼波 美夜古母美要受 可須美多奈妣久 ひばりあがる はるへとさやに なりぬれば みやこもみえず かすみたなびく 雲雀が上がり
確かな春になって 都も見えぬほどの 霞がたなびいている 20 4435;天平勝宝7年3月3日,作者:大伴家持,望郷,防人検校,宴席,大阪 [題詞](三月三日檢校防人 勅使并兵部使人等同集飲宴作歌三首) [左注]右二首兵部使少輔大伴宿祢家持 (右の二首は兵部使の少輔、大伴家持) 布敷賣里之 波奈乃波自米尓 許之和礼夜 知里奈牟能知尓 美夜古敝由可無 ふふめりし はなのはじめに こしわれや ちりなむのちに みやこへゆかむ つぼみだった花の初めにここに来た
花が散った後に都に帰ろう 以下<出典・記事転載(たのしい万葉集)より。> 大伴家持; 生年・没年 養老2年(718)? 〜 延暦4年(785) 家族 父 : 大伴旅人(おおとものたびと) 母 : 不明 子 : 永主(ながぬし) 奥さんは、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)。 天平18年(746)、7月7日 国守として越中(富山県)に赴任。 勝宝3年(751)、少納言に任じられ、都(みやこ)に戻る。 宝字2年(758)、6月16日 因幡守(いなばのかみ)に左遷される。 宝字3年(759)、元旦 因幡国庁で万葉集の最後の歌を詠む。 宝字6年(762)、信部大輔(しんぶのだいふ)に任じられ、都に戻る。 宝字8年(764)、1月12日薩摩守に任じられる。 神護1年(765)、都に戻る。 景雲1年(767)、大宰少弐に任じられ、太宰府に赴任する。 宝亀1年(770)、民部少輔に任じられ、都に戻る。 延暦2年(783)、7月19日 中納言に任じられる。 延暦3年(784)、持節征東将軍に任じられる。 延暦4年(785)、亡くなる。 持節征東将軍は蝦夷征討の将軍のこと。坂上田村麻呂がなったことで有名。 「持節」は、天皇から刀を与えられて、天皇の権限を代行することをいう。 ・・・・・・・・・・・・・ 含(ふふ)めりし 花の初めに 来しわれや 散りなむのちに 都へ行かむ(大伴家持) 大伴家持が東国から徴発した<防人>を閲兵するために、天平勝宝7年(755年)3月、難波に出張した時に詠んだもの。不思議なことに「万葉集」では<紫微大弼>の安倍沙弥麻呂と並んで、ともに3月3日に詠まれた歌として掲載されている。何が不思議かというと<紫微大弼>は<紫微中台>の次官。 藤原仲麻呂の腹心なのだ。位は従四位上。家持よりずっと上。 しかも防人の閲兵は兵部の所管。<紫微中台>は光明皇太后の秘書室。 室長の<紫微中台令>は仲麻呂。本来、閲兵に立ち会う必要はない。 梅原は「これは仲麻呂がクーデターを警戒した証拠」と考えている。 だから安倍沙弥麻呂は家持に同行、一緒に難波に泊り込んだ。 なぜ警戒したか。 <防人>を東国から徴発することが異例だったのだ。<防人>は大陸からの侵攻に備え、辺境に配備する軍隊だが、天平9年(737年)以降、東国からの徴発をやめ、筑紫人に壱岐や対馬を警備させることになっていた。 したがってこの東国からの徴発は<天平の詔>に違反している。 なぜ東国から徴発したか。もちろん東国の兵が強いから。壬申の乱に天武側が勝利を得たのも東国の強兵の力を借りたからだ。 この異例の徴発に左大臣の橘諸兄、兵部卿(陸軍大臣)の橘奈良麻呂の秘策が秘められていたのではないか。これが<梅原の推理>だ。 しかも当時の陸奥鎮守将軍は大伴古麻呂、副将軍は佐伯全政。この二人は後に<奈良麻呂の変>に連座、命を落としている。 つまり<奈良麻呂派>と見て仲麻呂は警戒していた。 ここまで深読みできる史料が「万葉集」に秘められているとなると凄い話だが事実だろう。もっと凄いのが<防人の歌>。 家持が集めた<防人の歌>はこの年、相模、駿河、上総、常陸、下野、下総、信濃、上野、武蔵9カ国の防人のものだけ。 それ以外は皆無なのだ。梅原はこれに注目。 「防人に関心を持ちすぎている。越中守に赴任しても一向に庶民たちの生活に関心を持てなかった家持である。ここで急に庶民の生活感情に関心を持ち始めたはずがない。私は家持が防人たちから歌を徴集したのも文化事業の名を借りた軍事的掌握が目的ではなかったと思う」(梅原猛「天平の明暗」小学館「人物日本の歴史」・275頁)。 兵部少輔家持が左大臣橘諸兄、兵部卿橘奈良麻呂から何を命ぜられていたかは不明だが、防人の閲兵には虚々実々の駆引きがあったのではないか。閲兵には奈良麻呂側に何らかの陰謀があった。だが仲麻呂側の警戒で未発に終ったのではないか。 これが梅原の推理だ。 仲麻呂も軍事力を持っていた。彼は<中衛大将>。天皇家の親衛隊を配下に治めていた。 梅原の推理はこれでは終らない。「万葉集」を読めば読むほど、この疑惑は深まるという。この後、家持は<仲麻呂派>の人物と急に親しくなるという。 一人は<大原真人今城>―――。<大原真人>は天武天皇の皇子<長>の孫・高安王に天平2年(730年)に授けられた<氏姓>。 <今城>は高安王の子か甥。この今城は後に仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こした時、仲麻呂に味方したため、位官を没収されている。 家持が当時それを予想できるはずはないが、今城が仲麻呂に近いことは知っていただろう。 3月3日に閲兵のあった天平勝宝7年の5月9日。「兵部少輔大伴宿禰家持の宅に集飲(うたげ)する歌4首」と詞書があり、交互に今城と家持の歌が2首ずつ記載がある。 わが背子が 屋戸の石竹花(なでしこ) 日並べて 雨は降れども 色は変らず(今城) ひさかたの 雨は降りしく 石竹花が いや初花に 恋しきわが背(家持)―――以下略。 もう一人は<治部卿船王>―――。 この船王は舎人親王の子。後の淳仁天皇の兄というから大物だ。この船王は奈良麻呂のクーデターが発覚した際、いち早く仲麻呂側につき、奈良麻呂の同志たちを糾問した。仲麻呂の反乱では首謀者の一人となって終始行動をともにし、敗残後は親王の位を剥奪され、隠岐の国に配流される。この船王にも急接近。 5月18日。「左大臣の、兵部卿橘奈良麿朝臣の宅に宴する歌3首」と詞書。 石竹花が 花取り持ちて うつらうつら 見まくの欲しき 君にもあるかも(船王) この後に家持の歌が2首記載されているが、不思議なことに「追ひて作れり」と詞書。 宴会には出ていたのに、その場では作らない。 つまり奈良麻呂と親しくしていると船王に思われたくなかったのだろう。 家持には不思議な行動が、次第に多くなっていく。
|
|
4446;天平勝宝7年5月11日,作者:丹比国人,橘諸兄,宴席,客讃美,寿歌 [題詞]同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首 [左注]右一首丹比國人真人壽左大臣歌 和我夜度尓 佐家流奈弖之故 麻比波勢牟 由米波奈知流奈 伊也乎知尓左家 わがやどに さけるなでしこ まひはせむ ゆめはなちるな いやをちにさけ 私の庭に咲いているなでしこよ
何んでもあげるから 決して散らないで何度も咲いてくださいよ 20 4447;天平勝宝7年5月11日,作者:橘諸兄,丹比国人,宴席,戯笑,愛情 [題詞](同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首) [左注]右一首左大臣和歌 麻比之都々 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓 まひしつつ きみがおほせる なでしこが はなのみとはむ きみならなくに ナデシコの花にご褒美をたくさんやって
君が育て咲かせておいでなのですね 気紛れでお伺いするようなお宅ではありませんなあ * 「ならなくに」 断定の助動詞「なり」の未然形に打消しの助動詞「ず」の未然形+接尾語「く」がつき、さらに接続助詞「に」のついたもの。・・・ではないのに。・・・ではないから。 20 4448;天平勝宝7年5月11日,作者:橘諸兄,寿歌,丹比国人,宴席 [題詞](同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首) [左注]右一首左大臣寄味狭藍花詠也 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟 あぢさゐの やへさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのはむ 紫陽花の花が八重に咲くように
八代も何代も健勝でいらしてください そして花を眺めては貴方を思い出しましょう 天平勝宝七歳(755)五月、 丹比国人(左大臣多治比嶋の孫)邸での宴に招かれ、紫陽花に寄せて詠んだ歌。 宴の主人である国人の長寿を言祝(ことほ)ぐ。 当時の紫陽花は今言うガクアジサイだったらしいが、国人宅の庭には八重咲きの変種が咲いていたのだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 橘諸兄 たちばなのもろえ 天武十三〜天平勝宝九(684-757) 敏達天皇の裔。美努王(みののおおきみ)の子。初め葛城王と称した。 母は県犬養橘宿禰三千代。光明皇后は異父妹にあたる。 子に奈良麻呂がいる。 和銅三年(710)、従五位下に叙され、馬寮監・左大弁などを経て、 天平三年(731)、参議に就任。 翌年、従三位。 同八年、母の橘宿禰姓を継ぐことを請い、許される。 これに伴い、葛城王から橘宿禰諸兄と改名する。 同九年、藤原四卿没後、大納言に昇進。 翌年、阿倍内親王の立太子と同時に右大臣に就任し、以後政界を主導する。天平十二年、藤原広嗣の乱が勃発し、 聖武天皇の関東行幸がなされたのを機に、恭仁京遷都を推進。 同年十二月、遷都を実現した。 同十五年には従一位左大臣となる。 その後聖武天皇は紫香楽に遷都するが、災異が続発し、結局 天平十七年(745)、平城に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰した。 以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。 天平感宝元年(749)、東大寺行幸に際し正一位に昇る。 天平勝宝七年(755)十一月、 飲酒の席での聖武太上天皇誹謗の言辞を密告され、 翌年二月、この責を負って官界を引退した。 同九年正月、薨去(74歳)<出典・転載[千人万首]> 20 4449;天平勝宝7年5月18日,作者:船王,宴席,主人讃美,恋愛,橘奈良麻呂 [題詞]十八日左大臣<宴>於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首 天平勝宝7年(西暦755年)5月18日に橘奈良麻呂の邸宅で催された宴の後で詠まれた歌。 [左注]右一首治部卿船王 奈弖之故我 波奈等里母知弖 宇都良々々々 美麻久能富之伎 吉美尓母安流加母 なでしこが はなとりもちて うつらうつら みまくのほしき きみにもあるかも なでしこの花をとってみるように
じかにお会いしたいあなた様です * 「うつらうつら」まざまざと。ウツラのウツは現(うつつ)のウツに同じ。 * 「あなた様」とは、橘奈良麻呂のこと。 20 4450;天平勝宝7年5月18日,作者:大伴家持,寿歌,宴席,主人讃美,橘奈良麻呂 [題詞](十八日左大臣<宴>於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首) [左注](右二首兵部少輔大伴宿祢家持追作) 和我勢故我 夜度能奈弖之故 知良米也母 伊夜波都波奈尓 佐伎波麻須等母 わがせこが やどのなでしこ ちらめやも いやはつはなに さきはますとも あなた様の庭のなでしこは散ることはございません
ますます初花のように咲き増さることでしょう 20 4451;天平勝宝7年5月18日,作者:大伴家持,主人讃美,宴席,寿歌,橘奈良麻呂 [題詞](十八日左大臣<宴>於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首) [左注]右二首兵部少輔大伴宿祢家持追作 宇流波之美 安我毛布伎美波 奈弖之故我 波奈尓奈<蘇>倍弖 美礼杼安可奴香母 うるはしみ あがもふきみは なでしこが はなになそへて みれどあかぬかも ご立派でお美しいと私が思うあなたさまは
なでしこの花のように見飽きることがございません 20 4452;天平勝宝7年8月13日,作者:安宿王,肆宴,宮廷,宴席,叙景 [題詞]八月十三日在内南安殿肆宴歌二首 [左注]右一首内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之 乎等賣良我 多麻毛須蘇婢久 許能尓波尓 安伎可是不吉弖 波奈波知里都々 をとめらが たまもすそびく このにはに あきかぜふきて はなはちりつつ 乙女たちが美しい玉裳をひいて遊んでいる
この庭の花が 秋風に吹かれて散ってしまうなあ 20 4453;天平勝宝7年8月13日,作者:大伴家持,未奏,叙景,宮廷,肆宴 [題詞](八月十三日在内南安殿肆宴歌二首) [左注]右一首兵部少輔従五位上大伴宿祢<家持> [未奏] 安吉加是能 布伎古吉之家流 波奈能尓波 伎欲伎都久欲仁 美礼杼安賀奴香母 あきかぜの ふきこきしける はなのには きよきつくよに みれどあかぬかも 秋風が吹き敷いた花を庭は
清らかな月の光を浴びて 見飽きることはないことよ 20 4454;天平勝宝7年11月28日,作者:橘諸兄,橘奈良麻呂,寿歌 [題詞]十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首 (作者が息子の奈良麻呂の邸に招かれ、宴席で詠んだ歌。) [左注]右一首左大臣作 高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪 [たかやまの いはほにおふる すがのねの] ねもころごろに ふりおくしらゆき 高山の巌に生えている菅の根のように
細かく絡み合いながら 次々に降り積もってゆく白雪よ * 「ねもころごろに」は、「ねもころ、ねもころに」を縮約した形か。モコロは「〜と同じ状態にある」意。ネモコロで、根のようにしっかりと絡みつき、千切れることなく長く続く様を表わす。 強靭な菅の根に長久の祝意を籠めているのであろう。 20 4455;天平1年,年紀,作者:橘諸兄:葛城王,薩妙觀,贈答,枕詞 [題詞]天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首[副芹子L] [左注](右二首左大臣讀之云尓 [左大臣是葛城王 後賜橘姓也]) 安可祢<左>須 比流波多々婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼 [あかねさす] ひるはたたびて [ぬばたまの] よるのいとまに つめるせりこれ 昼間は役所の仕事で大変忙しかった
夜にやっと暇ができて摘んだ芹だよ これは * 「あかねさす」は「昼」にかかる枕詞。 「ぬばたまの」は「夜」にかかる枕詞。 * 班田使は、班田収受法に基づいて公民に田畑を与え、租税を徴収する。超多忙。忙しいながらも暇をみて、心憎からず想っていた女官に芹を摘んで歌と共に贈った。 20 4456;天平1年,年紀,作者:薩妙觀,橘諸兄,葛城王,贈答,戯笑 [題詞](天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首[副芹子○])薩妙觀命婦報贈歌一首 [左注]右二首左大臣讀之云尓( 左大臣読むとしか云ふ) [左大臣是葛城王 後賜橘姓也] 麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖 可尓波乃多為尓 世理曽都美家流 ますらをと おもへるものを たちはきて かにはのたゐに せりぞつみける ご立派な男子とお見受けしましたが
大刀を佩かれたまま可尓波の田で 芹を摘んでおられたのですね * 「可尓波」は現在の京都府相楽郡山城町 |
|
20 4465;天平勝宝8年6月17日,作者:大伴家持,枕詞,氏族意識,大伴古慈悲,説教,淡海三船 [題詞]喩族歌一首[并短歌] [左注]右縁淡海真人三船讒言出雲守大伴古慈斐宿祢解任 是以家持作此歌也 右、淡海真人三船の讒言に縁り、出雲守大伴古慈斐(こしび)宿禰解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作る (以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作) ・・・・・・・・・・・・
↓[原文]ー[訓読]ー[仮名]ー 比左加多能ー久方のー[ひさかたの] 安麻能刀比良伎ー天の門開きーあまのとひらきー天の戸を開き、 多可知保乃ー高千穂のーたかちほのー高千穂の 多氣尓阿毛理之ー岳に天降りしーたけにあもりしー峰に天降りした 須賣呂伎能ー皇祖のーすめろきのー皇祖の 可未能御代欲利ー神の御代よりーかみのみよよりー神の御代から 波自由美乎ーはじ弓をーはじゆみをーハジの木で作った弓を 多尓藝利母多之ー手握り持たしーたにぎりもたしー 手に握り持ち、 麻可胡也乎ー真鹿子矢をーまかごやをー真鹿児矢を 多婆左美蘇倍弖ー手挟み添へてーたばさみそへてーいっぱい脇に挟んで 於保久米能ー大久米のーおほくめのー大久米の 麻須良多祁乎々ーますらたけををー勇者たちを 佐吉尓多弖ー先に立てーさきにたてー先導として 由伎登利於保世ー靫取り負ほせーゆきとりおほせー矢を入れた靫を背負わせ 山河乎ー山川をーやまかはをー山川を 伊波祢左久美弖ー岩根さくみてーいはねさくみてー岩を押しわけて 布美等保利ー踏み通りーふみとほりー踏み通り 久尓麻藝之都々ー国求ぎしつつーくにまぎしつつー安住の国を求めつつ 知波夜夫流ー[ちはやぶる] 神乎許等牟氣ー神を言向けーかみをことむけー勢威盛んな鬼神を宣撫し 麻都呂倍奴ーまつろはぬー服従しない 比等乎母夜波之ー人をも和しーひとをもやはしー人々を鎮め 波吉伎欲米ー掃き清めーはききよめー国内を祓い浄め 都可倍麻都里弖ー仕へまつりてーつかへまつりてー任務を果たし 安吉豆之萬ー蜻蛉島ー[あきづしま] 夜萬登能久尓乃ー大和の国のーやまとのくにの 可之<波>良能ー橿原のーかしはらのー橿原の 宇祢備乃宮尓ー畝傍の宮にーうねびのみやにー畝傍の宮に 美也<婆>之良ー宮柱ーみやばしらー御殿の柱を 布刀之利多弖○ー太知り立ててーふとしりたててー太々と立てて 安米能之多ー天の下ーあめのしたー天下を 之良志賣之祁流ー知らしめしけるーしらしめしけるー支配なさった 須賣呂伎能ー天皇のーすめろきのー天皇(神武天皇)の 安麻能日継等ー天の日継とーあまのひつぎとー後裔として 都藝弖久流ー継ぎてくるーつぎてくるー位を嗣いで来られた 伎美能御代々々ー君の御代御代ーきみのみよみよー大君の御代ごとに 加久左波奴ー隠さはぬーかくさはぬー 曇りない 安加吉許己呂乎ー明き心をーあかきこころをー忠誠心を 須賣良弊尓ーすめらへにー天皇のお側に 伎波米都久之弖ー極め尽してーきはめつくしてー極め尽して 都加倍久流ー仕へくるーつかへくるーお仕えしてきた 於夜能都可佐等ー祖の官とーおやのつかさとー祖先伝来の役柄であると 許等太弖○ー言立ててーことだててーそう明言し 佐豆氣多麻敝流ー授けたまへるーさづけたまへるーお与えになった、 宇美乃古能ー子孫のーうみのこのー子孫代々 伊也都藝都岐尓ーいや継ぎ継ぎにーいやつぎつぎにー立派に職務を引き継ぎ 美流比等乃ー見る人のーみるひとのー見る人が 可多里都藝弖○ー語り継ぎててーかたりつぎててー語り継ぎ 伎久比等能ー聞く人のーきくひとのー聞く人が 可我見尓世武乎ー鏡にせむをーかがみにせむをー規範にするだろうに 安多良之伎ー惜しきーあたらしきーそのような勿体ない 吉用伎曽乃名曽ー清きその名ぞーきよきそのなぞー清い家名であるぞ 於煩呂加尓ーおぼろかにー疎かに 己許呂於母比弖ー心思ひてーこころおもひてー心に思って 牟奈許等母ー空言もーむなこともーたとえ口先だけでも 於夜乃名多都奈ー祖の名絶つなーおやのなたつなー祖先の名誉を絶やしてはならぬ 大伴乃ー大伴のーおほとものー大伴の 宇治等名尓於敝流ー氏と名に負へるーうぢとなにおへるー氏と名に負った 麻須良乎能等母ー大夫の伴ーますらをのともーますらおの仲間たちよ ・・・・・・・・・・・・ * 「ことむけ」は、もとは言葉(呪言)によって穏やかに従わせる意。 * 「人をも和し」と共に、呪術的手段による征服。 * 「言立てて授けたまへる」の主語は天皇。 * 「隠さはぬ」「言立て」は、特に黄金産出の詔で先代聖武天皇が大伴・佐伯氏を内兵(うちのいくさ)として称揚したことが意識に。 * 「むなことも祖の名絶つな」は、口先だけのことにしても祖先の名折れになるようなことは言うな、といった意。同族の古慈斐が讒言の罪を負った事件を暗示(左注) 20 4466;天平勝宝8年6月17日,作者:大伴家持,氏族意識,枕詞,説教,大伴古慈悲,淡海三船 [題詞](喩族歌一首[并短歌]) 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ 大和の国に隠れもない
名誉ある名を持つ大伴の一族よ 怠りなく決して心を緩めるな 20 4467;天平勝宝8年6月17日,年紀,作者:大伴家持,氏族意識,説教,大伴古慈悲,淡海三船 [題詞](喩族歌一首[并短歌]) [左注]「淡海真人三船」は大友皇子(弘文天皇)の曾孫。事件当時は三十五歳、内豎(天皇の側近)で、六位前後か。後、大学頭・文章博士などを長く務めた学者官僚。 都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曽乃名曽 [つるぎたち] いよよとぐべし いにしへゆ さやけくおひて きにしそのなぞ 剣太刀のようにいっそう研ぎ澄まさねばならない
遥かな昔から清らかに負い持つ大伴の名を * 「剣大刀」は「研ぐ」にかかる比喩的枕詞(同様の例に「剣大刀磨ぎし心を 天雲に思ひ散らし」13/3326)。枕詞と取らず、剣大刀そのものを研いで戦に備える、との解釈も可能ですが、この歌を含め一連の長短歌では「名」が主題になっており、「あきらけき名」をさらに明澄にする意と取るのが妥当と思われます。 なお剣大刀は「刃(な)」から「名」に掛かる枕詞でもあり(「剣大刀名の惜しけくも我はなし」12/2984)、この点も「研ぐ」対象が「名」であるとの解釈を補強します。 [左注] 右、淡海真人御船(あふみのまひとみふね)の讒言(ざんげん)によりて、出雲守(いづものかみ)大伴古慈悲(こじひ)宿禰、任を解かる。ここを以(も)って家持この歌を作る。三日後赦免(家持の歌は翌月十七日の作)。 この後古慈斐は奈良麻呂の乱で土佐国に任国配流され、宝亀元年復位。宝亀八年八月、従三位大和守で薨ず。
左注の解釈は、「三船が古慈斐を讒言により陥れた」「三船の讒言に古慈斐が連座した」の両説があります。『続日本紀』には、古慈斐と三船が「朝庭を誹謗、人臣の礼无きに坐せられて」とあり、連座説に合致します。
なお『続日本紀』古慈斐薨伝は、この事件を藤原仲麻呂が二人を陥れるため計画した陰謀としています。「家持此の歌を作る」(原文は「家持作此歌也」)という書式は、この左注が家持の自記であることを証しています。<出典・転載[千人万首]より。> 20 4468;天平勝宝8年6月17日,作者:大伴家持,無常,仏教,求道 [題詞]臥病悲無常欲修道作歌二首 病に臥して無常を悲しび、修道を欲(ほり)して作る歌二首 [左注](以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作 宇都世美波 加受奈吉身奈利 夜麻加波乃 佐夜氣吉見都々 美知乎多豆祢奈 うつせみは かずなきみなり やまかはの さやけきみつつ みちをたづねな 現世の身は空虚ではかないものだ
澄みきって清らかな山河の景色を見ながら 仏の道を求めていこう * 「うつせみ」は、現世における人としての存在。 * 「数なき」は、数が無い、すなわちゼロであること。空虚なこと。仏教に基づく表現。 20 4469;天平勝宝8年6月17日,作者:大伴家持,無常,仏教,求道 [題詞](臥病悲無常欲修道作歌二首) [左注](以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作) 和多流日能 加氣尓伎保比弖 多豆祢弖奈 伎欲吉曽能美知 末多母安波無多米 わたるひの かげにきほひて たづねてな きよきそのみち またもあはむため 渡る日の光と競い合うように
求めて行こう 清い仏のその道を この世か あるいは来世でか また巡り遇えるように 20 4470;天平勝宝8年6月17日,作者:大伴家持,無常,仏教,求道,寿歌 [題詞]願壽作歌一首 [左注]以前歌六首六月十七日大伴宿祢家持作 寿(いのち)を願ひて作る歌一首 美都煩奈須 可礼流身曽等波 之礼々杼母 奈保之祢我比都 知等世能伊乃知乎 みつぼなす かれるみぞとは しれれども なほしねがひつ ちとせのいのちを 水泡のようなはかない仮の身であると
知ってはいるが なお願わずにはいられない 千年の命を 20 4471;天平勝宝8年11月5日,作者:大伴家持 [題詞]冬十一月五日夜小雷起鳴雪落覆庭忽懐<感>憐聊作短歌一首 冬十一月五日の夜、小雷起こり鳴り、雪降りて庭を覆ふ。忽ちに感憐を懐(むだ)きて、聊かに作る短歌一首 [左注]右一首兵部少輔大伴宿祢家持 氣能己里能 由伎尓安倍弖流 安之比奇<乃> 夜麻多知波奈乎 都刀尓通弥許奈 けのこりの ゆきにあへてる [あしひきの] やまたちばなを つとにつみこな 消え残った白雪に照り映えている
山橘をみやげに摘んでみやげにしよう * 山橘(薮柑子)の赤い実。 * この頃、橘諸兄は聖武上皇誹謗の責を負って引退しており、その子の奈良麻呂は反仲麻呂謀反を企てるなどの背景があった。 |
|
20 4472;天平勝宝8年11月8日,作者:安宿奈杼麻呂,宴席,出発,安宿王,島根,意宇浦,羈旅,餞別 [題詞]八日讃岐守安宿王等集於出雲掾安宿奈杼麻呂之家宴歌二首 [左注]右掾安宿奈杼麻呂 於保吉美乃 美許登加之古美 於保乃宇良乎 曽我比尓美都々 美也古敝能保流 おほきみの みことかしこみ おほのうらを そがひにみつつ みやこへのぼる 大君の命を畏れ謹んで
於保の浦を背に 都へと上って行く * 「於保の浦」は所在不詳。 * 「恐み・畏み」は「つつしんで承る」意。 * 「背向そがひ」は「後ろの方。後方。背面」のこと。 20 4473;天平勝宝8年11月8日,作者:山背王,安宿王,安宿奈杼麻呂,宴席,出発,羈旅,餞別,島根 [題詞](八日讃岐守安宿王等集於出雲掾安宿奈杼麻呂之家宴歌二首) [左注]右一首守山背王歌也 主人安宿奈杼麻呂語云 奈杼麻呂被差朝集使擬入京師 因此餞之日各<作>歌聊陳所心也 (「山背王」は、安宿王の同母弟。父は長屋王、母は不比等の娘(長娥子か)で、黄文王も同腹。) 宇知比左須 美也古乃比等尓 都氣麻久波 美之比乃其等久 安里等都氣己曽 [うちひさす] みやこのひとに つげまくは みしひのごとく ありとつげこそ 都の人々に告げたいことと言えば
以前の通り元気でいると そう告げてほしい * 「見し日のごとくあり」は、以前に会った日(作者が出雲へ発つ以前、在京の日)と変わらず元気でいること。 4474;天平勝宝8年11月8日,作者:大伴家持,追和,山背王,推敲 [題詞] [左注]右一首兵部少輔大伴宿祢家持後日追和出雲守山背王歌作之 (右一首、兵部少輔大伴宿禰家持、後日山背王の歌に追和して作る) 「むらどりの」 あさだちいにし きみがうへは さやかにききつ おもひしごとく[おもひしものを] 都を早朝発たれた貴方の近況を
はっきりとお聞きいたしました 思った通りお元気であられたと * 「君」は山背王を指す。家持はこの歌を記憶しており、後日ふと思い出して追和を試みたとも。 20 4475;天平勝宝8年11月23日,作者:大原今城,宴席,大伴池主,恋情 [題詞]廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首 天平勝宝八歳十一月二十三日、式部少丞大伴宿禰池主の宅に集ひて飲宴せる歌二首 [左注](右二首兵部大丞大原真人今城) 波都由伎波 知敝尓布里之家 故非之久能 於保加流和礼波 美都々之努波牟 はつゆきは ちへにふりしけ こひしくの おほかるわれは みつつしのはむ 初雪よ 千重に降り敷け
恋しがりの私は それを見ながら想いしのぼう * 「見つつしのはむ」のシノフは「(雪を)賞美する」「遠い人や故人を思慕する」。シノフ対象はこの場にいない人、主人池主ではない。今城の二首の後、挽歌と故人の歌が続くことからすると、この歌も故人を偲んだ歌か。宴の主人池主の亡き主君や近親、あるいは既に死期が近かった諸兄か。 20 4476;天平勝宝8年11月23日,作者:大原今城,植物,大伴池主,宴席,恋情 [題詞](廿三日集於式部少丞大伴宿祢池主之宅飲宴歌二首) [左注]右二首兵部大丞大原真人今城 於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無 おくやまの しきみがはなの なのごとや しくしくきみに こひわたりなむ 奧山の樒という花の名のように
しきりとあの方を慕い続けましょう * 「しきみ」は、平安時代以降まで、仏事専用ではなく、神事用の常磐木である榊(さかき)の一つとされて、神仏両用に使われていた。 * 「君」は敬意を込めた三人称代名詞的(あのお方)にも用いられた。 * 池主は諸兄・奈良麻呂派、今城は光明皇太后・仲麻呂派だったと思われる。<出典・転載[千人万首]等より。> 20 4477;作者:圓方女王,挽歌,悲別,哀悼,奈良,智努女王,伝誦,古歌,大原今城 [題詞]智努女王卒後圓方女王悲傷作歌一首 (智怒(ちぬ)女王の卒後、圓方(まとかた)女王の悲傷歌一首) [左注](右件四首傳讀兵部大丞大原今城) 由布義<理>尓 知杼里乃奈吉志 佐保治乎婆 安良之也之弖牟 美流与之乎奈美 ゆふぎりに ちどりのなきし さほぢをば あらしやしてむ みるよしをなみ 夕霧に千鳥が鳴いていた
あの佐保川の路は荒れてゆくのですね もうお目にかかることも出来ないのです * 圓方女王ー長屋王女。 20 4478;作者:大原櫻井,奈良,序詞,恋歌,大原今城,伝誦,古歌,相聞 [題詞]大原櫻井真人行佐保川邊之時作歌一首 [左注](右件四首傳讀兵部大丞大原今城) 佐保河波尓 許保里和多礼流 宇須良婢乃 宇須伎許己呂乎 和我於毛波奈久尓 佐保川に凍てついて張った薄氷のような
そんな薄い心で思うのではありません * 大原桜井真人はもと桜井王。聖武天皇の若年期における風流侍従の一人。 天平十一年以前、遠江守だった時、聖武天皇と歌を贈答しており(08/1614・1615)親交が窺われる。天平十一年、兄高安王らと共に臣籍に降り、賜姓大原真人。 20 4479;作者:藤原氷上夫人,古歌,伝誦,大原今城,枕詞,恋情,相聞 [題詞]藤原夫人歌一首 [浄御原宮御宇天皇之夫人也 字曰氷上大刀自也] [左注](右件四首傳讀兵部大丞大原今城) 安佐欲比尓 祢能未之奈氣婆 夜伎多知能 刀其己呂毛安礼<波> 於母比加祢都毛 あさよひに ねのみしなけば [やきたちの] とごころもあれは おもひかねつも 朝に夕に 声をたてて泣いてばかりいて
とても気丈な思いでなどいられません * 「藤原夫人」は、天武天皇の夫人氷上大刀自。藤原鎌足の娘。 天武との間に但馬皇女をもうける。 天武十一年(672年)薨ず。 * 「焼き大刀」は、焼き鍛えた大刀。 「焼き大刀の」で、鋭利の意の「利(と)」に掛かる枕詞。 「利心」は、鋭い心、しっかりした心。 20 4480;伝誦,古歌,大原今城,悲嘆 [題詞] [左注]右件四首傳讀兵部大丞大原今城 可之故伎也 安米乃美加度乎 可氣都礼婆 祢能未之奈加由 安佐欲比尓之弖 [作者未詳] かしこきや あめのみかどを かけつれば ねのみしなかゆ あさよひにして 畏れおおくも
天皇陛下に心をお寄せ申し上げたばかりに 声を挙げて泣いています 朝にも夕にも * 「天の御門」は、天皇を遠回しに言う。 * 左注に大原今城の姓(真人)を略しているのは、筆録者が今城自身であることを示す。 * 以上四首のうち三首は死者を悲傷する歌であり、もう一首は今城の親族と想われる故人の歌であり、死者を偲ぶ点で共通しています。これらの歌をこの位置に挿んだのは、前後してこの世を去る聖武天皇・橘諸兄への追悼の意を込めたものではないかと想像されます。<出典・転載(千人万首)等より> 20 4481;天平勝宝9年3月4日,作者:大伴家持,宴席,大原今城,序詞,枕詞,主人讃美,属目 [題詞]三月四日於兵部大丞大原真人今城之宅宴歌一首 [左注]右兵部少輔大伴家持属植椿作 安之比奇能 夜都乎乃都婆吉 都良々々尓 美等母安<可>米也 宇恵弖家流伎美 [あしひきの] やつをのつばき] つらつらに みともあかめや うゑてけるきみ ・・・・・・・・・・
椿をつくづく見ても飽きることがないように 植えたあなたも椿とおなじです ・・・・・・・・・・ * 「椿」の名は「厚葉(あつば)の木」「艶葉(つやば)の木」に由来するといわれる。 * つらつら」は現在でも使われる言葉だが、「ツバキ」を引き出す言葉として用いられている。また、初二句は「つらつらに」の序詞である。 <つばきの歌> 巨勢山(こせやま)の つらつらつばき つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を (今は花のない巨勢山の椿 じっくりと見ながら、花の盛りの巨勢野の春の美しさを偲んでみよう ) 巻一 五四 坂門人足 河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は (川辺に咲く椿をいくら見ても飽かないほど巨勢野の春は美しいものだ) 巻一 五六 春日蔵首老 ( 我が妻を早く見たい、松が生い茂る浜を吹きぬける風よ、大和にいて私を待っている椿の所まで吹いて行ってくれ) 巻一 七三 長皇子 あしひきの 山海石榴咲く 八つ峰(お)越え 鹿(しし)待つ君が 齋ひ妻(いわひづま)かも (、「山ツバキが咲いている山々を越えて、鹿を捕らえて帰って来るのを、妻は無事を祈りつつ待っていることよ) 巻六 一二六二 詠人不知 わが門(かど)の 片山椿 まこと汝(なれ) わが手触れなな 地(つち)に落ちかも (わが家の門辺に咲いている片山ツバキよ、お前は私が手を触れる前に地に落ちてしまうのか) あの子は「私を待っていてくれるだろうか。 巻二十 四四一八 物部広足 奥山の 八峯(やつを)の椿 つばらかに 今日は暮らさね 丈夫(ますらを)の伴(とも) ( 奥深い山々に生えるツバキのように十分にくつろいでください、丈夫(ますらを)たちよ) 巻十九 四一五二 大伴家持 <出典・転載[千人万首]より> |



